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「本土空襲」のいくつかの情景・・・

Posted by 世羽 on 09.2015 歴史もの   0 comments   0 trackback
(独り言)
先日、中国人の出産ビジネスが横行し、
サイパンなどでは新生児の75%が中国人という報道がされていた。
主旨は“米国籍取得のため”とされていたが、はたしてそれだけか。

米・本土のみならず
サイパンに足を運ぶ中国人が多いという点は気になる。

中国政府がこうした行為を止めようと思えば、すぐにでも「禁止」できる。
それをしないということは見て見ないふりをしているということ。

この地は、中国が世界制覇の構想上で設けた第2列島線の上にある。
中国軍部による超・長期展望の“しかけ”が続いている感じだ。

空襲(中国列島線地図)image


そして第1列島線あたり・・・
まさに情報戦の真っ最中だが、残念なことにやられっぱなしの体。


・・・と、下の動きはさしたる表出がないまま、続行中。

(本文は以下から・・・)



空襲(修飾画像燃える夜空)image_convert_20150308234641



戦後70年・・・。


某・新聞に東京大空襲の話が載っていたことから、
ある人と戦争の話になり、
そのあとで、かつて自身が聞いた話しを想い出しました。


東京大空襲のとき


昭和20年(1945年)の3月10日は、俗に言う東京大空襲があった日です。
(このほかにも、東京周辺の空襲は何度も起きている)


自分の身内にも、東京・深川近傍でこの大空襲に遭遇し、
猛火のなか、逃げたくても逃げられず、
とある防空壕で身を潜めるしかなかった・・・にもかかわらず、
“生き延びた者”がいます。

雨アラレと降り注ぐ焼夷弾・・・。

たとえ家屋の下に掘っていた防空壕に逃げ込んでも
そこを直撃されて、落命者を出した場所は無数でした。

そんななか、“その人”がいた場所は幸いなことに被弾を免れ、
火にまかれることもなく、無傷で助かった・・・
本当に奇跡でした。

もし、“その人”が生きのびていなければ
自分はその血統に連なることもなかったですw。

以前、親戚のように懇意にしていた中国人のことを記したことがありますが、
その方のご家族は、このときの大空襲を生き延びて
のちの苦境を“助け合った”者どうし・・・です。

ちなみに、この中国人のご家族が日本にやって来たとき、
「『日本はなんていい所なんだ!』と思った」と話していたとか。


で・・・

東京大空襲について、真っ先に“個人的”に心に浮かぶ逸話と言えば、
横川国民学校付近の話でしょうか。

関東大震災後、東京の公立学校では、
順次、鉄筋コンクリート製へと建て替えが進んでおり、
横川国民学校も、一応そんな校舎だったようです。

米軍の空襲は3月10日、日付が変わったころから始まります。

飛来したB29からは空前絶後の数の焼夷弾(M69)が投下されました。
(このB29の飛来する音は「ほんとうに不気味だった」そうです)


  空襲(B29の爆撃)image
   (イメージ)

投下された「M69」
ナパームと呼ばれるゼリー状の油脂ガソリンを用いています。

木造家屋の屋根など、いとも容易く突き破って落下して来るのですが、
建造物を突き破ると時限式導火線が発火します。

そして5秒ほどのあいだにナパーム油脂に引火します。
すると、瞬時に約30メートル四方にそれが撒き散らされて
辺りが一気に“火の海”と化します。

空襲当日は風が強く、火の燃え広がり方の速さもハンパなくて、
30分もたたないうちに、火は広範囲に広がりました。

逃げ場を失った多くの人が落命したことは、周知の通りです。

空襲(東京大空襲kanoteruo作)image
(kano teruo作)


その、横川国民学校の敷地や校舎にも火が移ります。
ここには最終的に、1000人を超す人々が避難していたと
伝えられています。

当時、学校教員で宿直していた井上有一氏は猛火の様子をこう語っています。

「犠牲者の屍は炭化し、熱でおなかが炸裂するほど。
胎児が露出してしまった妊婦さんもいた」



ナパーム油脂の燃焼温度は、「1315℃」の高温です。

“ごくふつう”の木造の建物や家財なら「約700℃」ほどで着火します。
また、鉄骨材に用いられる鉄の融点は約1535℃・・・。

つまり、焼夷弾のナパーム油脂は、鉄を溶かすほどの高温になるものでした。

しかも、空襲時には多数の建物が類焼していたため、
その輻射熱もあわさって、
火災時の大気は場所によって
数千度にも達していただろう・・・とされています。


空襲(夜間の日本)image


ですから、焼夷弾に直接やられていない人間や動物、家や物が
高熱を受けて発火する現象も生じていました。
「火の海の中を逃げている人の“防空頭巾”も発火した」との証言もあります。

(で・・・自分の身内が“奇跡的に”助かったというのは、そんなわけです)


     空襲(動物も犠牲に)image


B29は1機につき、
最大で3840発にものぼる爆弾が搭載可能だったと言われています。

東京大空襲では、1機あたり少なくとも1000数百発以上を搭載してたとのこと。

米軍は、空襲ごとに爆撃照準点を定め、
爆撃地によっては、約15メートル間隔で焼夷弾が落下するよう
“投下間隔管制装置”を作動させていました。
そして低空飛行を行い、より正確に焼夷弾を投下できるようにしていたのです。

余談:米軍さんにとっても、これは命がけだった。
低空で飛べば、高射砲の的になりやすい。
また、飛来するための燃料調整や、爆弾の積載重量のコントロールのために、
自国機を護る弾薬などの守備能力が著しく下げられていた)



空襲(東京大空襲)image



作家・小林美代子氏の自伝小説『繭(まゆ)となった女』には
この横川国民学校の様子が描かれました。
概要をお伝えすると・・・)

ある女性が横川小学校の講堂に逃げ込んだとき、
そこには既に500人ほどの人々がいて、外は火の海でした。
みなが「もう駄目だ」と覚悟を決めていたころ・・・。


その場にいた将校が叫びました。

「まわりは火に囲まれてしまった。表は全滅だ。
扉の前も炎の海で開けることが出来ない。
自分たちでここを守る以外、生きられない!」


皆は、その声に促されるように
吹き込んでくる火の粉を消しにかかります。


しかし、労も空しく、2階部分に火がまわります。

将校がまた叫びました。
「決死隊の第二陣出ろ! 出るものはいないか、若い者出て来い」


そのときすでに、
講堂の校庭に面した防火用水池の向こうは火の海でした。

それでも、若い男が1名、校庭に面した窓から外に飛び下ります。
5~6人がそれに続きました。

用水池から1メートルほどのところでは、
赤い手押しポンプを使って2階への放水がされていましたが、
紅蓮の炎の中での放水は、あまりに弱々しいものでした。

そのうち、低空を飛ぶB29から油脂弾か焼夷弾が投下されます。

ホースを握っていた一人が直撃を受けて、人形の焔となって倒れました。



小林美代子氏はこう書いています。

「この若者にとって、
われわれ全員の命より、自分の命が尊いはずだし、
少なくとも同じ重さの命であった。

私はその若者が
生き残った私たちの身代わりの、キリストの分身のように思えた」

(小林美代子:講談社:昭和47年)


