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内心に響く“神さまの声”に従う決意をした人々の「とある道」・・・

Posted by 世羽 on 18.2015 語り   0 comments   0 trackback
(独り言)
激動の時のなかでも、いま日本は
しばしの休憩を得ている感。ありがたい。


召命(巡礼者たち)image_convert_20150317011135



あまり語られることもない、
ひとつの「霊性の道」・・・の話をしてみます。



芽生え


ごくふつうに暮らしている人に・・・

召命(子供)image



いつの日か、こんなことが起きるかもしれません。

それは・・・

特定の何かを信じていようと、まったくの無宗教であろうと、
“ある不思議な感情”が芽生えるという「心の動き」です。

この芽生え・・・

「きっかけ」となる出来事は、まったくもって“人それぞれ”で、

たとえば、

とても辛い出来事や困難に遭遇して、
その現実を通り抜けるときに“何らかの超自然的な助け”を感じ、
それに“心の底から感謝した”・・・とか。

単に「理由はわからないけれど、言いしれぬ憧憬を感じる」
・・・とか。

心から信頼に値する、傑出した人物に巡り逢い、
その素晴らしさに感化され、
「同じように生きてみたい」と思う気持ちになった
・・・とか。

召命(もしかして志願者2015)image


はたまた、当初から「神聖な存在」などに
とても興味があって、積極的に近づきたくなった・・・とか。

とにかく、「きっかけ」は、ありとあらゆる形で起こり
千差万別です。

そして、この芽生えがさらに育つと・・・

こうした人たちのなかから、いつしか
「聖性の道を極めようとする道程」を“選ぶ”人が出てきます。

(これは、特定の宗教や信条の種別に関係なく起こりうる)


「聖性の道」を“選ぶ”と言っても、
そこには多少、語弊があって、
ほんとうは“導かれた、招かれた”と言えるものです。

また、“導かれた”と言っても、
導かれる人が「特別に素晴らしい」とか、「特殊だから」などが
必須の条件になっているわけではありません。

ですが、このような人たちは、
自身を導く“表現できない何か”の感覚を心に捉えます。

この感覚・・・

食べてみないと食物の味がわからないように
体験してみて、“それとなく”わかるような
非常に繊細な感覚です。

とはいえ、これもまた、けっして特別なことではなく、
「招き」はつねに、誰にでもあるもの。

とはいえ、

もたらされる「招き」に進んで応える人は
そう多くないでしょう。


召命(新しい待者ウクライナ)image_convert_20150317012739



最小限の聖性を培いながら生きるのは、
ふつうに過ごす日常の暮らしのなかでもできます。


召命(星の道の巡礼者)image


ただ・・・

先の“ごく僅少の人”たちがそれと異なるのは、
彼らが自分の“全存在”をかけて、
より一層の聖性を目指し、
その道を進むことに一生涯、没頭するところです。

自らの“全存在をかけて”まで進みたくなる「この道」
特殊な力を得ることを目的としたり
“物理世界を幸せに生きる”ためにといった理由づけでは
“足を向ける気”にはなりません。

(仮に、そうした現世的な目標が、いくばくかの起因となっても、
長続きしないでしょう)

「この道」を進む人は・・・

重しを身につけたまま泳ぐのが難しいように
自身を曇らせるさまざまな“人間的な重たいもの”
そのままにして生きることより、
それらを捨て去ることを望みます。

かつ「そうして生きるように・・・」
“内なる促し”を覚えるでしょう。


それはまるで、

こまごました内面での霊戦をくぐり抜けつつ、
「この物理世界で、高次の生活を試みている」と言えるものです。


さらに、
「この道」を行く人たちは、

自身を導く存在を心から愛することが大切で、
道を行くにあたっては
自身の力だけでは歩めない・・・と、
心の深いところで知っています。


召命(ノビス)image_convert_20150317010704




神との一致について

「神との一致って何?」

という、問いが発せられているのを見かけることがあります。

実のところ、この問いは、
一口で表現できない多面的な事象を含んでいます。

そのうち、一般的な話題とされるのはおそらく、

存在する霊魂の実体と、その能力を使って、
「どうしたら、人が神のようなものと一致した状態になるのか?」
「それはどのようなものなのか?」


・・・という問いかけではないでしょうか。

だとしたら、知っておくと役立つかもしれないことがあります。

まず・・・

意識的な現実で授かっている諸能力で
「“至高の御者と呼ばれる存在”に一致する」のは、

たとえ、霊妙な神的体験をして「できた!!!」と思えても、
それは一時的な状態に過ぎず、
「この世で“永続的な一致”を維持することはあり得ない」と言えるほど、
易しくないということ。

それが“人の能力のみ”で行うというなら、なおさらで・・・。

また・・・

もしこれが、
「短期間にできる」、「簡単なこと」・・・と説く
教師や霊的存在がいるとしたら、
(たとえ、文明の進んだ異星の民を名乗るソースなどでも)

教えや情報を信じるに足ると判断するまでには、
賢明さ、かつ極めて慎重さを要します。

    参考:ある非常に有名なチャネリング・ソースがいる。
    深遠かつ難解な教えと宇宙について語り、
    精神世界に興味がある人なら多くの人が知る存在だ。
    名前は伏せるが、その書籍を読むと、
    ソースの出現時、部屋の空気が冷えると記載されている。

