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ブエノスアイレスで起きた「とある不思議な出来事」・・・

Posted by 世羽 on 23.2015 イエス関連   0 comments   0 trackback
(独り言)
与那国の出した結論。まっとうだと感じる。それだけ危機感があるということだし。

と、気にしていた地下の動きが、
先日の三陸沖・発震で一端、解放されたかのようでもあった。
だが、2日もたたないうちに、ぶりかえしてきている。
この場合は、気になりだしてから発震までに1ヵ月以上かかった。

今後さらに、どれくらい続くのか・・・気になる



エウカリスト(修飾画像ブエノスアイレスの情景)image



1年も前のこと。
「この話、日本じゃあまり知られていないよね?」
“とある資料”をもらいました。

自分としては感じることが多かった・・・。
かと言って、これを話題にして理解してもらえるだろうか・・・と、しまいこんでいたのですが。
今回・・・それを少し。



前ふり・・・


キリスト教のなかの“いくつか”は、
キリストが「最後の晩餐」の時に告げた言葉
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。
わたしの記念としてこれを行いなさい」
(ルカ22章19、ほかマルコ・マタイなど)
を継承し、

エウカリスト(最後の晩餐の)image


ミサの時、
聖職者が種なしパン(ウエハース)と葡萄酒聖変化させ、
キリストの「現存」としています。


その聖体(パンのほう)は、
常に聖堂の決められた場所(聖櫃)に安置され、
信徒は特別な崇敬をもって、ミサ以外のときも“聖体訪問”という形で
「現存」するキリストに会いに行ったり、その前で祈ったりします。

一方、大半のプロテスタントの教義では
これを認めていませんが、シンボルとして捉えている派もあるでしょう。

で・・・その、聖体の話なんですが・・・。


ホスチアに起きた不可思議な出来事


1996年、アルゼンチン・・・。

     エウカリスト(ブエノスアイレスmap)image


そのブエノスアイレス大司教区で、
現在の教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)が、
まだクアラッチーノ枢機卿のもとで補佐司教をしていたときに、
それは起きました。


エウカリスト(ホームレスを訪問していたときのフランシスコ)image


この出来事は“ベルゴリオ司教”(現教皇フランシスコ)自身が目にし、写真に記録させ、
調査を行っています。


1996年8月18日、夜7時。
ブエノスアイレスの商業地区にあるカトリック教会で
アレハンドロ・ペセット神父がミサを捧げていました。

聖体拝領のための聖体を信者たちに配り終えるころ、
1人の女性がやって来て、
「教会の後方のロウソク立ての上にご聖体が放置されています」と、
神父に伝えました。

神父が行ってみると、そこには“冒涜を受けた”と見られるご聖体がありました。
司式直後だったアレハンドロ神父は、すでに司式中にご聖体を受けていました。
すぐに、ふたたびそれをいただくこともできません。

そこで、そのご聖体を水の入った容器に入れて、
教会の聖櫃(聖体の安置場所)に納めたのです。

8月26日、月曜日。
聖櫃を開けた神父はぶっ飛びました。

なんと、聖体が“血の滲む固体”になっていたのです。

驚いた神父はベルゴリオ司教(これを記している現在の“教皇フランシスコ”)に連絡し、
司教からは「専門家に依頼して写真に記録するように」という指示を受けます。

正式な写真は9月6日、9枚が撮られています。
そのころには、血の滲む肉片に変化した聖体が、“大きく”なっていました。

だからといって、こんなことはすぐには公表されません。
この不可思議な「聖体」は教会の聖櫃にしまわれ、
あったこと自体が厳しく伏せられました。

ところが、その後・数年間、この聖体はまったく腐敗しなかったのです。
そのために、科学的調査が行われることになりました。


エウカリスト(修飾画像)image



1999年10月5日。

ベルゴリオ“枢機卿”(この時点で、つぎの役職についていた)の代理人が立ち合うなか、
リカルド・カスタノン・ゴメス博士が、肉片からサンプルを採取して、
サンプルは分析のためにニューヨークに送られました。

調査にあたっては、先入観を防ぐ目的で、
分析にあたる科学者チームにはわざと
サンプルの起源が「何か」について情報が伏せられました。
  (サンプルが何か、科学者たちは知らなかった)

この科学者チームの1人、著名な“心臓専門医”であり、
“法医学者”でもあったフレデリック・ズギバ博士は、
分析の結果をこう証言しました。

「分析にかけられた固体は人間のDNAを持った真性の肉と血液である」

さらに、

「分析された物質は、左心室の弁の近くの壁に見出される“心筋の断片”である。
この筋肉は、心臓の収縮を司るものである。

左心室は、身体全体に血液を送り出す働きをすることを忘れてはならない。
この心筋は炎症を起こしており、白血球の数が非常に多い。

このことは、
このサンプルが採取された時点で、心臓が生きていたことを示す。

生体外では白血球は死んでしまうので、
私の結論は、そのとき、この心臓は“生きていた”ということである。

白血球が維持されるには、生きた組織がなければならない。
よって、白血球の存在は、“サンプル採取の時点”で心臓が生きていたことを示す。

さらに、白血球は細胞組織に入り込んでおり、
このことから、心臓に“激しい負荷”がかかっていたことがわかる。

あたかも、この心臓の持ち主が“胸部をひどく殴打された”かのようである」



この分析調査には、2人のオーストラリア人、
ジャーナリストのマイク・ウィレシーと弁護士ロン・テソリエロが立ち合いました。
サンプルがどこから取られたかを知っていた両名は、
ズギバ博士の証言に言葉を失います。

そこで、マイク・ウィレシーはズギバ博士に尋ねました。

「人の身体の組織から採取したものを水の中に入れておいたとしたら、
白血球はどれくらい生存しているんでしょうか」


博士はこう答えました。

「数分もたたないうちに、白血球は消えてしまうでしょう」
(通常の状況下であれば、15分後ぐらいには「血液細胞」が死ぬ)


それで、ウィレシーは博士に伝えたのです。

「サンプルが採取された肉片は、
最初ごくふつうの水のなかに1ヵ月保存され、
その後、蒸留水を入れた容器に3年間保存されたものです」


そんな経緯をへて、はじめて分析のためにサンプルが取られたのだと・・・。

これを聞いたズギバ博士は
何をどう説明すればよいかわかりませんでした。

「科学的に説明することは不可能だ・・・」

そしてズギバ博士は熱のこもった調子で尋ねました。

「もう一つ説明してください。
このサンプルが死んだ人から採取したものなら、これを観察しているときに、
どうして・・・サンプルの細胞が動き、脈打っていたんでしょうか?