今でこそ、たとえ戦争と言えども
市民への爆撃・攻撃は厳しく糾弾されます。
しかし、当時の日本は、
そんなことおかまいなしの攻撃にさらされていました。


空襲(逃げる人)image_convert_20150308235530




静岡大空襲


終戦間近になると、本土では、あちこちが爆撃されていました。

東京大空襲(3月10日)ののち、
12日・名古屋、13日・大阪、17日・神戸と、
米軍による主要都市爆撃がつづき、
ターゲットは地方都市へも移って行きます。

これら“名だたる大都市の空襲”の話に隠れてあまり語られませんが
静岡などもかなりの爆撃を食らっています。

たまたま体験者が自分の身内にいて、この時の様子を聞いています。


それまでも、近傍に空襲を受けていた静岡周辺ですが
昭和20年6月19日の深夜、
B29(137機)による大規模な空襲が始まります。
爆撃は20日の未明まで続きました。


空襲(静岡大空襲絵画)image_convert_20150308235259


この空襲を体験した身内の1人(男性)は当時、学生でした。

下宿先の隣家を挟んだ向こう側に焼夷弾が落ち、
あっと言うまに火の手があがったのを見て呆然としたそうです。

隣家の住人は空襲警報とともに、鉄製の蓋がついた防空壕に逃げ込んでいましたが、
火の手がその隣家を飲み込もうとしていました。

隣家全体が焼けることは必然です。
そのままにしていれば、せっかく防空壕に避難した人たちも焼死してしまいます。

成り行きを察知した彼は、咄嗟に隣家に行き、
防空壕の蓋をガンガン叩いて叫びます。

「火がまわってしまいますよ!!! 逃げてください!!!」

そう伝えるだけで精一杯だった彼は、
下宿に飛んで帰って勉強道具を持ち出そうとしたのですが、
すべては、もちろん無理です。
で、無我夢中で両方のポケットに英語とドイツ語の辞書を突っ込み
逃げ出しました。

外を見やると、そこら中に爆煙が立ち上って視界も悪く、
それでも、その爆煙を突き通すように、
いたるところに真っ赤な焔が上がっているのが見えました。

逃げまどう人々・・・。

そのなかには、親からはぐれたのか何人もの子供の集団がいて、
このうち年長の少女が彼を見て
「お兄ちゃん、助けてください!!!」と泣いて訴えてきました。

辺りは火が回ってきてどうしようもなく熱い。

一瞬の判断でしたが、傍に流れていた川で子供たちの身体を川の水につけて
「わかった・・・。大丈夫。僕のベルトにつかまって!!!」
と少女に言います。

すると、他の子供たちもつぎつぎと、数珠つなぎに彼に連なりました。

どこをどう逃げたのかわかりませんが
なんとか火の手をやり過ごし、安全と思われる草地までたどり着いたとき、
そこには乳飲み子を抱えた母子なども逃げてきていました。

一安心と思ったそのとき、
近くに焼夷弾が落ちてくるのが見えました。


   空襲(投下されるもの)image
  (とある投下の様子)


「うわ~~っ!!!」・・・と思っていると
焼夷弾の一部が爆発せずに家の壁にぶつかり、
それが通りかかった見知らぬ男の人を直撃しました。
即死でした。
この男の人はこともあろうに、無事に逃げてきた母子のご主人でした。

この日、彼と子供たちは、
夜が明けるまで、身を潜めるようにして時を過ごしました。

空爆も止んで朝になり、子供たちに「これからどうするの?」と聞くと、
みなが一様に「家に戻る」と言いました。

「戻れるの?」と聞くと
「道はわかるから・・・」
そう言って、それぞれが自宅を目指して帰っていったそうです。

しかしこのとき、市街地辺りはほとんど焼け野原状態だった・・・。


空襲(静岡大空襲)image


1人になった彼は、その後、山側に住む叔母さんの家に向かいます。
道のあちこちには、無惨な姿で倒れ伏す人々(亡くなっている人)がいました。

そのなかで・・・
犬を胸に抱いて綺麗な顔のまま屈むように亡くなっていた少女がいました。
その姿が今も記憶に残っている・・・と、彼は語りました。
(酸素不足による窒息で亡くなったらしい)


静岡大空襲のさいの米国の攻撃方法は、
まず、市街を取り囲むように爆撃を行って火の手を起こし
それから中央部に集中爆撃をして、人々の逃げ場を無くすという、
東京大空襲と同じ攻撃方法をとっていたようです。

そして、この大空襲は、
戦況の被害を敵方に知らせないようにするためもあってか、
かなりのちまで、被災状況始め、空襲の事実自体も“秘密にされていた”のです。

この空襲の地には、「楠木は見ていた」と銘打った心温まる話が
あります(下の画像の文がそれ)

空襲(静岡の楠木)image_convert_20150308234954
(静岡平和資料センターさんのHPより)


戦火を生きのびたこの楠木は、現在では傷みが進行してきたようです。
楠木さんには、どうぞ、天寿をまっとうしてください・・・
と言いたい・・・。

  空襲(楠木2静岡平和資料センターさんより)image
  (静岡平和資料センターさんのHPより)


こうした話の他にも、
米国の爆撃機に体当たりをした日本機の話など、色々と聞き及んでいますが、
その様子はどれも、胸を打つものです。

公に歴史の資料として残っているものには
震天制空隊(空対空特別攻撃隊)による体当たりがあって・・・

      空襲(体当たり)image


静岡近傍で言えば・・・

現在の豊田市南西部上空、人々が見守る中で起きた
群馬県出身代田実・中尉の搭乗する“飛燕”
空中戦を展開し、
7機編隊からなるB29の“先導機”を撃破した話があります。


    空襲(墜落するB29)image


また、場所は異なりますが、
47戦隊所属の栗村尊・准尉などは
自分の搭乗している機の“プロペラで”B29の昇降舵を破壊し、
撃墜を試みています。


    空襲(B29への体当たり成増上空)image
    (鎮魂の旧大日本帝国陸海軍さんのHPから引用)




これまで、遠地や南方方面の激戦地の情景は、
映像化されたりして、それなりに知られたりします。

その影で、こうした各・地方都市の一般市民の被災状況があって・・・
侵攻してくる相手をどうにかして止めようと、
本土の上空で命を投げ打っていた人たちもいた・・・・・・。


空襲(修飾用春花)image



それにしても・・・日本は・・・


これほどの大空襲を各地に受け、果ては原爆まで投下されましたが、

空襲(原爆投下後の浦上)image
(原爆投下後の浦上)


よくぞここまで・・・というほど逞しく持ち直しましたし、

     空襲(逞しい日本人大塚駅付近)image
     (大塚駅前あたりのの露天風呂)