    見えない存在との体験が多い人ほどおわかりと思うが、
    冷気を伴って登場する霊的な存在で、
    安心して心を許せる存在はまずいない・・・。

    そのような場合には、
    ソースの伝えている内容がどれほど不思議で、
    現代人の知らない事実を伝えていても、
    ほんのわずかなところ、しかも“非常に大切な部分”
    偽りが混じっている可能性を考える必要がある)


召命(星空を見上げて)image


聖なる存在(神)との一致についての一般論・・・


たとえ、この世の最低・最悪な罪人と思える人であっても、
(人としての霊を宿すという意味で)“人間である”なら・・・
どんな人にも、神なる存在は、その人の内に確かに在(ましま)す。

そして、認知されようがされまいが、
視えざる力となり、助けとなっているでしょう。

これは、

「神なる存在」と「人間」とのあいだをつなぐ“一致”にも喩えられ、
人の存在を可能にする“力(パワー)”になっています。

   (人が、太古にどのような遺伝子操作を受けて
    現在の肉体の姿をとっていようと、肉体と、そこに宿る霊魂とを同列にはできない)

したがって、
“巷”で言われる「神との一致」とは、

こうした人に力を与える「神性」
「常に自身の内に宿っている」という“神性の常住”の概念で示されるような、
本質的、あるいは実体的一致を指すというより、

人が、「神聖な至高の存在(神)」との
“愛(エネルギー)の相似性”を持つときにのみ生じる、
「ふだんとは異なる状態になった霊”と“神”との一致」を指し、

人の“霊魂の変容”状態を「神との一致」と捉えているでしょう。


・・・その場合・・・

人が自然に持つ神性が
「本質的な一致」、「実体的な一致」と言えるのに対し、

後者は「相似の一致」とも表現できます。

そして
前者は“自然的な”もの
後者は“超自然的な”ものです。

さらに、後者の「超自然な一致」は、
二つの意志・・・すわなち「人の意志」「神の意志」とが
ひとつになり
人の側で反発するものがまったく無くなるときに生じるもの・・・
と言ってさしつかえないでしょう。

言い換えれば・・・

人を存在せしめる神性に反したりそぐわないものを、
自ら取り除く作業を地道にしていくとき、
はっきりわからなくても、
人の霊魂は、愛によって“高次の状態に変容されていく”
ということです。


召命(神学生の祈り)image_convert_20150317011452



ちなみに、
「何も信じていない、神などいない・・・」と言っている人が
ふと「私は神ではないから・・・」と口にすることもあります。

そのような人は、外面上、
たとえ神の存在を信じておらず、否定していても、
自らの内に抱く“神性”の感覚自体が、
それがどのようなものかを教えているからこそ、
少なからず自覚しているからこそ、そう口にしたのかと・・・。


それはさておき、

この「神との一致」・・・

先に述べた「相似」が近づくほど
超自然的な“一致/変容”も完全になっていきます。

だからこそ、心の傾きを調整する行いなどが
「神との一致」に至る具体的な作業の“一つ”になる・・・
ということになります。


召命(いまどきのカルメリット)image


“真実の”神なる至高の存在が、
人を欺いたり、嘘をつくと思われますか?

そんな存在が
傲(おご)ったり、誰かを見下したり、
悪口を言ったりすると想像できますか?

(実のところ、こうした性質は「至高の存在」の神性に適合しない)


なので、この“物理的な世界”でのみ喩えるならば、
「至高の存在に相似して“一致”すること」・・・
それが「神との一致」と言えるでしょう。

で・・・こうしたことが多少、念頭にあると、

もし誰かが、ひとかどの人物と見なされ、他者を導いているとき、
その人物に、こうした至高の存在の性質にそぐわない性向が
あればあるほど・・・

たとえ多くの信者を抱えるほどのカリスマを持ち、
賛同する他者をたくさん抱えていても、
その人物が至高の存在に遠い人だと見抜けるでしょう。

そして重要な点があって・・・。

神なる存在の声(言葉のように耳に聞こえるという意味ではない)を内に聞いて
それが、まことに・まことに“真性のもの”なら、
その人は、やがて、
「神聖な存在」に似た“清さ”を自身に求めるようになるでしょう。

それは

この世にありながら“超自然的に在る”ための
重要な“霊的促し”のひとつです。

  (「あの人は天使のような人だ」と言われるような人は
   この状態に近いと言える)


召命(アンナと聖母と幼きイエズス)image_convert_20150317010156



先にも述べたように
「この道」を行く人は多くありません。

ですが、そのような人がいることも確かです。

  (繰り返しますが、どんな宗教でも、
   どんな信条を抱く人でも、それが人を善に導くかぎり、
   これは形を変えて起こり得ることです)