この心臓が、1996年に亡くなった人のものなら、
なぜ細胞は生きているのでしょう?
なぜ死んだ人の心臓から取り出したものが、
私のニューヨークの研究室で生きているんでしょうか?」


そこではじめて、マイク・ウィレシーはズギバ博士に伝えたのです。

「分析されたサンプルは、奉納されたホスチア(白い、種なしパン)から取った物で、
それが血に覆われた人の肉片に神秘的に変化したものです」



これを聞いたズギバ博士は驚き、こう言い残しています。

「奉納されたホスチアがどのようにして、なぜ、その本質を変え、
生きた人の肉と血になるのか・・・・。
それは科学では説明できない神秘として残るでしょう。
私たちの力をまったく超えた神秘として・・・」



エウカリスト(ブエノスアイレスの奇跡)image


さらにこののち、

リカルド・カスタノン・ゴメス博士が、
「ブエノスアイレスの聖体の奇跡」の分析報告を、「ランチャーノの奇跡」の分析報告と比較する調査を依頼しました。


   【ランチャーノの奇跡】
   時を遡ること8世紀、イタリアのランチャーノ(ラン・チアーノ)。
   ミサ中の聖変化(ただの物質が主イエス・キリストの体そのものに変わること)を
   疑いつづけていた司祭がいた。
   だが、ある日のミサ中、この司祭の司式で聖変化の業がなされたおり、
   それが実際の血肉に、また、カリスの中のワインが本物の血に変わってしまった。
   仰天した司祭は、その場に跪いてしまったとされている。
   その変化した御血と御体は、すぐに保管され、
   その後も、大事に護られ続けていた。

       エウカリスト(lancino2)image


   そして、1200年もたった20世紀。
   大学の医学チームによる科学的な分析がなされた。
   それによると、
   顕微鏡による目視では、聖体の周囲がパンのままで、
   中心部だけが人間の心臓組織になっており、血管や神経組織が見られた。
   血液は人間のもので、血液型はAB型であることが判明した。



エウカリスト(lanciano3)image




エウカリスト(lanciano)image_convert_20150223011841



リカルド博士が依頼した調査の際にも、それぞれのサンプルの出所は伏せられたまま
専門家たちによって両サンプルの比較が行われました。

そして、二つのサンプルの分析報告がつぎのように、結論づけられたのです。

「それぞれ採取したサンプルは、“両者とも同一人物のもの”である」

「さらに、どちらのサンプルからも、
この人物がAB+の血液型で、
中東地域に生まれて生活した人の特徴をよく表しているサンプルだ」



こうして、「ブエノスアイレスでの聖体に起きた出来事」は、
「ランチャーノの奇跡」をも科学によって裏付けするという
不思議な結果をもたらしたのです。

   (ちなみに・・・
    当時、無神論者だったリカルド・カスタノン・ゴメス博士
    この調査に携わったことで信仰者となった。
    2008年、彼はブエノスアイレスの科学会議において、
    自らの稀有な体験のスピーチも行っている)



この出来事は、科学の眼が捉えた出来事・・・
“実際にあったこと”でした。


  注:世界では“似たような”ことが、起きているケースがあって
    ほかにも噂にのぼっているものがある。
    しかし、それらがどれほど奇跡的に見えたとしても、
    上記のケースのように、しっかりした調査・検証も必要だ。
    もし、それがなされていない段階で、安直に信じ込んでしまうのは、
    お勧めできない。



エウカリスト(Lanciano4)image
(ランチャーノの聖体)



これまで、キリストを仰いで聖なる称号を付与された人たちがいます。
彼らは総じて、聖体に何かを感じ、
常人が眼にすることの出来ない何かを視たりしました。

だとすると、たとえば・・・
巷で霊を視たり、余人には聞こえない声を聞いたりした人の言辞から、
真実だ・・・と受け入れる場合があるのと同じに、

上記の出来事の奧に何かがある・・・と捉えるのは
ごく自然な受け止め方だと感じます。

そして、こうした出来事が世に知られたときには、
単に“不思議話の一つ”として捉える人もいるでしょうし・・・

一方で、
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたを置いて誰のところへ行きましょう」
・・・
と宣言する人々であれば、
いま以上に、聖体に現存するキリストに尊崇の念を抱いて
信じるものを“大事にする勇気”を強めるきっかけになるでしょう。


それでいいのだ・・・と、自分は想います。


そして・・・・・・

「聖なる御者のすることは、
       とにかく、人智を遙かに超える。

 それは、人間の“傲慢な気持ち”などでは消せないものだ」


・・・・・・と。


    エウカリスト(ホスチアとキリスト)image



*****

ブエノスアイレス近傍の情景・・・


エウカリスト(修飾画像2)image



やることが大胆だったりする・・・

エウカリスト(修飾画像馬に乗って)image_convert_20150223012533



人知れず、こんな寂しい景色もある。

エウカリスト(修飾画像ブエノスアイレスのとある情景)image_convert_20150223012057



とはいえ、ごくふつうの情景もあって・・・

エウカリスト(修飾画像白いライオンさんと)image



ましてや、こうだったら、こちらも顔がほころぶ。

エウカリスト(修飾画像子供たち)image



そしてどこの国の天にも、たくさんの光る聖体が・・・。


エウカリスト(修飾画像空の聖体みたいなw)image_convert_20150223012347


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季節のめぐりと「特別な日」に・・・

Posted by 世羽 on 25.2014 イエス関連   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
とにかく、つつがなく今日という日を過ごし
平凡な日々を単純に喜べるということ・・・
それだけでも、大きな恵みだと思う。

クリスマス(星)image_convert_20141224004447


とある児童公園の脇を通りかかったら、
たくさんの子供たちが遊んでいました。

そのなかで、小学校低学年と思しき1人の少年が
自転車にまたがったまま
大きな声で「ジングル・ベル」(しかも英語)を歌っていて、
思わず口元がほころんでしまいましたw。

季節の歌を耳にすると、個人的には気分が明るくなります。


12月25日というと
日本ではもっぱら、サンタさんの日

     クリスマス(サンタ猫さん)image


また、恋人たちの楽しい日という感じかもしれません。

一方、キリスト教圏の多くでは“家族の絆を深める日”
“家族とともに過ごす日”として捉えられているかと思います。

クリスマス・・・
この言葉はラテン語の「キリストのミサ」(Christ mass)に由来します。

かつては、同じくラテン語起源の「ナタリス」(誕生)と呼ばれ
日本の中世期のキリシタンは
「ナタリのゆはいび(祝い日)」と呼んでいたようです。

以前も書きましたが、キリストの正確な生年月日は不明です。

それが今のようになったのは4世紀頃の中頃

ローマあたりは緯度的に日本に似て、12月頃までは、
太陽の光が弱まっていく“季節の移り”のなかにあります。

そして12月も押し迫ったころ、
昼がもっとも短くなる「冬至」を迎え、それが過ぎると、
まるで蘇るかのように太陽の光が増し始めます。
そんな現象を、当時の人々は
「祝うべきもの」と捉え、もともと12月25日を
“太陽神の祭日”としていました。

そんなローマにいたキリスト教徒たちのあいだでは、
“正義の太陽”と呼ばれるキリストにちなんで、
同じくこの日を「メシア誕生の日」として喜び祝う習慣が生まれました。
そしてそれが、コンスタンティヌス帝の治世下で、公に定められた・・・。

      (巷ではミトラ教との関係のみが引き合いに出されますが
      それだけの理由ではなく・・・。
      また現在、一部のキリスト教派では
      年が改まったころにキリストの降誕を祝う)



キリストの降誕の様子は、以前に書きましたが・・・。

自分は、ここに登場する“素朴な羊飼いたち”が、
かなり好きです。

天使のお告げを受けて


   クリスマス(天使と羊飼い)image


クリスマス(光を見たShepherds)image



生まれたばかりの幼子を拝しに道を急ぎ、

その幼子に接したさい、
彼らが示した優しい気遣い・・・

信頼できる「何か」を直感して
恐れることなく近づこうとした彼らの姿・・・

それがどことなく、心を打つのです。

誰がそんなものを見たのか・・・と問われるでしょうが、
うまく言えませんが、本当にあったことというのは
ある時、時空を超えて、直接心に響く・・・と、
個人的にはそんなふうに感じています。

そして、この降誕の物語には
色々な教えが隠れているように思います。

それはまず・・・

厩にしろ、洞窟にしろ、キリストが生まれた場所は、
預言者の告知以後、
長いことメシア降誕を待ち望んでいた人々の想像していたような
権威ある素晴らしい場所ではありませんでした。