敵として戦った相手を、恨む気持ちも残しませんでした。


これから幾世代が過ぎようとも、
そんな姿勢は清々しく貫いていきたいものです。


*****


人の生命は、過去を生き抜いてくれた人たちの生命に連なっている。

それを想えば、“自他の生命”・・・
肉体の天命が終わるまで、どんなことがあっても大切にしたい。



      そして何より、穏やかな世界の未来を願う。

   空襲(修飾画像チベットあたり)image



        ありったけの想いを込めて・・・。

      空襲(平和な笑顔)image

   空襲(修飾用平和)image

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かつての「中東」での出来事・・・湾岸戦争の前あたり

Posted by 世羽 on 08.2015 歴史もの   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
かつて「春が来て~きみは~綺麗になった~」・・・という歌があった。
多くの人の「心」にこそ、美しい“春色”の彩りが迎えられて
さらに“暖かいもの”が生まれると嬉しい・・・などと勝手に想うw。


湾岸戦争(挿画サウジアラビアrashaida族の少年)image


人は多くの場合、命の危うさに直面する事態に遭遇して“初めて”
世界で起きていることを知ったりします。


中東地域は、日本のエネルギー供給においても重要なわけですが、
そこにどんな国があって、どのような歴史を辿り、
日本がどんなふうに関わってきたか、
知られていないことも多々あって・・・。
忘れるには“まだ早い”事象もまた、たくさんあるように思えます。


で・ふと、
過去と現在に繋がる「中東」で起きた日本がらみの史実が浮かんだので少し・・・。


イラクの「クウェート侵攻」と人質

1990年8月2日午前2時(現地時間)。
戦車350輌を中心とするイラク共和国・防衛隊の機甲師団10万人が
クウェートに侵攻を開始しました。

 (これは、いわゆる湾岸戦争:Gulf Warの前のできごと。
  湾岸戦争そのものは、この侵攻を機に、国際連合による多国籍軍の派遣が決定され、
  1991年1月17日のイラク空爆から始まっている)


     湾岸戦争(の前のクウェ-ト侵攻報道)image



クウェートに侵攻したイラクは、国際法に違反して
クウェートとイラクに在留していた外国人の一部に対して出国を禁止します。

湾岸戦争(イラクとクウェ-ト)image

      湾岸戦争(の前のイラク侵攻)image



このとき日本は、
クウェート在留日本人の安全の確保のために
日本人261人をクウェート大使館に保護しました。

さらに、

外務省と現地大使館は、秘密作戦として、
クウェート大使館で保護した者を含む245人を、
バグダッド(イラクの首都)に向けて移動させることにします。

 (よりによって侵攻する国になぜ・・・と想えるが、
  当時はそうするしか打つ手がないと考えたらしい)


湾岸戦争(の前のひとつの情景)image


同時期には、
イラク在留の日本人のうち
8月14日までに出国できなかった214人
その後の出国を認められずに、イラク国内にとり残された形になっていました。

当時、バグダッド日本大使館には片倉邦雄・大使が着任しており、
さらなる日本人出国のための陣頭指揮にあたります。

大使館側は、クウェートから移動してくる日本人のためにと
ホテルを予約するなどして、出来る限りの受け入れ準備をしました。

クウェートからバグダッドへは、何便かに分かれて日本人がやってきます。

ところが、

このクウェートからの緊急避難組の人たちは
飛行機から降りるとすぐ、
イラク政府によってバスに押し込められるなどして、
「マンスール・メリア・ホテル」に拘束されてしまったのです。

 (上記・日本人の一部と、他国の人もあわせて
  拘束された人々の多数はその後、
  戦略上重要な施設に“分散して”収容されることになる)


     湾岸戦争(の前のmansourmeliahotel)image



こうして、クウェートから避難してきて拘束されたうちの213人
イラクから出国できない214人
そのほか合わせて、“507人にものぼる日本人”
軍靴の足音が響く中東の地に釘付け状態になり、
「戦後最大の事件」に直面することになりました。


イラク側は世界に向け、拘束した各国の人たちについて
「彼らは人質ではなくゲストだ」と言いました。

でもそれは事実上、
国際諸国の包囲網に対する「人間の盾」でした。

片倉大使を始めとする大使館職員は、
“拘束された”日本人たちと接触を試みますが
事態はきわめて難航します。

 (拘束された半数は女性で、乳幼児もいた。
  また、イラクのクウェ-ト侵攻直前に勤務交替で降り立った
  日航のCAも9人いた)


このころ、バグダッドでは
ラジオ・ジャパンの日本語放送がアフリカ経由で流れており、
バグダッドの現地時間“午後8時”になると、
日々、拘束された人たちに向けての言葉が流されました。

「日本人のみなさん。
みなさんの出国のために、私たちはあらゆる働きかけと、
連絡手段の確保をはかっています」


 (似たことを人質を抱える米国や英国もやっていた)

日本の大使館員たちは、不眠不休で人質との接触工作を続けます。

ホテル内の日本人にメッセージを送ろうとしたり、
大使自らホテルに出向いたり・・・と。

ですが、ホテル近くで公用車を停めることも叶わない状態でした。

それでも大使館職員たちは食い下がります。

ときには車の屋根に“日の丸”をつけてホテル傍を通るなどを試み、
「なんとか頑張ってください」という気持ちを伝えようとします。
ホテルの中からは
それに応じて、手やハンカチを振る人たちの姿を確認することができました。

片倉大使は、封鎖されたホテルの正面ゲートの前で
「立ち退け!」というイラク側の要求をはねのけ、
灼熱の日差しの下、交渉のために2時間も待ち続けたりもしました。

  (このとき、報道陣は宣伝のためか、
   ホテルに入ることを許可されたりしたが・・・)

地道な努力は少しずつ功を奏し、
ようやく内部から外部へと、1日1回の連絡が取れるようになります。
ですが、外部から中への連絡は依然、まったく遮断されたままでした。

8月25日あたりになると、
拘束されていたうちの男性だけが別の場所に移されてしまいます。
しかもその時点ではどこに移送されたかも不明でした。

一方、この事態を受けた当時の日本政府は・・・

“中東の平和に対する貢献策”として
「クウェ-トに侵攻したイラクに対しては“断固たる態度”で望み、
いわゆる人道支援(医療、通信、輸送面など)で
“周辺諸国への援助強化”を行う」

としていました。

そのスタンスは
「人質をとられた国々とは痛みを分かち合い、
妥協をしてイラクに対決する気持ちを損なうな」

というものです。

当然、イラクはこれに反発します。


 (相手が1国家とカルト「IS」という違いがあって状況も大きく異なるが、
  どうも現在と似ている)


ちなみに、

このとき旧ソ連などは、
イラクが侵攻するとともに出した“クウェ-ト大使館閉鎖”命令(各国に出ていた)に
「断固反対!」の立場を誇示しつつも、
“水面下”ではイラクのこの要請を受け入れて、職員は即・全員退去。
旧ソ連国民で拘束された人は誰もいませんでした。

そのほか、
豪州やスイスなども“臨機応変な打開策”をイラクにかけ合い、
国民の退去に尽力していました。

で、日本国内ではこのとき、
官にも民にも、目立った動きがほとんど見えませんでした。

そのため、バグダッド在留の日本人のあいだでは

「変化球も投げてくれないと・・・。
欧米との関係を第一にするだけに徹しなくてもいいじゃないか。
“汚れた天使”でもいいんだ。もっと実のある対応をしてくれ」


というつぶやきが流れていたようです。

そのようななか、イラク側は、
8月24日を期限として各国大使館の明け渡しを要求していたわけで。
これを受けて、58の大使館のうち、32の大使館が閉鎖を決断。
各クウェ-ト大使館から退去しました。