召命(神学生の祈り)image_convert_20150317011452


つけ加えると・・・

こうした人たちが順調に進んでいても、
いずれ必ず、
聖性の成長に応じた“幾たび”もの
「精神の暗夜」と呼ばれる状態を体験するでしょう。

神的体験をした人たちがみな、「呼び名」こそ違えど、
こうした“暗夜の体験”を通過していることを
覚えておきたいものです。

召命(道)image




まとめると・・・



人の霊魂は確かに、神の本質から出る神的光で包まれ、
そこには神なる光自身が宿ります。

それは自然なことで・・・
どんな人にも付与されているもの。
人に存在する力を与え、
人が存在することを可能にしているもの・・・。

だからと言って、
人がそのままで、まったく完全に機能しているかどうかは
またということ。

だからこそ、「この道」を行く人たちは
超自然的な力に促されて、
可能なかぎり“超自然的な完全性”に近づくことを望みます。

それは・・・

超自然的な「至高の存在」を知ったがゆえに
その導きに信頼して進もう・・・という勇気と決意、
そして何より、「至高の存在」への“愛”から始まっています。


召命(いまどきのカルメリット)image


これは、けっして我が身のためではなく
この世が創られたときから始まっている道・・・。


こうした道を行くみなさんの道程は、
画一的ではなく、
それぞれの個性をもった、ユニークなものになるでしょう。

「この道」の途上であるときは、
これしか前に進んでいない・・・と思えることもあるでしょうが・・・

恐れず突き進むとき、
時宜に応じて“愛と恩寵の助け”がもたらされ
飛躍の時も迎えるでしょう。

あとは、その波が寄せては引く繰り返し・・・。




「この道」の入り口にいるかもしれない人

召命(小さな奉仕)image



召命(十字架持ちの待者)image_convert_20150317010927


召命(待者たち)image_convert_20150317011717



歩む準備を始めたばかりの人

召命(ウクライナの神学生)image_convert_20150317010516


召命(神学生のひとこま)image




この日、その道へと歩むことを受け入れた人

召命(叙階)image



そして何より

そのほか、

みなさんそれぞれの立場で織りなす
「この世」でのご健闘が


世の一隅を照らす“光”となりますように。



召命(星の道の下で)image


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「祈りの小径」・・・

Posted by 世羽 on 01.2014 語り   1 comments   0 trackback
(つぶやき)
災害現場に赴いてくださるボランティアのみなさんの姿を見るにつけ
むしろ、こちらが癒される。


修飾用(漁師たちベトナム)image



(本日は、“ジレンマ”を乗り越え・・・w、
書きたい・・・と思っていることの一端を記してみたいと・・・)



人は、多くの場合、
何か突発的、かつ究極な事態に晒されたときなど、
口をついて、あるいは心のなかで
「ああ、神さま!!!」・・・と
発することがあったりします。


修飾用(オーマイゴッド)image


もし、何かしらの宗教を奉じていたり、特定の信心対象や、
そのほか、特にきわめて愛する人・・・などが心にあると、
この叫びの「神さま」・・・の部分が、
“別の具体的な名前”になるかもしれません。

(ただ、ここに、何かしらの「物理的な名称」が入ることは、滅多にないでしょう)

また、

誰か・・・とても親しい人・愛する人が重い病気で瀕死の状態になったとき
見守る周囲の人は、何となく・・・だとしても
「何か」に祈ってみたくなったりする場合もあるでしょう。


修飾用(病人のために祈る)image


こうした現れは、人の歴史のなかで、
人から切り離せない一つの衝動として
たとえ無意識のうちになされていても、
人の歩みとともに繋がれてきた
“ごく自然な心の動き”です。


祈りは、長い歴史をもったほとんどの宗教において、
形こそ違えども、当然あるべきものとして扱われてきました。


修飾用(僧侶の祈り)image


ときに

突如として、(先にあげた突発的な例のように)心に浮上したり、
人によっては必要不可欠な行為(日常の祈り)として認識されているわけです。

それは、オスタハウスが言い表しているように

祈るという行為は
けっして、特定の教義や、形式によって規定されるようなものではなく
「祈り」という表現すら必要のない
人にとって自然で当たり前のこと
・・・でしょう。

またそれは、祈る人の心の状態いかんで
ある時には喜びとなり、笑い嘆き嘆願などにもなります。

祈りとはまた、
“方法や時間の長さ”などで定義されるようなものでもなく
その深さは、ひたすら「祈る人の心」しだい・・・。


つまり、祈る人の生き方や、
何かを信じているなら、対象となるものへの信仰の程度にもよります。

それでも、一般的に

他者を深く愛して真理に心を開く人、
生命の言葉を見抜く目
を持っていれば
人生のどこかの時点で必ず、
(もしくはそのような存在)の臨在を心に感じる・・・と言われるのは
確かなことで、祈りは、その“感じ”を促してくれるでしょう。


「祈りは、ある意味、人を一つにまとめるもの。
それは人の知覚、意志、記憶、考え、希望、感情、愛、そのほか
人のうちで働いているすべてものを統合し、同じレベルに置く」


そしてそれは、
人の全存在を一つの方向に向けて、心の焦点を上位の「何か」に合わせること。

この初期においては、
人が、親しい身内、友人たちに自由な心で好きなように語るのに似ています。


修飾用(担ぐ少年)image
   (労働の一つひとつのなかにさえ、祈りを込めることができる)