それとはまったくかけ離れた“非常につつましいところ”
当時の貧しい人々でさえ使用することがなかった場所です。


   クリスマス(貧しい場所で)image


それはすなわち、

神として生まれる場所を自由に選べるにもかかわらず、
あえて“もっとも貧しい者”として降誕したという
上位にある存在の比類なき謙遜です。

さらに・・・

聖家族を、一番最初に目に映した者たちが
当時、最下層民とされ、馬鹿にされていた羊飼いで、


クリスマス(聖家族と羊飼い)image


かつ、そのほかは誰もメシアが生まれたことに気づかないなか、
遠路を駆けつけたのが東方の“賢者”たちだった・・・。


クリスマス(東方の三賢者)image_convert_20141224004755


そこには、
「自分が何も知らない」と知っていた貧しい者と、
多くの知識を持ちながらも「自分にはいまだ知らないことがたくさんある」
・・・と知っていた賢者、
そんな両者の姿が浮かんできます。

「何か」を知るにあたっての
傲ることのない謙虚さの一端を垣間見ることができるわけで。




     (ここで・・・遅まきながら
     もし、信者さんのみなさんがおられましたら、
     細かい宗派を超えて・・・
     喜びの意味を持つ「主の降誕」を、心からお祝い申し上げます)



クリスマス(モスクワ)image



24日から25日に日付が変わる深夜。

キリストについていく道を選んだ人々のなかには
喧騒を離れ、祈りという“神との親しい語らい”の時間を
過ごした方たちもおられるでしょう。

それは

誰のためでもなく、ましてや自分のためでもなく
キリストを信じる人が、ただ、キリストという存在を愛するため。


たぶん、その心情は
この道を歩く人の真髄とも言えるもの。
そして、それはまた、
キリストの聖性を倣う心が求めるもの・・・。


日本の巷のクリスマス・イベントは25日が過ぎると
あっさり終了しますが・・・w。
世界のキリスト教圏では、喜びの降誕節としてしばらくつづき
その後、御公現祭、さらに幼子イエスの奉献
さらに復活祭へと向かいます。


クリスマス・・・毎年来る、同じような日ですが・・・

その都度、何かしら新たな
飛びっきりの暖かさが心に染み通りますように。
そしてそのあとも・・・ずっと。



クリスマス(降誕)image




     クリスマス(サンタ猫さん2)image


クリスマス(ハンサムさん)image


そこらのどこかで、大声でこんな歌をうたっていたら・・・ それは自分かもしれませんw。





「マグダラのマリア」最終・・・マグダラのマリアの後日/ラザロの蘇りの情景/補足

Posted by 世羽 on 23.2014 イエス関連   2 comments   0 trackback
(つぶやき)
気象庁は、1つのひとつの揺れを個別に見るが、下はつながっているのだし。
すべてをひっくるめてデータを見てほしい・・・と思うのは自分だけか?

かたや、「なりすまし小学4年生」事件
こうして、いとも簡単に、平気で「嘘」をつく人がいる現実には
もう、嗚呼・・・という嘆息しか出てこない。


マグダラの5(いまのGalilee)image
    (いまのGalilee)


前記事からのつづき・・・。


マグダラのマリアの後日

(その一部を以下に要約)

キリストの眼前で、それまでの自分と決別したマグダラのマリアでしたが
突如、姿を消してしまいます。

心配した姉マルタは、
「また荒廃した生き方へと戻ってしまったのか?」と、かなり心配します。
しかし妹は“聖なる孤独”に包まれて、
喜びを味わいながら聖母のところへ向かったことを知ります。

「それにしても、
先生のお母さんも、その家がどこにあるかも知らないのに、
ひとりぼっちで・・・」
と危惧するマルタ。

ですが妹は「自分を導く心の“本能”によって、そこに導かれた」・・・とも
のちに知ります。

かくして、マグダラのマリアは無事に聖母のもとへ辿り着き
聖母から弟子たちに紹介されます。
そして、これまでとはまったく違う“質素で素朴な服”を着て、
聖母から直接さまざまな事柄を教えられながら、
他の弟子たちと一緒に“自らの信じる道”を開拓していきます。
(聖母の深い霊性は「マグダラのマリア」に大きな影響を与えた)

それでも、人の心は
1夜にして“完全に変わる”わけではないようで・・・。

たとえば、のちに宣教から一時的に戻ったキリストや弟子たちと一緒に
新たに「マグダラの町へ向かう」と言われたときなどは、
「自分がどう思われるか」という思いに苛まれ、酷く泣いたりします。

しかし、
「どうしてもそうする必要がある。
今すぐにでも、“人の思惑”という恐ろしい牢番を閉め出さないと、
あれほどの英雄的な回心を、麻痺させることになる」
という
キリストの促しを聞き入れて、使徒たちに同行しました。

いくら使徒たちが傍にいてくれたとはいえ、実際にその地に足を向けてみると案の定、
かつてのマグダラのマリアを知る人たちは、彼女に向かって冷たい、好奇な視線や皮肉に満ちた言葉を浴びせかけました。
そのため彼女はたびたび、多くの猟師に囲まれた獲物のようにオドオドしますが、
彼女はその試練に耐え抜いて、いつしか・・・
かつて生きた町の人々や、裕福な知人たちの前で“生まれ変わった自分の姿”を晒すことを恥ない自分を育てます。

また、ずっと年下の(以前書いた)少年マルジアムから「主の祈り」を喜んで教わるなど、
謙虚な一面も見せています。

こうして彼女の心は、いっそう勇気に満ち溢れるものに変化していきます。


マグダラの5(昔の想像情景)image



で、さらにその後
いくつかの町を宣教の一行と行動を共にしてから、ほどなくして・・・。


ラザロの蘇りの情景

マグダラのマリアは、聖母を含む女弟子や使徒の一行と別れ
病に冒されはじめていた兄ラザロの待つベタニアの家に戻りました。
(もともとラザロの家は、由緒ある名家で、非常に裕福だった。
語りによると、ラザロはキリストの受難後バラバラになった弟子たちをまとめる役目を担い、
それを完遂する)


ここでは省きますが、この家にいるときに、
聖書の有名なくだり、あの「マルタとマリアの話」が展開しています。


一方このころ、
キリストとの出合いによって魂の格段の上昇を遂げていたラザロでしたが、
原因不明の病に伏すようになっていました。

心あるニコメデスと呼ばれる医者が看てくれていましたが
余命は時間の問題・・・というところまでいきます。

姉妹は心をこめてラザロの看病をしますが、はかばかしくない。
病状は悪化の一途を辿ります。
そこで彼女たちは「あれほど多くの病人を治してきた救い主ならきっと何とかしてくれる・・・」と、キリストに使いを出して、家に来てくれるよう頼みました。

ラザロは癩病ではありませんでしたが、その症状たるや酷いもので、
身体中に腫れ物が出来、それが膿を出し、その臭いも凄まじく、
部屋中に立ちこめる腐臭を香料で誤魔化さなければいけないほどでした。

キリストは、見舞ったラザロとたくさん話しをします。
が、姉妹の期待とは裏腹に、なぜか彼を治しません。
そして、こんなことを言い残します。

「・・・・すべてのはかりを超えて、
すべての現実を超えて、希望し、信ずること、これは愛です。
私はあなたたちに、こう言います。
正反対と見えるすべての現実にそむいて希望し、信じよ・・・と。
私の言いたいことがわかりますか?