一方、米国は、この退去要請を断固拒否。
大使以下の少数で死守する構えを示します。
また、英国大使館も職員のほとんどが退去しますが、4名を残します。

日本は、臨時大使・城田安紀夫氏と2党書記官・内藤浩二氏2名
残留することになりました。

けれども、実際のところ
24日の期限が切れる前の22日には
日本のクウェ-ト大使館はすでにイラク軍に包囲されており、
バグダッドとクウェートの大使館間で使える無線だけ
交信手段として残されただけの状態でした。


     湾岸戦争(前のイラクの侵攻)image


こののち、残留者のいる大使館の水や電気はすべて遮断されます。

「ついに水も電気も切られた。トイレも流れない。
冷蔵庫内の物も腐り始めた。日中の室内は50℃にもなる。
あと4~5日持つだろうか・・・」


こんなつぶやきを発しながら、日本の2名は7日間籠城するのですが・・・
その後、ついに大使館を退去します。

一方、拘束された日本人(ホテル組)がどうなっていたかというと・・。

ねばり強い交渉が次第に実を結び、時宜に応じた差し入れが可能となります。
どういう風の吹き回しなのか
ときにはホテルのプールで泳ぐことまで可能になったようで・・・。

後日わかったのは、
先のホテルにいた日本人は実際にはもっと少数で、
多くは密かに別の場所に連れ去られ、分散して隔離されていたことでした。
意外にも、待遇は良好で、
わざわざクーラーも備えてくれていたようです。

 (どこかのカルトの人質とは雲泥の差w)

イラクが、こうした人道的な配慮への申し入れに対して
聞く耳を失っていなかったのは喜ぶべきことで
のちには、拘束されていた「各国の女性や子供たちを
まずは出国させる」
という、喜ばしい動きをとります。

先に婦女子が解放されるに際して、とある日本人女性の夫は、
送り出す妻にこう言っています。

「冷静に行動しなさい。子供たちのことを“よろしく”頼む

この時点では、男性たちにどのような運命が待っているかが
見えていなかった証でしょう。

でも結局、何がどうなったのか、
この女性たちの解放から3ヵ月ほどたった12月6日。
「イラクの“善意”を表明するため」と称して、
幸いにも、人質すべてが解放されたのです。

そして・・・

後に湾岸戦争が勃発、この戦火がほぼ終息したころ
クウェートが自国を助けてくれた「感謝国リスト」を発表します。
ですが、巨額の援助金を出していた日本国の名前は
そこにありませんでした。

 (これは当時、日本が抱えた課題として議論になったはずですが
  のど元過ぎれば・・・で、いまはすっかり忘れ去られたらしいw)


     湾岸戦争(当時の反応)image



ここで、ちょっと余談を・・・。

かつて十字軍の時代のこと。
イスラムの英雄として知られる
サラディン(サラ・エッディーン/サラー・フッディーン)という人物がいました。

彼は公的な「聖戦」(ジハード)を戦います。
ですが、この人物は宗教的な対立を政争の愚に用いることのない、
人間を信じることができて、穏健かつ教養ある御仁だったようです。


1187年の聖地エルサレム解放のとき、
彼は「キリスト教徒には指1本触れてはならない」と厳命し、
実際に、イスラム側による殺人も略奪もありませんでした。

貧しい捕虜は身代金なしで釈放しましたし、
十字軍騎士の未亡人や孤児にも身代金を全額免除。
しかも、贈り物まで渡して立ち退かせたことが伝わっています。

周囲は「これではあまりに寛大過ぎる・・・」と愚痴をこぼしますが、
それに対してサラディンは

「われわれは書名した合意文書を厳格に適用しなければならない。
そうすれば、協定違反ということで後ろ指をさされることもない。
それどころかキリスト教徒は
われらが与えた親切をいつまでも思い起こすだろう」


と言った・・・。

そして、このサラディンと、
人質をとったサダム・フセインは、なんと同郷だったわけで・・・。


片倉大使は、この歴史話を持ち出して
「サラディンの規範をぜひ継承してほしい」とイラクに訴えたそうです。


湾岸戦争(の前の余談挿画saladin)



こうしてみると、

時々刻々と変転する事象のなかで
何らかの交渉を有利に進めるのは
周囲があれこれ考えるより遙かにシンドイものだとわかります。
(考え抜いて行ったことが、213人の拘束者を出したように、裏目に出ることもある)

現在もそうですが・・・
過ぎたことへの力不足をただ叩くだけなら
けっこう誰にでもできて、
でもそれは、あまり建設的でなかったりする。

なので要は、過去を検証しながら
同じ過ちを繰り返さないように
類似のことが起きたら「どう対処するか」の方策を備えておくことでしょう。

でも、どうでしょう・・・
過去の教訓が生かされているとは言えない・・・のが実情かもで。



「トルコがしてくれたこと」から見える教訓


時が前後しますが・・・。

先の「イラクの人質事件」より少し前、
イラン・イラク戦争
(イランとイラクが国境をめぐって行った戦争で“第一次湾岸戦争”とも呼ばれる)
のとき、
イラク軍はイランの首都テヘランにも空爆を始め、
テヘランの在留外国人は空爆を避けるために国外避難を準備し始めました。

1985年3月3月17日。
イラクのサダム・フセインは
「3月19日20時半以降、
イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」

との声明を発表。


       湾岸戦争(の前のイランイラク戦争のとき)image


この宣言後、イラン在留の外国人はそれぞれ、
自分たちが国籍を置く国の「軍隊や民間航空会社」を使って脱出を始めました。

しかし日本は、自衛隊の海外での活動は禁止されていました。

自衛隊が出せないなら、民間機に頼るしかありません。

このとき、「日本航空」はテヘランへの寄港を停止していたため、
日本政府は現地との調整に手間取ります。

そして・・・日本航空チャーター機の派遣について
“会社と労働組合”は、搭乗員の安全が保障されないことを理由に
この要請を“拒絶”しました。

  (ただし、
  日本航空123便墜落事故で亡くなった“海上自衛隊”出身の高濱雅巳機長は、
  真っ先に、救援便の運行乗務員に志願していたと伝わっている)



      湾岸戦争(の前のイランイラク戦争のとき2)image


こうして、期日までの脱出は困難・・となって
国独自としての救出がなされなかった・・・。

そのため、200名を超す在留イラン日本人
脱出方法を見つけられないまま、空爆の危険と生命の危機に瀕したのです。


あのとき、テヘラン在留の日本人は
「どうして自衛隊が助けに来てくれないんだ!!!」と言い、
国は「法律でそれは出来ません」と言ったのです。

 (日本は救援機を派遣した各国との交渉も試みていたが、
  諸国はいずれも、自国民救出で手一杯だった)


結局のところ、戦火のなか、
トルコの航空会社が生命の危険を顧みずに航空機を飛ばしてくれて
邦人が救われたわけで・・・。

トルコにしても、
旅客機を飛ばすには複数の乗務員が必要だったでしょう。
“他国の人々”のために
トルコの航空会社の社員が、危険を冒してくれたことになります。

 (頭が下がる、ありがたいことです)