でも、祈りにはまだまだ先があります。

祈りはまた、
自分の存在の奥底にある
自分自身よりも自分に親しい「何か」を見出すことにもなるのです。


たとえ、実感できないとしても・・・

人の持つ密かな憧憬や夢、興味は、
科学では探知しえない未知の「何か」に向かって
絶えず開こうとしています。

そして、その心の動きのなかで

真実を求め、美や、愛や、正義を求め、
その途上で、何度も“本当の自分の一部”を見出していきます。


この探究の“ことさら深い意味”
実のところ
それが社会的に役立つとか、便利だから・・・ということではないのです。

多くの人は、神のような「何か」を直接体験することはできません。
しかもほとんどの場合、何かは「不在」であるかのようです。

ですが、この現実のただなかにあっても、
その「何か」を感じ、体験することができます。

祈りというのは、それを体験する入り口の“一つ”・・・。

この入り口を通って「何か」を感じる人は
理論や、気持ちすらも超えて、
素朴な素直さに満ちて物事を受け入れる心、沈黙を知る心
育まれます。

そして

今まで自分が捉えていた自身への理解が
独りよがりのものに過ぎない・・・と“悟る”小径へと導かれていくでしょう。


修飾用(少女と小径)image



祈りは、それ自体が成長します。



過去の“幼い祈り”(せがんで、何かを請う「ちょうだい」の祈り)は、

修飾用(幼子の祈り)image



だんだんと“大人の祈り”に変化してきます。
(この過程で、大いなる「何か」の意図に合わせる、それを受け入れることが
できるようになっていく)


修飾用(草の上で)image



そんななかで

あわせて心も成長していくと、
人は、自らの“醜い(と感じる)部分に直面することもあります。

このとき、真理というものが
容赦のない“浄め”として感じる人もいるでしょう。

すると、すべてが沈黙したかのように感じられて
まるで、水のない砂漠に放り出されたかのようです。

その浄めは、暗い夜、心の地獄であるかのように思え
そこから逃避することだけが頭に浮かぶかもしれません。

そのときこそ、「祈り」の力が助けとなります。

こうした経過は、体験して初めて附に落ちる部分が多いので
言葉で言い表すには、難しさが残ります。

しかし、そうした(一度ならず、何度も来る)体験をしていくと

人は、自己中心的に偏ったがために成してしまった
無責任な行いなども、自ら正す方向へ進んでいくでしょう。

しかも、
物事の真偽を見極める感性も同時に成長していくでしょう。

そして・・・

    「理解したと思えば、もうそれは神ではない」
                          ―――カスティヨ―――

の言葉のごとく・・・


祈りが成長するにしたがって人は、
自分が“もう捉えた・・・と思う神(もしくは「何か」)を超えて
けっして知ることも、自分の思い通りにもならない“大きな存在”に向かって
さらに進んでいくことになるでしょう。


修飾用(大いなるふところへ)image



もし、みなさんが
そんな「祈りの小径」を歩んでおられるなら・・・


その歩みのなかに、いつも
「大いなる栄光」の希望が満ち溢れますように・・・。



修飾用(子供たちのシルエット)image



たとえば「先視の人たち」が言いたかったことの先・・・

Posted by 世羽 on 27.2014 語り   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
フィリピン、インド・・・中国以前に気になる・・・・・・と、
とりあえずつぶやいておこう。


自然の情景(夕陽のなかの人馬)image


古今東西、これまで
実に色々な「予測」、「先視」が溢れてきました。

ピンからキリまで・・・。


20世紀の中頃には
「未来学」と呼ばれるものも登場しました。

   (未来学・・・。
    未来をあらかじめ「好ましい方向に限定していく」ことを目的とした
    思考態度のひとつ。
    科学や技術を利用すれば、“未来の出来事を転換できる”・・・という認識のもと、
    あらゆる学問分野の潜在的な可能性と経験をフルに活用して、
    これまでの習慣的な事象への先入観で制限を加えるようなことなく
    未来の様相を検討していく。これにあたっては“数学モデル”も併用する)


で・・・

当初、この未来学を追っていた先駆者たちが、
指摘していたことがあって・・・いまでも通じる感があります。


まとめると、こんなことです。

「現在の文明は、気づかないうちに人類を一種の集団自殺へと導いている。
これを回避する唯一の道があるとしたら、
それは、あらゆるものが工業化された以前の社会構造へ、
いったん戻すことだ。

つまり、技術開発や環境を破壊するような“便利な品々”を大幅に削減し、
単一的な栽培をするような農業のやり方を改めて、
大都市圏を縮小する・・・といったことだ。


ある種の“徹底的に改革された社会”
すなわち、現行の価値観と完全に異なる価値観を構築しないかぎり、
これからの未来はかなり暗澹たるものとなる可能性がきわめて高い。

だからこそ、人類の力の“増大化”を一端中止し、
生物圏の支配や、科学技術行動の押しつけに全精力と関心を費やすのをやめて、
自分自身、あるいは対人関係の巧みなコントロールにそそぐことが必要だ。

これこそが、
あらゆる“哲学や宗教”が昔から繰り返し説いてきたことではなかったか。
そのことはいま、ほとんどの人々に明白になってきているはずだ」



さらに、先駆者のみなさんが言っていたのは
「こうした“見解”を本気で追求しはじめたとしても、
少なくとも約20年はかかる試算になる」・・・ということで。

本当は、2000年が始まる前までにそうできるように・・・との提言だったのですが、
さて、いまはどんなでしょう・・・。



地球の情景(薄もやのなかで)image



すぐる数十年前、すでに

移りゆく事象の“基本要素”を200ばかり選び出し、
それらを投入した480におよぶ方程式を駆使して解析がなされた結果が
こうでした。

「あらゆる事態が成り行きのまま過ぎていく・・・というのではなく
仮に、2000年を過ぎたあたりで、ようやく
“何かしら具体的な方策”が立てられて
改善のための“さまざまな強制手段”がとられたとしても