反するすべての現実に対して希望し、信じること・・・これを知りなさい。

いま、ここに留まるには少しの時間しかありません。
私は“人間として”彼を看護し、慰めて、あなたたちを見守って元気づけるために
どれほどあなたたちと一緒に留まりたいか、いと高きものはよくご存じです。


しかし、“神の子として”私は行かねばならないと知っているのです。
私は・・・ここから去る必要があるのだと・・・。


あなたたちが、呼吸する空気よりも“私を望む”だろうその時に、
私がここにいてはいけない・・・と知っている。


いつか、近いうちに、
いまは残酷とさえ思える、いろいろな理由を分かってくれるでしょう。
人としての私にも、あなたたちにも苦しいその理由を・・・。


それは“神的な理由”です。

あなたたちは、いまの苦しい理由、その意味の美しさと智慧とを
包含して眺めることはできません。

また私は、それをあなたたちに表すことはできない。

しかし、すべてが実現するだろうその時に、理解して喜ぶでしょう。


聞いてください!

もしラザロが・・・“死んだら”・・・すぐに誰かを送って私を呼びなさい。
そのあいだに、あなたたちの家柄にふさわしい葬式のために多くの人を招待して
準備にかかればいい。
彼ラザロは偉大なユダヤ人です。彼を正当に評価している人は少ない。
しかし、神の御前には、彼は多くの人に勝っている!


あなたたちが、いつでも私を見つけられるように、
どこにいるかを続いて知らせます」



・・・とは言われても、姉妹がガックリしたのは言うまでもありません。


一方、キリストがラザロに何もしなかったことは、
ユダヤの名士たちをはじめ、キリストを非難する人たちの元に伝わりました。
「ほら、あいつには治せなかったのだ」という見方がはびこっていくのです。

そして“そんな人々”は、自分たちと意見の対立するラザロが癩病だったら
いっそのこと律法のもとで隔離してしまおうと
見舞いを装ってたびたび確かめに来るのです。

そんな嫌みな連中の前に立ちはだかって、勇敢に兄を護り続けたのが、
マグダラのマリアでした。

さらに時間は進み、ラザロは重体になります。

医者ニコメデスが言います。(以下幻視から・・・)

「どうして、あなたたちの友人の、あのガラリヤ人を呼ばないのですか?
彼にできないことはないので、何かしてくれるでしょう?
私は、死を宣告されたのに治ってしまった幾人かを調べました。
彼からは不思議な力が出ている。(略)
まあ、私にはよく分からないですが、
たまたま群衆に紛れて彼のすることを注意して見ていて、不思議を見ました。
彼をお呼びになれば・・・。


私は異教徒ですが、あなたたちの民の“不思議な奇跡家”を尊敬しています。
私が出来ないことを彼ができれば、どれほど嬉しいことか・・・」


それに対してマグダラのマリアが言う。

「いえ、ニコメデス、彼は神です。
その力は、神としてのご自分の思し召しです」


「いや私は、けっしてあなたたちの信仰をからかっているわけではありません。
むしろ、不可能と思えるところまで至るように、その信仰を励ましたいとすら・・・。
そのほかにも、いつか、神がこの星に下ったとも書かれていました。
私は・・・そんなことを今まで信じたことはありませんが・・・。
しかしいまは、人間として、また医学者としての学問と良心をもって、
そのようなことがあり得ると言いたい。
なぜなら、あのガラリヤ人は、
“誰か”の神だけが行い得る治癒をもたらしていますから・・・」



そしてラザロはついに危篤となり・・・。
事態に際してマルタとマリアは意見を異にします。

「少なくとも先生に知らせましょう」

「この状態を私たちのほうから知らせる必要がある・・・というみたいに?
いいえ! 先生はだめだと言ったでしょう?
先生は、
『彼が“死んだら”知らせなさい』と言ったじゃないの。
だから、そうしなければ・・・。その前はだめよ」


「誰も、私の苦しみに同情もしてくれないの?
第一にあなたが・・・」


「そんなふうに泣くのはおやめなさい!
 それはもう耐え忍べない・・・」



先生の言いつけを護ることをガンとして主張するマリア。
不安に苛まれるマルタ・・・。両者の違いがはっきりしてきます。

マルタは結局、マリアに“内緒”でキリストのもとに僕を送り、
ラザロの危篤を知らせてしまいます。

けれども、先生は戻って来ない。
そしてラザロは死にました・・・。

      マグダラの5(ベタニアの位置)image


マルタは
「なぜ、先生は兄を救ってくれなかったのか・・・」と嘆きに嘆きます。

一方マリアは、先生の言った
「すべての現実を超えて、希望し、信じなさい」を自らに言い聞かせます。
それでもさすがに、目の前にある現実・・・
すべての信仰を超えて、希望し、信じたが“何も起きなかった”
という現実を見て幻滅するという、
ふつうの人なら誰でもそうなる状態に陥ります。

そして、ラザロが死んで4日もたったころ。
あの蘇りが・・・。


由緒ある家の盛大な葬儀のために、
非常に多くの人が集まっているところにキリストが現れます。


(以下、幻視の語りを“部分的”につないでの概要)

「先生だ!」

そこに集まった多くの人たちは挨拶をしない。

泣き声とともにマルタが駆け寄り、無意識の咎めを含ませて言う。

「ラザロは死にました。
あなたがここにおられたなら、死ななかったでしょうに。
どうして先に来てくださらなかったのですか、先生?
私たちの兄ラザロが、あなたをどんなに呼んでいたか・・・。
いまはご覧のとおりです!
私は悲しくて・・・
マリアは泣いて・・・あきらめることを知りません。
でもラザロはもういない。
私たちがどれだけ兄を愛していたか、あなたはよくご存じでした。
私はあなたから、すべてを期待していたのに・・・」


涙を拭いながらさらにマルタが言う。

「でも、いまでも、私は希望しています。
なぜなら、あなたが御父にどんなことを頼んでも与えられると知っていますから・・・」


「あなたの兄は蘇るだろう。立ちなさいマルタ」

「はい、先生。知っています。彼は“最後の日”に蘇るでしょう・・・」
(マルタはここで、遠い未来の公審判にそれが起きると勘違いをしている)

「私は復活であり、命だ。
私を信じる人は死んでも生きる。
そして、信じて私に生きる人は永遠に死なない。
あなたはこれをすべて、信じていますか?」


「はい・・・」とマルタは答え、急いでマリアを呼びにいく。


すっ飛んで来たマリアが「ラボニ!!!」と叫び、
キリストの足下にうずくまるように伏して大いに泣く。


「マリア、あなたに平和、立ちなさい!
私を見なさい!
なぜ希望のない人のように嘆くのか!
神の栄光を見るために、すべての信仰を超えて希望するようにと言ったでしょう?
こんなに泣き崩れるとは、あなたの先生が変わったとでも思うのですか?」


(そこでマリアは、マルタと同じように無意識の咎めを口にする)

「マリア、泣くのではない!
あなたの師も、
忠実な友人の死のために・・・
彼を死なせておくがゆえに苦しんだ・・・」


その様子を見て、周囲の心ない人たち、キリストを敵視する人たちが
冷笑を浮かべている。

そしてキリストは、ラザロの葬られている墓へ案内するように言って
そこに向かう。

墓の封印の石を見たとき、キリストは友人を想って涙を流す。

その涙を拭うと、キリストが叫んだ。


「その石を取り除け!!!」

周りで見ている人々は、「あいつはキチガイだ」というように、首をふっている。

誰も命令を実行しない。
皆に躊躇がある。


マルタが泣きながら言う。

「先生、できません。彼は4日も前からここにいて、・・・・
いろいろな香料のために、前よりも臭っている・・・。
何をご覧になりたいのですか?
その腐臭を?
できません、それはできせん。不浄のためにも」


「“信じるなら、神の栄光を見るだろう”と私は言ったではありませんか。
その石を取り除きなさい。
私はこれを命ずる!!!