この話は現在、トルコと日本の「友好秘話」として有名になり
“美談だけ”が伝えられています。


   湾岸戦争(の前のイランイラク戦争のとき3)image


でも、「どうして日本人を救出に行けなかったか・・・」のほうは
詳しく伝えられることはありません。

今後、同様のケースが“起きない”とも限らず、
さて、そのとき日本はどうするのでしょう・・・w。


時々刻々と急転する緊急的事象のなかで
何かの交渉や危機回避をするのは
難しいものだと言うことがわかります。
(また、考え抜いてしたことが、
クウェートからの移動組213人の人質を出したように裏目に出ることもある)


湾岸戦争(前の2Aug1990IraqKuwaitWar)image_convert_20150207030917



現在もそうですが・・・
過ぎたことへの力不足を叩くだけなら、誰にでもできます。

でも本当は、こうした過去の出来事を無駄にしないように、
同じ轍は踏まないように、
万一にでも類似のことが起きたら、「今度こそ、どうするか」
備えてこそ・・・・ではないかなと、今も想っている次第です。



*****


清い意図は、物事を善き方向に変える。
それは、国家ぐるみの場合でも同じ。

ただ、どんな場合でも、やはり・・・

「どのように“善い方向”に変えたいか」という
人の明確な意図と賢慮が・・・必要だ。




殺伐とした情景が何処かにあっても

(湾岸戦争のときの情景)
湾岸戦争(砂漠の上の戦闘機)image


湾岸戦争image



希望は持っていたい。


湾岸戦争(らくださんと)image


     湾岸戦争(こんなこともあった)image



人類みなが“互いの幸せを本気で想う”なら

シャローム(平和)のうちにある美しい情景は必ず蘇る。
それを生むためにこそ
与えられた理知を使う人類でありたい・・・。



湾岸戦争(挿画ドバイの駱駝さん)image_convert_20150207031638


日本への「想い」がふたたび湧いて・・・

Posted by 世羽 on 19.2015 歴史もの   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
「集団的自衛権の行使を認めません」・・・とかで
国会周辺で女性によるデモがあったようだ。
調べてみたら、発表参加人数7000人の割には小規模で、
主立った方々も・・・まあ、その・・・あれだ。

こうした主催者たちに賛同していく人(日本の方)たちは
本当に集団的自衛権の行使の何たるかを熟知したうえで
論旨を展開しているんだろうか。

こういう人たちの多くはたぶん
Edward・S・Millerの『War Plan Orange』(オレンジ計画:対日侵攻50年戦略)とか
読んだこと無いだろうなあ・・・。


歴史(サクラと時計)image


先日の北海道の成人式で起きた「日の丸」没収・・・。
寂しい気持ちで眺めました。

  (式典で国旗(日の丸)が配られてすぐさま、
   「邪魔でしょうから」と言って回収する人たちが現れ、
   「私が貰った日の丸ですから・・・」と拒む人がいても
   強制的に奪うかのように取り去って、“即座に”ゴミとして捨てた出来事)



国内の一部の人からすると、日の丸は戦争の象徴で、
厭うべき対象、また国歌は聞くに堪えないものとされているようで
そのような主張を掲げる先生のいる学校などでは
国旗は揚げない、国歌も教えない、歌わせない・・・方向に流されていくようです。

そして・・・

先の大戦における日本は悪鬼のごとくに説明されて
隣国へ修学旅行へ行った生徒さんたちに土下座をさせて
謝罪させたりする出来事もありましたね。

しかし、

いまの日本は
これまでの先人の方々の歩みの上に成り立っているわけで・・・

その道程の真実を知らず、
“感謝の心”も抱けなくなれば、

また、

自国の国旗や国家に敬意も抱けなくなれば、
いくら“特殊な性質を帯びる日本”でも
護りが失せる時が来る・・・。


歴史(危ない橋)image



興味深いことに・・・

よく引き合いに出す「あの幻視」のとある場面で
キリストがこんなことを言っています。

これもよく心するように。
国を滅ぼすのは、敵の軍隊よりも、
外国の人々との安易な同盟と、その懐柔策に乗ることです。

神と祖国の法律に忠実であれば、
強い軍隊に囲まれても勝つことができるでしょうが、
外国のとろけさせるような蜂蜜の毒に当たってしまうと、
その罪科のために
神はあなたたちを捨て、偽りの同盟国が戦いを挑まなくても
負けてしまいます。

ずる賢い同盟国に絶えず警戒する必要があります。

外の国の人に取り入り、色々な特権を得るために
その習慣と風俗を受け入れたことこそ、祖国に与えた最大の損害です。
これを決して忘れてはなりません。

私たちの信仰を持たず、習慣を持たず、
何世紀にも渡って私たちに損害のみを与えた国の人々に対して
愛を保つのは善いことです。

しかし、私たちの隣人でもある人々への愛においてでも
“何かの利益を得られる”という計算からのために
神の律法と祖国の法律とを決して忘れてはいけない。(略)

尊敬と自由とは
父と母(神と祖国)とを忘れて得られるものではありません。


  (当時のアンティオコ・エピファネの時代の小さな国分けのことなので
   今でいう同盟国とは意味が大きく異なるが、日本の国内状況に似ている気がする)


で・・・


日本にはもともと、
気づかぬうちに他者のために尽くしている・・・といった、
無形の、素敵な心の動きがあります。

会社などで、なんだかんだ文句を言いつつも
一生懸命やってしまう・・・そんな感じです。

それは先の大戦での兵士の戦い方にも
明らかにうかがえていました。

ですが、いまは・・・それが酷く誤解されて
受け取られています。

英霊とされている人たちを含む戦没者すべてに対して
鎮魂の意を向けるという当たり前の行為も否定されて、
軍国主義の発露などと叩かれる。

しかもそこには、宗教の信仰の観点がどうのこうのとか、国粋主義だとか、
色々な理由が付加されて・・・。

亡くなった人々への慰霊の気持ちというのは
そんなものに縛られるようなものでしょうか。

自分からすると、おかしな世の中です。


歴史(南京1942頃の日本のこども)image


あの、南京に絡むいくつもの事件にしても
“異なるお国”の意図をかつぐ方々の言うとおりに
史実として子供たちに教えられたりもしています。

南京「大虐殺」についての教え方もしかり。
事実を示すと「なかったことにするのか・・・」と怒られます。

たとえ別の見方を示しても、そうそう受け付けてくれません。

そのほかにも、

たとえば、2012年の富山県
日教組の教研集会で、
この「日本軍の“百人斬り」を事実と断定して中学生に教えるという
教育実践の報告がされたこともありました。


この“百人斬り”は・・・
昭和12年、
東京日日新聞(現毎日新聞)に「南京戦百人斬り競争」として掲載され、
旧日本軍の元将校2人が、
自分たちのどちらが先に日本刀で(敵を)百人斬るかで競争をした・・・
という内容のものです。
両名はのちに、中国南京市の雨花台で銃殺刑になった史実として
ご存じかと思います。