 ・天然資源
 ・人口
 ・一人当たりの工業生産物
 ・環境汚染


についてのグラフ曲線が“2000年から2030年”にかけて“急落”を見せる」


いま起きている自然災害や病気、
戦争や事故を含む人的災害を眺めてみると、
上記の指摘は、まだ続いていそうだ・・・と
漠然とした感覚であっても、それなりに感じとれるかもしれません。


地球の情景(隔離の情景)image


一方で・・・


今世紀までには、“先視の人々”が残した著名なヴィジョンだけでも200以上にのぼる
ものがあり、そのうちの一つに
「無名の修道士の予言」(17世紀)などもあります。

この予言は、先の二つの大戦を言い表していたことで知られていますが
その後に来る「何か」についても言い残していました。
(研究者によっては、三つ目の大戦のことだ・・・と言う人も)


「富や財産が大いなる災難に遭って、多くの涙が流されるだろう。
人々は“憐れみの心”を失って薄情者となる。
“毒に満ちた雲”、
赤道に輝く灼熱の太陽より熱い強力な光、
恐ろしい砲弾や矢玉を満載した移動する鉄製の要塞や空飛ぶ軍艦、
死をもたらす流れ星、
そして硫黄を含んだ火が大都市を破壊するだろう。
この世紀
(事がおきる時代をさす)は、あらゆる世紀のなかで最も奇怪な世紀となる。
なぜならすべての人間が、
自分自身と現世的なことに熱中し、互いに殺し合いもするからだ」



さらに
18世紀の修道女ジャンヌ・ル・ロワイユもこんなことを書き残しました。


「審判の下る日の訪れが、その世紀の終わりごろになるか、
あるいは2000年に始まる世紀中になるか、私にはわからないままにされました・・・。

けれども・・・
神から光を受けて“私が目撃した”ような審判が、
もし1900年に始まる世紀に訪れるとしたら、
その世紀の終わりごろでしょうし、
もしその世紀が最後まで過ぎてしまったら、
つぎの世紀
(2000年代という今)が過ぎないうちに訪れるでしょう。

それよりだいぶ前、
キリストの前表
(キリストの前に現れるとされる者)が登場するずっと以前に、
世界は“一連の”血なまぐさい戦争に苦しむでしょう。


いま告げたことに加えて、
私には大地があちこちで
(尋常ではなく)揺れることもわかっています」



一見すると、“暗い”と思える先視ですが・・・。

これらは回避できる方法を示唆しています。

つまり、著名な先視のほぼすべてが
そうならないための生き方や心の在り方が、どういうものであればいいか・・・
という答えを含んでいるからです。

「先視」の真値は、
苦難を回避できる方向へと変える手だてを含んでいるところにあるわけで・・・。

仮に、その手だてが実行され、
短期・長期を問わず、「先視」がはずれる形になって、
それで嘲笑されようが、罵倒されようが
「真性の先視の者」たちは、屁とも思わないでしょうし、
かえって、ハズレたことに安堵できる魂の逸材です。

であれば、

「先視の人」たちが視た未来を真摯に受け止めて
そのビジョンがハズレをかます未来を創り出すことを
本気で目指すにこしたことはありません。


地球のひとつの情景image


そして・・・

現在の未来学の(イギリスの未来学派での)議論のひとつに
面白いものがあります。

それは、「宗教の代用の成長」というものです。

いま人は、「良い」と感じられるものを強く求めている。
しかし、一方で、この世的な社会は
倫理的価値のための一定の基準として機能する宗教的なテキスト、
あるいは、それがすぐに発揮できるような、定まった基準点を持っているとは言えない。

(そこにはひと言では言えない、複雑な要素が絡みあっている)

今日、購読されたりして広がる「人間の行動を左右する根本概念」(イデオロギー)の一部は、本質的に
宗教のための“世俗的な代替物”であって、
それらの多くは、一見良いように見えて
知識の成長に停止を加える可能性をはらんでいる。

その場合の傾向は、「ナンセンスな信念の台頭」とも呼ぶことができて
それは
ニューエイジ、代替医療、代替科学、21世紀の信心深さ、政治的な正しさ
ファッション、セレブ、テレビ文化、スポーツ、ゲームなど、
諸種の要素に見出すことができる。

これらが度をこして進むと
社会的なコンプライアンス(命令や要求に従うこと)への追求から、
だとわかっているものでも、知られた事実として、
それを信じるように促されてしまう。

そして人は、これらを安易に受け入れ過ぎるなら、
依然、それは宗教の代替物と同じで、自由な発想と論理的な推論を押しとどめる結果を招き、
しかも、場合によっては、無知よりも悪い状態に陥る結果を招く。

するとこのとき、「反・知識」の曲線は加速して、「知識」のカーブを追い越してしまう。

なのでそこには、「知識」と「反・知識」の間の競争のようなものが生まれている。



未来の情景(グラフ)image



うまく説明出来ずに申し訳ありませんが
何とか、読み取っていただければ・・・。


そして、いま

世界で起きていること・・・戦争や病気・・・貧困などなど、
それらに直面している人たちがいます。

仮に、彼らの生活形態が杜撰なものに見えるとしても
また、彼ら自身のなかに、そうならざるを得なかった痛みを抱いていたとしても
みなが、同じ星の上に生きる人たちです。