その、何とも言えない神的な響きに、
人々の口から「おおっ」という嘆声が出て、彼らの顔が青ざめている。


僕たちが石を取り除く・・・。
マルタが何やら話しかけるが、キリストは答えない。


目を天に挙げ、胸を十字に開き、
非常に強い声で言葉を一つずつ句切るように発しながら祈っている。


「父よ、私の願いを聞き入れてくださったことを感謝します。
あなたは私の願いをいつも聞き入れてくださることを知っています。
しかし、これを言うのは、
ここにいる人々、私を取り囲んでいる群衆のためです。
皆が、あなたを信じ、そして私を信じ、“あなたが”私を送られた・・・
と信じるように」


このまま何秒かたつうちに、キリストの姿が変わる。
脱魂状態のような声に出さない祈り、もしくは礼拝の密かな言葉を言う。

彼の身体が光に変わって霊のようになり、背たけがもっと高くなって、
地面から上がっているように見える。


髪、皮膚、服の色はそのままで、
タボル山での変容のときに、すべてが光と眩しい白に変わったのとは違う。
それでも、光が放たれている。

彼のすべてが光で成っているように見える。


(ちなみにタボル山のほう・・・)
マグダラの5(タボル山での変容)image


その“光”(キリスト)が、父への観想に心奪われている。

この変わったさまに、皆が心を高鳴らせているようだ。

こののち、(光が)人の姿に戻る。
しかし、それは威厳に満ちている。


墓の入り口に進むと、十字に開いていた腕を、手の平を下にして前方へと差し出し
その手が墓穴に入れられ、それは中の暗さに対して白く目立つ。


そのとき、目から“水色の火のようなもの”が放たれた。
奇跡のその輝きは、私の眼には耐えられない。


沈黙の闇のなかでの、力強い声、
かつて湖の上で、風に命じたそれよりも強い叫び・・・
私がこれまで見た、どんな奇跡の場面でも聞いたことのない声で叫ぶ。




《《《《《《《 ラザロ!!! 外に出よ!!! 》》》》》》》



声が墓の中はもちろん、ベタニアの家と畑にまで響いている。
それが
「外へ! 外へ! 外へ!」とこだましている。


皆は、戦慄を覚えているのか、好奇心に動けなくなっているのか、
色を失ったかのように彼らの目が広がり、
喉まで来ている驚嘆と恐怖で唸りたくなっているかのように、
無意識に口が開いている。


マリアが、キリストのマントの裾を捕まえて、ふるえている。

墓穴の奧に白いものが浮かんでいる・・・。

最初は凸状の薄い線のように見えたが、それが卵形に変化して益々広くなり
長い線が加わる。
見る人に恐怖を与えるかのように、幽霊のような包帯に包まれたものが
ゆっくりと進んで来る。


キリストは、それが前に出てくるのとほとんど同じにゆっくりと後ろに下がっている。
それゆえ両者のあいだの距離が同じになっている。


恐怖に閉ざされていた群衆の喉から、こんどは
はっきりした「おお!!!」・・・と、叫びに変わっている。


ラザロは石灰の像のように入り口に立った。
墓穴の暗さに包帯の白さが浮き出して、幽霊のようだ。
しかも、太陽に照らされた包帯には“気味の悪い膿”が垂れているのも見える。


(ラザロは群衆の前に姿を見せた直後に包帯を解かれて、身体を洗われ、
飲み物などを与えられて正気に戻っていく)

マグダラの5(ラザロの蘇り)image


一方キリストは反対者のグループに近づく。


「サドクちょっと待て、あなたとあなたの仲間たちに一言いいたい。

サドク、いま見たことで足りるか。
あなたと仲間たちは、信ずるためにも“腐敗しきった身体”が健康になるのを『見たい』と言った。
いま見た腐敗で満足したか。
ラザロは一度死んだが、いまは、何年も前から無くしていた健康をもって生きている・・・いまそう口にする勇気があるか?
私は知っている。あなたたちがここに来た理由を・・・。
あなたたちが、この人たちを試みようとして、
より大きな苦しみと疑いを注ぐために来たのを。


私が(何もできずに)“死者の部屋”に隠れてしまうのを望んで、私を捜しに来た。
あなたたちがここに来たのは、愛をもって死者に敬意を表するためではない。
ラザロが本当に死んでいるかどうかを確かめるつもりだった。
そして時間とともに、それに喜びすら覚えていた・・・
(略)

「信じるために・・・“否定しようもない現実”を認めるために、
これでもまだ足りないのか」



(結局のところ・・・キリストの行ったことを見て人々が心を動かされたものの、これほどのことを目にしてもなお、多くの人の心はそのままだった。「やつは、良からぬ魔術を操っているらしい・・・」という噂にまでなる)


     マグダラの5(bethanyLazarusTomb)image


群衆が帰り、静けさを取り戻した家の前の小径にキリストが立っている。
“人として”の彼がつぶやく・・・。


「不浄物は火によって無に帰る・・・死の廃物が。
だが・・・人々の心の腐敗は、
何の火によっても無にされることはない・・・地獄の火でも。
永遠につづくもの・・・死よりも・・・腐敗よりも・・・いつまでも・・・
なんと恐ろしいことだろう・・・。
そして人類よ、腐敗することをそれほど望むなら、誰があなたたちを救う?
私は・・・一言をもって1人の人間を墓から奪ったが、
言葉の“海”・・・苦しむ“海”が、
人間を、何億の人間を、罪から奪えないのだろうか」



(この呻きのようなつぶやきは
人性を備えた不可思議な存在の「悲しみ」のようでもあった)


この、悲しんでいるキリストを目にしたマグダラのマリアが
傍にいたマルタとキリストに向かってこんなことを言います。

「私の姉よ!
私はもう、いつでも希望し、信じます!
私はもう疑うことはありません。
主よ、決して。
私は信仰で生きる者となりました。
あなたは私に、信じられないことを“信じる”という能力をくださいました」



このはるかのち、日を変えて、こんなやりとりがされています。


「マリア・・・あなたも主の善い婢(はしため)となるでしょうか?」

「ラボニ、それはあなたがご存じです。
私は・・・私は大きな罪人だった・・・それしか知りません」


「マリア・・・私が行うことはいつも完全です。
ですから、あなたの赦しも私が行ったのですから完全です」


「おお、私の愛する救い主よ。そのとおりです。
あなたがお望みであれば、私は善き婢になるでしょう。
主よ、私のほうからそれを望みます。
あなたが同じようにお望みになるかは分かりませんが」


「マリア、私はそれを望む。私の善い婢であることを。
今日は昨日より、明日は今日よりも・・・。
私が、『マリア、これでよい、もうあなたの休みの時が来た』と言う
その時まで・・・」


(略)

「私は自愛心が強くて、自分自身に対して評価が甘すぎたのです。
いま・・・私の卑しさの底まで探り、そして遡るために
長い、長い道のりを辿る必要があると知りました。
先生が助けてくださるなら、そうするつもりです」


「あなたを助けるとも。マリア、ここから去っても助けよう」

「あなたは愛することしか知らない。
マリア、これはあなたの気質です。

・・・・・・それぞれのものには、それぞれの気質がある。
心の指導者たちの智慧は、相手の人間の傾きを利用して
善の道をますます発展できるような道に人を導くがために
“知”としてある。

植物にも、動物にもその法則がある。
実を結ぶ木に、花だけを、また本来のものと異なる実を要求したり、
またある動物に“他の動物の生き方”を望むのは愚かなことだ。

蜜をつくるあのミツバチに小鳥になれと、あえて望めるだろうか。
・・・みな、それぞれの役割によって役立つ。
人間も同じです。そして、あなたには愛する役割が与えられた・・・」