第3大隊第11中隊の兵として従軍したという望月五三郎氏の著書
『私の支那事変』が重要視されていたときには、
そんなことがあったんだ・・・という雰囲気にもなりました。


歴史(百人斬りの記事)image


一方、事の真偽をめぐって、いろいろな識者のあいだで論争も生じました。

山本七郎氏と本多勝一氏との論争はあまりに有名ですし
ノンフィクション作家の鈴木明氏が元将校の遺族らを取材し、
その結果をまとめた著書『南京大虐殺のまぼろし』(大宅賞受賞作)で、
「百人斬り」報道に疑問を提起しています。

そして1989年(平成元年)。
毎日新聞(元の東京日日新聞)は、発行した『昭和史全記録』で、
「百人斬りは事実無根だった」
自社の報道を否定しました。

で、のちに
向井少尉と野田少尉の遺族朝日新聞・毎日新聞などに
訴訟を起こします。

このとき、原告側証人として
新聞記事の写真を撮影した元東京日日新聞カメラマンの佐藤振壽氏が出廷し(一審:2004年7月)、
「記事はでたらめだった」と述べました。
さらに佐藤氏は、
週刊新潮(2008年)の取材につぎのように述べました。

「敵と300メートルの距離があっても鉄砲一発で殺せる戦場で、
チャンバラなんてありえない。
あれは 与太話を面白おかしく書いただけ。
あの写真が中国で飾られているのは忸怩たる思い。
たった1回、シャッターを押したんだ。
記者に『将校が2人、煙草を切らして困っているからあげてくれ』と言われて会い、
その時に撮ったものが、ああいう記事に使われたんだ」


向井少尉の次女、千恵子さんによると、
『あんな写真を撮らなければよかった』と、何度もおっしゃっていました」・・・と。

けれども、土肥章大裁判長のもとで行われた裁判では、

「記事は、2将校が東京日日の記者に
“百人斬り競争の話をしたこと”をきっかけに連載され、
報道後に将校が百人斬りを認める発言を行っていたこともうかがわれる」
と指摘があり、
注:ただし、この話というのも、確実な証明がされていない)
   
その上で
「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、
何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」
との判決理由で、
“いずれの証言も確実とは言えない”という主旨のもと
原告側の主張は退けられ、遺族が敗訴しています。

(公平に見ると、裁判そのものは、そんなふうに結論するしかない感じでもあります)

ですが、かといって、
この“百人斬り”歴史的真実として
完全に認められたわけでもないわけで・・・

「それを“なぜ”、日本軍を誇大に悪く描いてまで
自虐的な歴史授業をするのか」
と識者たちが問うのは
一般的な感覚のように思います。

では・・・「なぜ・・・?」

そこには
わかる人にはわかっていても
知らない人にはずっとわからない・・・いろいろな背景があるわけで。
そのあたりを、みなさん自らが探って、
冷静な心で知っておいてほしい・・・と思ったりします。

記事を書いた浅海一男氏については
その気になれば
どんな思想の人物で、過去にどんな記事を書き、
中国側についていた事実を調べることができます。

この記事をとりあげて膨らませた本多勝一氏の人物像や背景も
調べてみれば知ることができるでしょう。

そのうえで、肯定しようと、否定しようと
どんなふうに解釈しようと、
それはそれで、指向(思考)の自由というものです。


それらの過程無くして、いまもこの日本で
「加害の事実」を教えると称し、
公立学校での平和学習として、 “百人斬り”などの新聞記事や写真を生徒たちに見せ、

「日本は中国に“攻め入って”、たくさんの中国人を殺しました」

「戦争になったら、相手国の人をたくさん殺せば殺すほど
 勲章がもらえて讃えられるんです」

「だから殺されたのは兵士だけでなく、一般のお年寄りや女性、子供たちもです」


などと、“一方的に”教えこむとしたら、かなり不公平です。



かの将校らは、記事を書いた浅海一男氏に再三、
「本当のことを言ってほしい・・・」と訴えていたようです。


彼らは、こんな言葉も残しています。

「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。
南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。
死は天命と思い
日本男児として立派に中国の土になります。
然れ共、魂は大八洲に帰ります。
わが死を以て
中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、
日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。
中国の奮闘を祈る。
中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」

                                       (向井少尉遺書の抜粋)

「私の事は世界も正しく見てくれる日も来ます。
世間様にも正しく知らせて下さい」
 (向井敏明少尉の二女、田所千恵子あて)


「この度、中国法廷各位、弁護士、
国防部の角井、蒋主席の方々を煩わしました事につき
厚く御礼申し上げます。

只、俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺の罪名は絶対にお受け出来ません。
お断りいたします。

死を賜りましたことに就いては、天なりと観じ、命なりと諦め、
日本男児の最後の如何なるかをお見せ致します。

今後は、我々を最後として
我々の生命を以て
残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。

宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、
面目を以て感情的に判決したり、
或いは、抗戦八年の恨みを晴らさんが為、
一方的裁判をしたりされない様、祈願致します。

我々は雨花台に散りましても、
貴国を恨むものではありません。

我々の死が中国と日本の楔(くさび)となり、
両国の提携となり、
東洋平和の人柱となり、
ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
何卒
我々の死を犬死たらしめない様、これだけを祈願いたします。
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳」 
 (野田毅陸軍少佐の遺稿)


この言葉が、彼らの心の真実か否か、
また本当に嫌疑の事実とがあったかどうかは
いまとなっては証明のしようもありません。
(時間旅行あたりが現実になったら、確かめてもみたい)

確かに、当時の日本軍が
出来た人ばかりで構成されていたわけではありませんから、
ときには、かかる類の愚行もあったでしょう。
現在も、東南アジアなどで「賠償を!」と訴える人たちがいるのも事実ですし
恨みを抱いている人たちもいます。

しかし、だからといって、
軍に携わった人すべてを悪辣な不届き者と見なしたり
戦争の原因を日本のみに帰すのは間違っている・・・
自分はそう感じます。


歴史(遺言)image



戦争が悪いこと・・・と教えても
どうしてそれが起きたか
学校でも社会でも
正確に伝えられることがほとんどありません。
また、知ろうとする人も少ないわけで。

なので今では「特攻って、無駄死にのアホ集団」と言う人さえ
出てくる始末です。


   歴史(日本の兵士のどなたか)image


   歴史(特攻2)image



歴史(特攻)image



そんな状況を眼にするにつけ、
どのような道筋で、やむなく日本が先の大戦にいたったか、
また戦況に応じて、悪いことだけではなく
パラオで見せた日本軍の姿など、
もっと多くの人たちに“自ら”知ってほしいなあ・・・と改めて。



古からつづく「日本の心」を失っていなければ、
こんな歌に込められた想いなどもわかるでしょうか・・・。


  己が身の
     おぼえないこときかれるれど
          いかに答へん言の葉もなし


  靖国の
     み魂と共に吾も亦、
  幾世をかけて
     み国護らむ
        (とある陸軍大尉の言葉)