西アフリカにしても・・・現状は厳しいものがあります。

痛い画像ですが、あえて少し、お付き合いください。



先日ウェスト・ポイントが封鎖されたとき、治安部隊の発砲もありました。
一人が死亡、この少年は足を怪我しています。

地球の情景(ウェストポイントでの封鎖による発砲)image_convert_20140826225454



住民とのにらみ合いがあり・・・

地球の情景(ウエストポイントのにらみ合い)image



各種のバリケードが築かれて、人々は隔離されました。

地球の情景(リベリアの感染地区封鎖2)image_convert_20140826230053



でも、水や食糧は十分ではなく、配給を待たされ、投げ込まれているのは
ほんのわずかな水の小袋です。

地球の情景(ウエストポイントの隔離壁)image


地球の情景(リベリアの隔離鉄条網2014年8月22日)image_convert_20140826232216




何を信じている方たちかわかりませんが、祈っているようです。

地球の情景(モンロビアのビーチで祈る人2)image_convert_20140826225853



地球の情景(モンロビアのビーチで祈る人)image



こうした人々を含んでこその、未来だとしたら・・・



現実を変える「力」に一足早く気づいた人たちこそ、
それぞれの道の上で、
我よし・・・に徹するのみならず、他者のためにも
より多くの意識を向けていく真剣さが必要とされることでしょう。


ご存じのとおり、この「力」
本来、万人に宿っているわけで
誰もが、小さなことからそれを使えます。


地球の情景(蝶の飛翔)image


まったく関係ないように感じるかもしれませんが・・・

もし、ある日、“無用な”激情から誰かをぶん殴りそうになって、
振り上げた手を、落ち着いて、意識的に降ろせたなら
世界のどこかでの砲撃が一つ少なくなる・・・。


もし、ある日、誰かを馬鹿にする心を強い意図をもって消せたなら
どこかの国の誰かの心にもそれが届く・・・。


それは・・・小さくとも高貴な、人間の持つ“神性の勝利”です。


地球の情景(ベトナムの牧歌抒情)image



そんな、人に宿る尊い力、神性が、
こうした“悲惨な場面に変化を与えることにこそ”用いられるようになれば・・・
未来の変わる余地はきっと増える・・・。


ちょっぴり切なくもありますが、美しい地球の情景に想いを馳せながら
そう願っています。


地球のひとつの情景image



善き日々を・・・・・。

地球の情景(のどかな日暮れ)image



せめて気持ちは「ほのぼの」と・・・

Posted by 世羽 on 31.2014 語り   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
たとえ、少し早めに書いたとしても
伝えたい人に伝えられるはずもなく(意味不明なぼやきとは想うが)。


ほのぼの(太陽の奇跡)image




世間が“あまり心に痛い報道”に限度を超えて集中し過ぎると
境界線を彷徨っているつぎの“連鎖を呼ぶ”ことになりかねない
・・・と想うので。
少しでも「ほのぼの」感を織り交ぜつつ・・・。


ほのぼの(MonkeyOrchid)image




世間ではときおり、
巷を騒然とさせる“何とも言い難い”ことが起きます。


ほのぼの(怖ろしげなようでそうでもない)image



出来事が起きるたびに
人それぞれが、色んなことを想い、気づきます。


そんななか、
人が “忘れていないようで”忘れ去っていることがあって。


どれほど“重篤な心の病”を持つ人がいても、
“霊的におかしくなっている人”を抱えようとも
家族というのは大切・・・ということです。


でも、

他の生き物にくらべ、飛び抜けて知恵も高い人なのに
どうして、こうも
他の生き物のほうが立派に見えるときがあるのでしょう。


ほのぼの(象さんの子育て)image



人は、たとえ親であっても
知らずしらずのうちに子供に「見返り」を求め、
「今までこれだけしてやったのに・・・」と言ったりします。
ときには、度を超えて無関心になったりも。


それは、愛し合って結婚した男女にも言えて
甘い季節を過ぎるといつしか、心のバトルが生じ始め
些細なことで大喧嘩に発展していきます。

ときに、“必要な”忍耐を疎んじ
あまりに自分の好き勝手にしたことが招いたことなど
これっぽちも振り返ることなく・・・。


そういうとき、傍らでこんなことを言われていても、
ほとんど耳に入りません。


ほのぼの(そろそろご飯を)image



自分が最優先で、周囲などどうでもよくなってしまう・・・。


しかも・・・近頃では、
「すべてが許される」という精神世界的な意味
“何をしてもいい”と曲解されるあまり・・・

人が人として生きるのに“最低限必要な”倫理や道理さえも、
「自由」の名を盾に、軽んじる傾向があります。

「ならぬことはならぬ」ということを、早い段階で
“愛情と勇気”双方の心を持って進言できる人も少なくなりました。
何かしらの前兆に、気づける人も少ない。


(今回の悲惨な事件で命を奪われた被害者の少女は、別の一部の人たちからの
密かな虐めもあったのではないでしょうか。
でも、そんなこと、まるでなかったかのようです。
学校は事件について“信じられない”・・・と言うだけで)


生き物の世界では
生きるための捕食行為が、一見、残酷に見えます。
けれどもそれは、「楽しみ」のためにしているわけではありません。
生命を奪うのは“必要不可欠ゆえ”のことです。