受難のときのマグダラのマリアの様子は、いまは書きませんが
復活後、栄光体となったキリストはまず、
誰よりも真っ先に「聖母」のところにやってきて
その後に、聖書の記述のように
使徒よりも先に、マグダラのマリアに自分を示した、と語られています・・・。


マグダラの5(復活の光)image



で、この「ラザロの蘇りの情景」の説明でキリストがこんなことを。

(母のあとに)かつて乱行に明け暮れた女のもとを訪れた・・・。
それは、“そういう生き方”をして来た女たちも、身を改めて、私を信じるとき、
私の憐れみが“すべてを赦す”ことを知らせるためだ。


だが、彼女は
栄光の身体をもって御父なる神のもとへ行く私に触れることができるほど
清いものではない。
それは許さない。
彼女は苦しんでなお、自分を清める必要がある。
とはいえ、神を愛することを知っている彼女には、
この“報い”
(使徒よりも早く姿を見せること)を与える値打ちがある。

神が彼女に『マリア・・・』と呼びかけたとき
『ラボニ(師よ)!!!』と答える彼女の叫びを聞くがよい。
そこに、彼女の心の想いがすべてある」


「何よりも私を愛するとき、私は傷ついたこの手のなかに、
あなたたちの病んだ心を受け取り、そこに私の力を注ぎ込む。
こうして私の愛によって、あなたたちは、
健康で幸福な、美しい自由な者に変わる」

 

マグダラの5(ちょっと昔のLazarusTomb)image



ということで・・・ものすごく端折って書くしかないので
何がなんだか分からないかも知れませんが・・・
マグダラのマリアの姿には、こんなバージョンもある・・・ということです。

別論と比較してみたり、どう感じるかは
すべて読み手のみなさんしだい・・・でしょう。


そしてついでに・・・以下をメモしておきます。


補足:幻視者に伝えられたことから抜粋要約

イエスが私にこう言われる・・・。

「私は、ラザロが死なずにいるときに間に合わせて干渉することもできた。
だが、そうしなかった。
私は、この蘇りが“諸刃の剣”になるだろうとも知っていた。

なぜなら、“考えの正しいユダヤ人”がこれで回心し、歪んだ考えの人々に
“もっと猛烈な反感を起こす”とわかっていたからだ。

この、私の力の最後の打撃・・・
それで彼らが私の“死刑判決”を決定したのだ。
だが、私はこのために来たし、“それ”が実現される時が熟したということだ。

私は、ラザロが死んで直ぐにベタニアに行くこともできた。
しかし、すでに進行している腐敗物の蘇りを行って、
もっとも頑固な人でも納得させたかった。

また、“私への信仰”を世界に運ぶことになる使徒たちも、
最高の奇跡によって“鍛錬された信仰”を持つ必要があった。

たびたび言ったように、
使徒たちにも“人間的な考え方”が頑固にあった。

これは、乗り越えることのできない妨げではなく、
むしろ、“成人になってから私の弟子になった人々”には当たり前のことだ。

人の考え方は、今日から明日のあいだに変えられるものではない。


(略)

実際、本当に望むならば、何でも変えることができる。
そして私は実際に、
勇気のない人々、争い好きな人、高利貸し、快楽主義者、
信仰のない人々、そんな人々から殉教者や聖人をつくり、
世界に福音を伝える人たちに変えた。

そう“望まなかった人”だけが変わらなかった。
私は小さな人々、弱い人々を愛する。
あなたもそのうちであるが・・・。

この人々に、私を愛し、私に従う意志さえあれば、
無に等しいものをもって、私の愛弟子、友人、使いにする。
いまでも、このような人たちによって、
人々を私に導くために奇跡の可能性を無くさない・・・それは絶えざる奇跡だ。
しかしいま、この可能性は弱まっている。
油が足りなくなる灯りは臨終で死ぬ。
同じように奇跡を行う神に対しての信仰の不足は奇跡の可能性を殺す。


(人間が)奇跡を願うとき、要請に対して二つの反応の仕方がある。
ひとつは、神が愛をもって応じる。
もうひとつは、怒りをもって背を向ける。


前者は私が教えたとおり、疲れを知らず、信頼を捨てず頼むもので、
これは必ず答えられる。
なぜなら、神は善き御者であり、何でもできる力を持っているからだ。
この要請は愛であって、神を愛する人には何でも与えられる。

もう一方は、
神が自分たちの僕であるかのように、自分たちの悪まで下って、
自分たちが神に与えようとしない愛と従順を求める反逆者の要請である。
これは神への侮辱のひとつで、神は恵みを拒む。

私はもはや集団的な奇跡を行わないと、どうして嘆くのだろうか。
それをどうして・・・私が行うだろう。

私を信じる集団がどこにいる?
まことの信仰者はどこにいる?
大きな団体の中の、まことの信仰者はどこにいる?

確かに、火事に焼かれた森のなかに生き残った花のような、
こうした信仰厚い人々を私はたまに見る。

だがほかの場合は、サタンが自らの教え(誘惑)をもって焼き尽くす。
そしてますます焼き続けていくだろう。


あなたたちの超自然的な方針として、
トマに対しての私の回答
(ヨハネ:20の24~29)を、
いつまでも忘れないように・・・。


“人生”自体を、目的としてではなく、
まことの命を手にするための手段として重んじないならば、
私のまことの弟子ではあり得ない。
この世で自分の命を救いたい人は、永遠の命を失う。


何度も繰り返したことでもあるが
試練とは何か・・・?


それは通り過ぎる雲にすぎない。
そして
(雲が過ぎれば)“天”が残り、試練を超えたあなたたちを待っている。

私は英雄的な生き死にをもって、あなたたちのために“天”を勝ち取った。
あなたたちが私に倣うことだ。
英雄であることは、殉教して死ぬような人たちのことだけではない。

キリスト的な生活は、“永久の英雄性”である。
なぜならそれは
世間、悪魔、肉体に対しての絶えざる戦いだから・・・。

私は、あなたたちが私に従うようにと強制などはしない。
私はあなたたちを自由なものとして残す。

だが私は、偽善者を厭う。
私とともに、私のように生きるか、それとも私に反して生きるか、
あなたたちが私を騙すことはできない。
敵との妥協までに下がることはできない。

もし、あなたたちが彼を選ぶならば同時に
私を友人として考えるな。
彼か、それとも私か、選ぶしかない。


(略)

わたしがあのとき泣いたのは、
3つの想いがいつもより活発に表面に出ていたからだ。

ひとつは、人を悪に誘惑した存在が
この世にどれほどの破壊をもたらしたかを理解させたいという想い。


二つめは、私の伝道の必然的帰結でもある“この奇跡”さえも、
私が携えてきた真理について
ユダヤ人の世界を納得させないだろう・・・という証
(の涙)でもある。
それは未来の世界でも、
奇跡だけでは人間をキリストに向かわせないということ。その想いだ。


こんなわずかの人々のために、
近いうちに死ぬという
(人間としての)苦しみは大きかった。

三つめは、私が瀕している死の光景(への想い)だった。
私は神的でありながら、まことの人間でもあったのだ。


“神の慈悲”はあなたたちに未来の認識を隠す。
しかし私にはすべてが現されていた。


自らの運命に嘆くあなたよ・・・。
人間のどのような運命も私より辛いものはないだろう。

なぜなら、私は誕生から死にいたるまで、
私に伴う貧しさ、さまざまな試練、さまざまな敵対、
そして何が起きるかをずっと知っていたのだから・・・。

みな嘆かないで!
そこに希望を置きなさい。
あなたたち皆に、私の平和を残す・・・」



     マグダラの5(イエズスと聖書)image



*****

ここで語られていることを丹念に調べ、接していると
キリストという存在を“ただの宣教者なる人”と捉えているだけでは
彼の言いたいことを“心が”理解できない・・・と、気づかされる。