歴史(先人の心)image



歴史(パール判事の名言)image

     歴史(碑文拡大)image




*****

自分の“居る場所”をまことに愛せる人は
この世界全体も愛せるだろう。


そのとき、その人は
先につづく、永遠なる道も愛するに至るだろう。



歴史(日本の某所のサクラ)image


歴史(とある階段)image


いまはもう「失われて」・・・

Posted by 世羽 on 12.2014 歴史もの   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
ここのところ、「想定外の災害」という言葉を報道で何度も耳にした。
そのたびに、「そうかなあ・・・」という気持ちになる。

見ないように起きないように・・・と
目の前の現実を拒否していると
事が起きるサインを見逃すことが多々ある。

自然に限らず、現実を直視し、早めに手を打つことの大切さを
改めて感じる。


海の上の赤い舟image



これまで、数かぎりなく話題となってきた古代の失われた文明

たとえばアトランティスなどは
プラトンの著作『クリティアス』や『ティマイオス』などに記されて以来、
ほんとうに有名になりました。


他にも“諸説”あるなか・・・

(最近では、スペインのドニャーナ国立公園なども)
アトランティスもどき(スペインのドニャーナ国立公園)image


いま、『クリティアス』の話のほうに言及し、そのほか諸々を加えて
改めて、アトランティスの面影を辿ってみると・・・。


アトランティスの王の系譜は「海神ポセイドン」の子孫。

その、初代の王アトラスの名前にちなんで
「アトランティス」という国名が名付けられた。

さらに・・・アトランティスの中心都市は・・・

5重の同心円をなす“環状の陸地”に囲まれるように造られた島の構造をなし、
最中央部は
古代ギリシアに似た「高丘城塞」(アクロポリス)。



海の下へ(想像のアトランティス)image



島をとり囲む3つの水路は、それぞれが海水で満たされ
都市中央部まで船舶が近づくこともできた。



アトランティス(想像画)image



環状の陸地に設けられた壁は
外側表面が「銅」を駆使して造られ
内側表面は「銀と錫(スズ)」で・・・
アクロポリスの外壁となると、
あの(焔のように輝く)「オリハルコン」で覆われていた。

環状の陸地帯には
プールや温泉施設、競技施設などがあり
温泉熱を利用して幾多の樹木が育てられていた・・・。



(ドバイのアトランティス「もどき」・・・w)
海の上の(ドバイ)image

アトランティスもどきな(ドバイ)image


市民は環状陸地のさらに外側に住み
農耕の民は、市民たちの住む場所からさらに外側に広がる
四角状の広い平野(南北に約350㎞、東西に約530㎞)に住んでいた。


この四角い広大な平野の端、その4方向すべてに、
深さ30m、幅180m、全長1800㎞にも達する溝が掘られ、
1.8㎞ごとに縦横に運河が造られるなど
“目が点になりそうなほど”良くできた水利計画を施した造成がなされていた。

この大平野の北・東・西の3方向には山脈があり
それぞれ豊かな自然の緑を有していた。
オリーブ、リンゴ、ザクロ、レモンなどをはじめとする様々な果実も実り
多種の動物たち、大型の生物さえも生息していた。

地下資源も豊かで、金属類の採掘には不自由することがなく
これによって繁栄の源を創り出すことができた。

当初、この国の人々は、国を司る人たちを含むすべての人たちが

温和で賢く、とても愛情深かった・・・。
そして、富に惑わされることなく、徳を何より大事にしていた。


しかし、いつしか
自国を治めるだけに飽きたらなくなり
地中海周辺諸国を征服する野望に手を出し始めてしまった。



そして『ティマイオス』に描かれたように
人心は乱れて悪に染まり、天変地異が起きて
海へと没したことが語り継がれることになります。

とあるサンダーストームimage

海(荒い波)image



どこにその地があったにせよ、アトランティスと呼ばれた場所
それなりの都市として存在していたことは
おそらく本当だった・・・と思われます。


以前、書いたのですが
この国の滅亡時の人心の乱れ
単に、物欲や支配欲のみに原因があったわけではなく、
人の心に入り込んだ悪の勢力があったと、
別方向からの伝承が伝えています。

そして国が滅亡したのち、
一部の人たちが異なる次元へと旅立ったかもしれないことも
密かに伝えられており・・・。

そんな彼らの言葉が、あります。

「アトランティスに破局が起こることを知ったとき
私たちの多くは精神の遺産を残していくことにした。
二度とふたたび、この世界に生まれ変わることはないと知っていたから・・・。
私たちは、他の次元にとどまることにした」



彼らは実際、後世に教訓を残すために
いまの地球へ色々な仕掛けも施したわけで・・・。

有名どころとしては、地球の各所に残された
幾多の役目をもつ大小の「人工クリスタル」があげられています。

多くの権力者、秘教集団がこれらを手中にしようと躍起になっていたことは
ご存じかと思います。
しかし、“何らかの力”が働いて、
いまだ、その叡智が公になることを止めているようです。

面白いことに、
異なる次元に移行しそこなって地球に肉体を留めたアトランティス人は
異次元にいる仲間の後を追うべく、
長い時をかけて
それを可能にする方法を探っていた・・・と見る研究者もいたりします。


スターゲイトっぽいやつimage



アホな・・・と思われるかもしれませんが・・・。

それは案外、真実に近いところを突いているかも知れず
だいぶ後になってから、アトランティスの民の“子孫”の多くが
異次元へと旅立ったかもで・・・。

しかも・・・それでもなお、
自らの意志で、あえてこの次元に残った者たちもいたりして。


(こうした行動をとったかもしれない存在たちは、他の文明においても、
 それ以前にもいたようです)

その残った者たちの系譜
アトランティスが滅亡した原因を担った“ある勢力(別の文明にもかかわる)”の系譜
いまもせめぎあっている可能性があるとしたら・・・。

これは、長い時のなかで諸事と絡み合い
単純な「2つの勢力」のせめぎあい・・・として見るだけでは
すまなくなった。


いま、時間・次元・戦い・・・などの言葉に対して
何かしら琴線にふれるとしたら
それはそれで・・・
ひとつの組み込まれた計画の両端(良い意味とそうでない意味)を
担っているかもしれません。

だからといって、その担っていることが
偉いわけでも、優れている証でもなく、
これは、
この地球をどうしたいかという「強い想い」を持った存在たちが
悠久なる歴史のなかでひたすら、延々と紡いできた「生命と想い」・・・。


(ついでに遊んで空のヘンなもの・・・)

空の変なものimage

空の上の変なもの2image



いまでも、アトランティスにとどまらず
僅少ながら目に見えるかたちで
遠い日々の栄華を秘めた「遺構」が海の下などにあり・・・

それらは、地球の歴史にとって
ちょっとした、過去の面影を残すものとなっています。


海の下(ビミニ)image

海の下(ビミニ2)image



海の下の遺跡(イーストベイあたり)image



それらがあまり“人の眼にふれることなく”眠っているのは、
ありがたい・・・。

もし、それらが浮上する日が来るとしたら
別のどこかが沈む・・・かもしれないですし。



で、そんな海の下にある「特別な遺構」の数々を
よ~く知っているのはたぶん
ごく自然に、日々を生き抜いている
海の生き物さんたち
ですね。


海の下(の・・・)image




トリトンのように、溺れることなく水中で自由に動き回れるなら
ちょいと潜って、色々と確かめに行きたい・・・と、いつも。


海の下へ的なimage



二人の「突き抜けた」御仁

Posted by 世羽 on 25.2013 歴史もの   0 comments   0 trackback
(つぶやき)台風の接近中はともかく、さすがに、そろそろ動いても・・・。なんでも我慢すると、あとが大きくなるし。小出しを願いたい。