たまに、餌になりそうなものをいたぶるように見えるとしても
それは、狩猟のための「練習」に代わるものです。

なので、生命を満たす必要がなければ
別の風景が生まれます。


ほのぼの(異種間停戦)image




他の生き物“同士”が暖かく寄り添えるなら


ほのぼの(優しい友達)image





他の生き物が「無償の愛情」で人に寄り添えるなら


ほのぼの(みさおとふくまるより)image




人が「人」に寄り添うことも
人が「他の生き物」に寄り添うことも、
本当は、もっと出来るはず・・・。



ほのぼの(救助されたコアラ)image


ほのぼの(救助されたワンコ)image



でも、その気持ちは、書物や知識だけでは生まれません。
体感がどうしても必要です。
いまは、その場が不足しています。



ごくふつうの人が何か素敵な光景を見て
「うわあ」と、“心からの感動”を覚えるとしたら

結局のところそれは、
心の深い部分からの招きであり、教えでもあって
それは人の向かうべき“高み”でもあるでしょう。


どうせなら、その高みに至る心を培う生き方へと
みなで進んで行きたいものです。


ほのぼの(みさおお婆ちゃんと福丸)image



ほのぼの(象さんと少女)image



とは言え、日常ではこれからも
幾度となく「あらら」という場面には出くわすでしょう。



ほのぼの(無理矢理か)image



ほのぼの(ボケて馬鹿にする猫)image



ほのぼの(ネコのひとこと)image



けれども、

心の促しを感じて、少しずつでも情感などを育む日々を送っていると、
同じ類に見える光景であっても、
以前とはどこか違う、
さらに“温かな光景”が現れ始めるでしょう。
そして心には、より深い、優しい気持ちが生まれていきます。


ついでに、ちょっとつぶやくと・・・
こんな御仁が世間にいるかもしれません。


ほのぼの(実は)image



ただ、「実は自分は・・・だ」と言うとき
人は自分でも気づかぬうちに、
ちょっぴり他の人を下に見ているかもしれません。


どんなに優れた能力や才能があって、
大成功したり、人を魅了する業が行えたとしても、
どこか冷えた印象を持つ人もいます。

それはつまり、

知識や能力の突出が
必ずしも、人の意識の高さを定めるものではなく
むしろ、それだけでは足りず

そこに「愛の情感」が織り込まれてこそ、人として完成を見る・・・
ということのでしょう。



で、とある聖人がこんなことを言っていました。

  「大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく
   どれだけ心をこめたかです」



これは、あまりに“小さなこと”に映るので、忘れ去られがちですが・・・

恋人や連れ合い、またお子さんと生きるとき、
同僚・友人たちと共にすごすとき
顧客に接するとき・・・そのほかありとあらゆる場面で
頻繁にそれが可能になれば

荒んだものが大きく変化するでしょう。



ほのぼの(ウサギの傍で掃除)image



かくいう自分ももちろんのこと・・・

多くの人に、
さらなる“優しくも涼やかな潤い”
心に満ち溢れるといいですね。



ほのぼの(緑の滝)image



「数字」とかも超えて・・・

Posted by 世羽 on 13.2014 語り   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
政治の暗い面を追って、東京湾とかに浮かぶようなことにならないかぎり
ブンヤはけっこう、これぞ・・・というネタをしつこく追う。
あの「論文騒ぎ」の裏話もしかりで、
世に出ている情報は、かなり鋭いところをついている。
(ネットのほうが早かったが)

いよいよNatureサイドも、独自の検討が済み次第
結論を出すようだ。
もし「強制撤回」宣告ともなれば、撤回を拒む研究者の名前は
さらに世界に示される。

結末は・・・いかに。


オーロラ慕情的なimage



以前、
人の脳について、ちょこっと書きました。

そのとき、
脳が、とある情報を定着するのに1週間(7日)かかる場合の
小さな実例をあげました。

そして、人が願掛けをしたり、祈ったり
短期間の修行をする目安として設定されている日数にも関連が・・・
というような内容をメモし

そうした日数が、世界的に
3日、7日、9日、21日などと、
およそ相通じる数がある・・・などと、つぶやきました。

で・・・「7日」以外の日数については、いずれ・・・と
書いたまま、ほっぽり投げてあったので
そこらを少し。


*****


この地球には、
失われた叡智の一端として
はっきりとした理由がわからないまま、
結果を利用しているものが、けっこうあったりします。

多くの宗教や神秘思想において、古くから伝えられてきた、
「数字のもつ意味」なども
その一つと言えるでしょう。

数秘術などは、そんな叡智が応用され
人のわかる範囲で、ある程度、
体系化されています。
有名どころだと
「カバラ」における数秘術などは、多くの人が知るものです。


思想的な背景や、地域、その他の要因によって
こうした手法や体系には
少しずつ異なる意味や捉え方があり、
「数」に対応する意味の具体例も、微妙に違っていたりします。