そして、この存在を知れば知るほど、
恐れずに言うなら、
もしかすると、キリスト教徒を自称していても、大半の人たちが
その“聖性と清らかさ”を過小に見ていて、
文字の上での「人の思惑」からでしか理解していない?・・・と感じる。

ただこれは、あくまで個人の見解に過ぎないが・・・。

いずれにしても、ここに映し出されているキリスト
確かに何かを伝えている・・・という感覚が、自分にはある。

よく(男女の区別なく)
心に傷を負う者はマグダラのマリアが辿った勇気ある道を探せ・・とも
言われたりする。
それはもちろん、望んでこそ・・・だろうが。

自分は、一連の記事の最初に述べた、特にわけありの女性たちに、
たとえ伝わらないまでも、
そこはかとない気持ちを込めながら、書きつづっていた。
何かの困難から立ち直った人は、本当に「強い」・・・そんな方々に
敬意を抱きながら・・・。


マグダラの5(羊さん)image


*****

この世界は、誰かの日常が“別の誰かの非日常”だったりする。
そしてときに、刺激を求めて非日常感を味わい、また元に戻ったりする。


マグダラの5(修飾画像とある観光)image


マグダラの5(修飾画白いトナカイ)image



ともあれ・・・その戻った日常が
今日も明日も元気でメシが美味い・・・ていどに感じるような
すごくちっぽけで、素朴な日々であっても、
そんなことが思いのほか“心の糧”になっている・・・。
ありがたい・・・ただ、そう想う。


マグダラの5(彩雲)image


「マグダラのマリア」4・・・勝利はすでに手のうちに/髪で香油を塗った女

Posted by 世羽 on 20.2014 イエス関連   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
選挙かぁ・・・。
積極的に1票を投じたいと思える御仁がいる選挙区は幸いだ。
しかし、けっこう多くの場合が消去法の選択で、
最悪、誰にも入れたくなかったり・・・。

いずれにしても、最低限
ちょっと前の「日本ではない」かのような形に戻るのだけは勘弁だ。
視点はそれに向く。

人にはそれぞれ大義があるし、誰が立ち、誰を選ぶかは止められない。
が・・・有権者である以上、立候補者の支援背景辺りは自分なりにきちんと調べて
熟慮する賢明さは持っていたい。

そして・・・それ以前の話しになるが
民衆が知らないうちに敷かれた
「3R・5D・3S政策」が本当の意味で消滅しないかぎり
いまの混沌とした世はつづくのだろう。

マグダラの4(修飾画像たぶんカシミール辺り)image



一連の“幻視者が視た”話のつづき・・・


前記事でキリストがマルタに
「明日カファルナウムで話すことをマグダラのマリアに伝えなさい」と言い・・・
その後の出来事はこんなふうでした。


勝利はすでに手のうちに

イエスが使徒たちと舟に乗って、宣教の地に向かおうとしていると、
侍女のマルチェッラを伴ってマルタがふたたび訪れます。

イエスは使徒たちを先に行かせ、マルタを連れてしばらく岸辺を歩き、
村から離れた静かなところにくると微笑んで、マルタに話しをするように言います。

「先生、昨夜のこと、真夜中にマリアが家に戻りました。
ああ・・その前に、
昨晩の夕食のときに彼女が私に言ったことをお話するのを忘れるところだった・・・。


マリアが
『服とマントを貸してくれますか?
私には少し短いと思うけれど、たくし上げることもしないでいい、
マントは下げて着ればいいから』
・・・と。

「どうぞ、どれでも好きなのをとってちょうだい」と言いながら
私はドキドキしていました。


というのも、その前に私とマルチェッラは
「夕方、先生が人々に話しをされるからカファルナウムに行きたいわ」と
話していたからです。


そして、マリアがソワソワしている様子を見ましたから。

そのとき彼女は、
何を選んで、何を拒むか、
心を決められない人のように行ったり来たりしていたのです。


彼女は食事を終えると私の部屋に行って
いちばん目立たず慎み深い服をとって着たのですが
あまりに短くて、乳母に裾を下ろしてくれるように頼みました。


ほんとうは彼女が自分でそれをしようとしたのですが
『私には縫えない。役にたつことをみんな忘れてしまった』と言って泣き
私の首に抱きつくと
『私のために祈って』・・・」そんなことを言いました。


(内容を要約:
  当日、マグダラのマリアは1人で出かけ、
  マルタはそんなマリアのことを想い、祈る。
  そしてマルタはマルチェッラと一緒に
  群衆に紛れてイエスの話しを聞きに行くが、
  どこかにいるだろうと思ったマリアの姿が見あたらない。

  家に戻ったマルタは、「マリアはどこに行ってしまったのか」と、
  自分の部屋で泣きながら祈る。

  そして冒頭のマルタの言葉にあるように「その真夜中にマリアが戻った」。

  以下、マルタの話しが続く・・・)


「彼女は静かに部屋に入ってきて
『祝福された姉よ。あなたが言ったことは、みな本当でした』


『あなたが言ってくれたことよりも、もっと、もっと良いことだった。
彼の“あわれみ”はとても大きい。

ああ、私のマルタ!

もう、私を縛る必要はありません。
冷たく失望している私の顔を二度と見ることもないでしょう。

考えないように・・・などという言葉を私の口から聞くこともないでしょう。


いまはむしろ考えたい。
何を考えるべきかを知っているから。
そう、“肉体となった愛”
(キリストのこと)を知っているから。

姉よ、あなたは私のために祈っていた。確かに祈っていた。

いまあなたは、勝利を手中にしています。

私はもう、罪を犯したくはない。
いま、新たに生まれるあなたのマリアです。


見て、わたしのこの顔を見て!

希望と痛悔の涙に洗われた新しいマリアだから。

清い姉よ・・・どうぞ私に接吻してください。
もう私の顔には、恥になるような恋のしるしがないから・・・。


イエスは私の“霊魂”を愛していると仰有った。
なぜなら、この霊魂について話しておられたから。
“迷って失われた羊”とは私のことでした。

あなたは救い主の話し方をよく知っています。
私がうまく言えるか聞いてください』


マリアは本当に頭がよいのです。私よりもずっと・・・。
そして何でもよく覚えます。


こうして私は(直接聞いたことと、マリアからの伝聞からと)
あなたの話しを2度聞くことになりました」


こののち、マグダラのマリアは著しい回復を見せ、
自分との勝負に出ます。

それは、聖書にもある場面です。


髪で香油を塗った女


とあるファリサイ人のお金持ちの家で、
そこには、イエスと使徒たちが呼ばれていました。

幻視者の視た情景を“かいつまんで繋げて描くと”以下のとおり。


そこへ、豪華な服を着て、念入りに髪を結った美しい女性が入ってくる。
黄金の豊かな髪が輝いている。


胸元にギャザーをつくる装飾品をつけ、胸そのものを強調する金の鎖、
銀のブローチがついた帯、そのほか宝石や真珠で飾られた
いかにも挑発的な服を着ている。


頭には透き通るほどのヴェールを被り、足には赤い色の、
足首に結ばれた紐に“金の飾り”がついた豪華なサンダルを履いている。


イエズスを別にして、皆が彼女を見ようと顔を向け、
ヨハネも一瞬そちらを見るが、すぐにイエズスへと向き直る。


客たちは、あからさまな“貪欲さ”で彼女を眺めているが、
彼女はまったく気にしない。



マグダラの4(着飾ったマグダラのマリア)image



イエスは何も気にしないというふうで、家の主人と話しをしている。

女がイエスのところに行くと、足下に跪いた。

周りが少し膨らんだ“小さな壺”を床に起き、
髪を留めていた貴重なかんざしをとってヴェールを脱ぐと、
指から指輪を抜き取り、
それらを、イエスの傍にある“ベッド状の椅子”の上に置く。