よくワカラン場所の絵のimage


明治時代の時期不明なころ。

とある古本屋で、一冊の奇妙な筆写本が見つかりました。

非常に難解を極める『自然真営道』です。

著者は安藤昌益(あんどうしょうえき)・・・
彼は1700年頃、
東北のどこかで生まれたとしか分からない謎の人物です。


安藤昌益のimage


で、この人が書いた本の主題を簡単に記してみると、

宇宙には自然真(しぜんしん)あるいは土活真(どかつしん)と称する実体がある。
それは“宇宙の中心”に存在し、無限に万物を生成してやまない活動の主体。
それは「真」(たましい)であり、宇宙の精神である。
この「真」に働きかけて、直接に交感することで、「転定(てんち)」(天と海)に、
「真」の理想を実現する・・・


つまり、自然と調和していたと思われる、かつての「自然生」の時代
それを取り戻そうとしたようです。

彼は「士農工商」を否定し、
当時の日本の思想の根幹になっていた“孔子や釈迦の教え”も否定しました。

彼いわく
孔子は「身分制度」をつくり、釈迦は「現世からの逃避を促した」・・・というのです。

昌益が生きた時代のシステムからすると、
この考え方は暗殺されてもおかしくないレベルの思想で、
そのため昌益は、直弟子だけにこの思想を伝えるものとし、
「転真敬会」という“秘密結社”を創設して、密かに教えを伝えていました。

安藤昌益は、彼が生きた時代を“はるかに突き抜けた”かのような人だったのです。

さらに彼は、後の日本の世に「正人」なる者が現れて、
「無盗・無乱・無迷・無欲の活真の世」を実現する・・・

と予言めいたことも述べています。


さらに
洪水や凶作兵乱といった“不測の大災”はすべて、
「人間の邪欲、妄狂の悪念」が原因で、
「それらはみな、人間から発して人間に帰するもの。
宇宙の神霊のせいではまったくない」

と断言しています。

今でも、誰かしらが言いそうな考え方です。
(今の世で新しいとされていることが、すでに昔の日本にはあった)


一方、同時期(1700年代の中頃)
昌益と双璧をなすと言われる傑出した人物で
同じく東北出身の佐藤信淵(のぶひろ)という人。

佐藤信淵のimage


この御仁も、時代を突き抜けた人で・・・。

彼は『宇内混同秘策』を書き残しています。

この著は
「皇大御国(すめらおおみくに)は
大地の最初に成れる国にして、世界万国の根本なり」
という言葉で始まります。
(これも、現代の、どこかで言われている思想にそっくりです)

で、彼がどんなことを言っているか・・・というと

宇宙の創造者は「産霊神」であって、
世界のすべての創造神もこれにあたる・・・。


産霊神〔むすび〕とは、
古来より、万物を産んで育てる霊妙を現す言葉で、天地生々の理と言われるもの)

しかしながら・・・この書は
実のところ、日本による「世界征服」書と言えるものを含んでいます。

その“征服計画”は、かなり具体的かつ詳細に示されており、
中国を皮切りに、中央・東南アジアをはじめ、インド方面、
果てはロシアのあたりまで視野に入れているのには驚かされます。

しかも、この人は、
具体的な兵器をつくるための軍事的なテクノロジーについても研究していて、
「自走火船」(ロケット推進を利用した船)や
「毒火玉」(毒ガス弾)さえ考案しています。


ここでよく見ると、「世界征服」のために佐藤が考えていた道筋が
先の大戦のころの、
日本軍の“進軍”具合に酷似しています。

実際、大戦のころには、
この佐藤信淵の“オカルトチックな思想”の部分に傾倒した人々がいて
一説によれば、
彼の著作がベースとなって、「富国強兵」「八紘一宇」が生じたと言われています。


八紘一宇のimage


事実、関東軍作戦参謀として名をはせた石原莞爾(いしはらかんじ)は、
信淵が唱えた思想の実践者で、
石原の構想を受け入れた軍部は、「満州国」を創立しています。


この安藤さんと佐藤さん・・・という二人の御仁。

しばしば、
前者が自然派であった「ムー文明」
後者が科学技術を推進した「アトランティス文明」の生き方を汲んでいる・・・と
囁かれたりします。
(注:本来、ムー文明の記憶が残る土地を、アトランティス文明の流れをくむかもしれない
信淵の思想に基づいて、日本軍が進軍して行ったというのは注目すべきところです)


ムーとアトランティスのimage


で・・・もし

日本が世界の中心である・・・と思うとき
佐藤信淵の考え方の方向に進んでしまうと
“新たな大戦”をどこかの時点で引き起こす可能性が高くなります。

また、安藤昌益の思想に従ったとしても、
誰が「正人」かの見極めは難しく
その出現をひたすら待つだけでは埒があきません。
また、彼の思想についての解釈を取り違えると
かつてレーニンが佐藤信淵の提唱した「すべての平等性」を賞賛したように
共産主義的な誤った方向にひきずられそうになったり
自然に執着しすぎて“文明の先祖返り”を起こす可能性をはらんでいます。

つまり、両者のどちらもが完全というわけでなく・・・
熟考が必要です。


ですが、今の日本の思想形態には、
なかなか気づきにくい、
こうした「過去の道」を、もう一度辿るような
「姿」を変貌させた“危うい火ダネ”が潜んでいるのです。


いずれにしても、
今後の日本が辿る道は、集団意識の決定によるところ・・・。

多くの人が、どのような新しい「世界観」を抱くかにかかっています。

ですがその際、吟味せずに人伝えの情報を鵜呑みにしてしまうと
安易な主張や喧伝がまかりとおり、
火ダネを災禍に育ててしまうことになる
でしょう。

たとえ「正人」が出現しなくとも
多くの人が、安藤昌益の言わんとする自然志向の理想の生き方ができて

佐藤信淵の思い描いたように、
どのように世界へ進出していくのがいいかを、現代的・科学的に考察していくなら、
日本は人道的・経済的・平和的に、大きな変化を起こすことができます。

これは、
かつて敵対したムーアトランティス良いところを融合させる試み・・・と言えるもの。


ムーのimage


海外からの思索形態だけが
世界や意識を変えるものではありません。

この日本の国に起きたことを、改めて正しく把握すると
新たな精神的な道筋が見えてくるでしょう。


そのための道標は、今は軽んじられ、忘れがちになっている
日本人が古来より備えていた、健全な「心のありかた」
日本人らしい、素朴でまっとうな「生き方」の向かう先にあります。

それが・・・どれだけの「鼻力」
いや、「力」


シロクマさんの鼻力なimage

・・・持っているか・・・

世界は、そして、日本の人たちはまだ・・・それほどわかっていません。


オーロラの光りのimage




  

プロフィール

世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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