仮に、

そうしたなかで、比較的主要となる形を取り出して
記すと、こんなふうに説明できたりします。



   ・・・・・統一、一なるもの。
   ・・・・・生産、発生
   ・・・・・完全、無条件、完璧
   ・・・・・肉体性、地上性
   ・・・・・端緒、導き手、霊的参入
   ・・・・・準備、霊的不完全性
          ただし、2×3とすると「好ましい」意味になる
   ・・・・・不滅、霊的完全性
   ・・・・・再生
          ただし、2×4とすると「まあ・まあ良い」
   ・・・・・完全なる完璧性
  10・・・・永遠、黄金時代、救世主の時代
          2×5「至福の時代が新たな霊的参入を生む」
  12・・・・すべての人類、真の人間
          ただし、2×6だと「人間の不完全性」
              3×4だと「地上の完全性」

  25・・・・救世主の出現、偉大なる霊的参入
  99・・・・終焉
 100・・・・究極の報酬と貢献
1000・・・・10と同じ意味
   π・・・・・永遠、神、霊魂




こうした数字の意味は
「なぜ」・・・という説明が欠落しているところがあり
掘り下げて説明されることがあっても
それはそれで、人の思想的な解釈の域を出るものでもなく・・・。


そんなことを踏まえつつ、
改めて、先の「注目する日数」の意味を取り出すと

  ・・・・・完全、無条件、完璧
  ・・・・・完全なる完璧性
  ・・・・・不滅、霊的完全性
 21・・・・3×7、7×3



こうして見ると、

人は昔から、
願いや祈り、
また、心と魂を磨く修行にあたって
いわゆる、「神聖な標語を伴う数」
「縁」を求めていた様子が見てとれます。

また、実際に
新しい情報を定着させる期間に
「7日」程度を要する場合があるとして

それをトリプル(7×3=21日間)で行うことは、
情報を、より確実に定着させる行動としても
また、霊的な感触で捉えるにしても
けっこう納得がいくものです。

さらに、
「9日間の祈り」なども
完全なる“完璧性”に向かい
3×3の作業を行っていることを考えれば
「なるほどな」と想えます。

注:満願時、それが現実となるかどうかは、また別です)

感覚として
気づいている方もおられるかもしれませんが
何か、心にダメージを受ける出来事に遭遇し、
絶望や悲嘆にくれる状態に陥ったとしても

ごく通常の人であれば、
3日ほどすぎると、案外、心は元に戻ろうとし始め、
喉も通らなかった食事ができるようになったり
他者の言葉を受け入れることができるようになると思います。

これは、
人性のレベルにおける
3日目の「心的復活」
と言えるかもしれません。


ナンバー(とあるサイコロな)image


余談ですが・・・

巷でよく名前を目にするく弥勒・・・
この名称が数字で表示されていることがあります。

そのうち「567」の表示をとりあげると
それぞれの数字は

 ・・・・・端緒、導き手、霊的参入
 ・・・・・準備、霊的不完全性
 ・・・・・不滅、霊的完全性


となります。


すると、表面的な捉え方ではありますが

「導き手が霊的参入し、準備を整え、霊的不完全性を
 不滅の、霊的完全性へと導く・・・」


という流れが推測でき

5と7の間に挟まれた「6」は人間だな・・・とも読める。


仮にそうした見方をしてみると

ガウタマ・シッダールタ入滅後、
56億7000万年後の未来に姿を現し、
多くの人々を救済する・・・という意味は

古の識者「意識の移行」について
隠喩をもって言い表した可能性
想起できたりします。

なので、先日書いたように、

古今東西の色々な「霊的書物」には
ただ単に、言葉だけではなく、
意識的にも、無意識的にも
隠された意味があるかもしれない・・・というわけです。


数字によって
色々と分解できるものは多くありますし
複数桁の数字の意味も、
その時々の“分解の仕方や解釈”によって
別の意味をなしたりします。

なので、当然のことながら、

読み方は、“複数”存在することが可能であり・・・。
上記の「弥勒」の数字表現にしても
それは、人から見た、ひとつの表現方法にすぎません。

ちなみに、聖書などでも色々数字が出てきます。
しかし、それらのなかには、
単位が「キュビット」で表現されたりと
現代感覚では、即座に読み取れない場合が多々あり
もし、どこかに何かしらの隠喩があったとしても
一筋縄ではいきません。

話がかなり脱線してしまいました。


伝統的な“願掛け日数”や“修行日数”などには
科学的に、ある程度の検証が成り立つ部分と
いわゆる「神秘思想」のみに裏打ちされて成立した方法論が
混在しています。

そこにはまた
古から伝統によって確立されてきた「実績」もある。



ナンバーimage



で・・・


こうした内容を書くと

色々な出来事に数字を使って意味を探ったり
自分の名前を何かしらの手法で数字転換して
一喜一憂する方もおられるかと・・・。

でも、

人が最終的に目指すものは
そこにはなく



たとえ、いかなる手法が
ある程度の“神秘的要素”を宿すものであっても
それは、人をおおまかな「分類の枠」にとどめます。



霊性の王道とは
その「枠」すらも超えていくこと。



たとえ、人生の一時期
こうした“数に意味を求める日”があったとしても


人はこれらの「枠」をも超越し
自分という存在そのものが
提示された「意味」すらも超越できる力を有している・・・。


それを知る時が、いつか来るでしょう。



生きる指針を決めるとき

より大きな意志に沿った
自らの“生きるにあたっての正しい意図と勇気”が
何にも勝る・・・



それを
心の底から実感できたなら・・・

さらにその先へと
邁進することが可能になるでしょう。






本日、和んだショット・・・。

本日のベストショットimage





  

プロフィール

世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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