つぎに、
イエスの右足を、さらに左足のサンダルの紐をほどいてそれを下に置くと
突然、号泣しはじめ、その足に接吻をする。


さらに自分の額を、イエスの足につける。


このとき、イエスの濃い青色の眼差しが“女の垂れた頭”に向けられる。
それは赦しを与える眼差しだ。


イエスは女の感情の爆発を咎めることもなく、そのままにさせるが
周囲はそうではない。


お互いに意地悪気な冗談を言ったり、目配せをして、
嫌な笑いを見せている。

家の主人もその光景を良く見ようとするが、
その目は欲しがって、苛立ち、皮肉がまざっている。
女を欲しがる目・・・これがはっきり現れている。

ここでの主人の“苛立ち”とは、
女が躊躇なく家に入ってきたことであり、
また、そのような振る舞いができるということは、
女がこの家によく来ていた事実をほかの客人たちに知られてしまうため、
と同時にイエスに対する諸々の皮肉からである。


女は、それから声を出さずに涙を流し、ときおりすすり上げている。

さらに女は
複雑に結い上げてある髪を留めていた金のピン留めをはずし、
それをさきほど外した装身具のところに置く。



     マグダラの4(複雑な結髪)image


黄金の髪が肩に落ちる。

すると女は、髪を両手にとり、その髪でイエスの足を拭う。


  マグダラの4(髪で拭く)image


そして壺のなかに指を入れて、
薄黄色で、非常に香りの強い香油を取り出した。


ユリとオランダ水仙の香り・・・それが部屋中に広がる。

女は香油をおしげもなく、
イエス
(の足)に擦り込むように塗ってから、また接吻する。

いまや、ヨハネも
女とイエスの二人を交互に見て目が離せなくなっている。



マグダラの4(髪で拭く場面)image



ファリサイ人の顔が渋くなる。
ここで私はあの有名な言葉
(ルカ7:36~50あたり)を聞いた

その言葉は、執念深いこの老人に頭を垂れさせる調子と
眼差しを伴っている。


女に対する赦しの言葉が聞こえる。

「さあ、平和に行きなさい」

垂れている女の頭に手が置かれる。
いかにも優しい手振りだった。


女はイエスの足下に宝飾品のすべてを残して去っていく。


マグダラの4(修飾用陽光)image


この場面につづいて、幻視者自身に対して解説が語られます。
それを部分的に拾ってみます。



イエスが私に言う・・・。

「福音書には語られていないが
そのファリサイ人と彼の仲間たちに頭を垂れさせたのは
私の眼差しを通して
潤いのない貪欲な“彼らの魂”を突き刺す
口には出さない、私の心から出る言葉だった。

彼には、その“沈黙の言葉”がよくわかった。

それは、私の言葉に表されているより厳しい咎めである。
私は彼にこう伝えた。

『自分自身を弁解しようとして悪意あるほのめかしをするな。
私にはあなたにあるような好色はない。

この女が私のところに来たのは、
淫乱の闇に包まれた自分の心を“私の眼差しと言葉”で照らしたからだ。

肉欲に打ち勝ちたくとも、哀れな彼女は、
自分だけではそれに成功できないと分かっている。

彼女は“私のなかの霊”を愛し、
超自然的に、まったく善いと感じている“その霊”のほかに何もない。

あなたたちの悪徳は、彼女の弱さを悪用してのち、
彼女に“軽蔑のムチ”で報復をもたらした。
それほどの罪悪をもらってのち、
彼女は“この世の栄華”のなかに探していた善、喜び、平和を見つけた・・・と感じて
私のもとに来たのだ。

偽善者のファリサイ人よ、心の癩病を治せ。
ものごとを正しく見るようにせよ。
心の傲慢と肉体の淫乱を捨てよ。
これこそは、あなたたちの肉体よりも腐って臭う癩病である。

肉体の癩病の場合、願いさえすれば私の手はそれを治し得る。
しかし心の癩病はそうはいかない。

なぜなら、あなたたちはこれが好きで、治るのを欲しないからだ。

一方、この女は治ることを望んでいる。

だから私は
この女を清め、自分を縛る奴隷の鎖から解放した。
罪の女はもう死んだ。
罪の女は、その装飾品のなかに残った」


(略)

「彼女は自分の髪で、私の足に香油を塗った。
あなたが自分の井戸の水でも冷やそうとしなかった、
あなたに光をもたらそうとやって来て、長く歩いたこの足に・・・」


「罪の女は死んだ。そしてマリアが生まれた。
自分の猛烈な苦しみ、自分の正しい愛によって、
どんな罪もない処女のように新たに美しくなった。


自分の涙に浸されて、自分自身を洗ったのだ。


     マグダラの4(着飾ったマリアマグダレナ)image


ファリサイ人よ、まことに私は言う。

私は、清い若さをもって私を愛している“この者(ヨハネを指す)”と、
恩寵に新たに生まれ、心の“真実の痛悔”をもって私を愛している“この女”とを
差別しない。


そして、この“清い者”と、この“回心の女”に
誰よりも“私の考えを理解する使命”を与え、
また、・・・私の母を別にして・・・私の身体にほどこす最後の処置と、
私の蘇りの最初の挨拶を与える』


(略)

そしてつぎに・・・幻視者自身に対して語られたことの一部を・・・。

「マリアは自分の曙のしるしとなった、
この行い
(髪で香油を塗ること)をベタニアでも繰り返した。 (ヨハネ12:1~8の辺り)

文章が人の個性を表すように、
繰り返されて個性を表す行いがある。

他人と間違えることのない行い・・・
当然なことだが、
ベタニアでのそれは、深い尊敬を込めた礼拝を表現している行いで、
以前のような品位を下げたものではなく、
むしろもっと親密さを感じさせるものだ。

自分のあがないの曙の時からマリアはたくさん歩いた。たくさん!

愛が激しい風のように、彼女を“より高く、より先へ”と引きつけた。
火のような愛が彼女を焼いて、不潔の肉体を破壊し、
清められた魂が彼女のあるじとなった。

そしてマリアは、
その服、装飾、眼差し、態度、言葉において、
いま、
私の母のように素朴で新しくなった・・・。


私の“小さな声”であるあなた(幻視者のこと)・・・

自分自身に、また多くの人に伝えよ。

自分が罪深いと感じてしまって、私のところに来る“勇気”のない霊魂たちに伝えよ。


マグダラの4(とあるストリートレディ)image
       (1に書いた、現代の“祈るストリート・ガールたち”・・・彼女たちにはきっと、
        この勇気があったのだろう)


多く愛する人、私を多く愛している人には多く、多く、多く赦される。


“あなたたちは、
救い主にどんなに愛されているかを知らない”


だが、おいで・・・。
信頼と勇気を携えて・・・。

私はあなたたちに、心と腕を開いているから・・・。


私は
“汚されたことのない清さをもって私を愛している人と、
恩寵に新たに生まれた心の真実な痛悔をもって私を愛する人とを差別しない”


これをいつまでも心にとめるように。

さあ、平和に行きなさい。
あなたを祝福する」




マグダラのマリアはこの後、
マルタを超えた・・・とキリストが口にするほど
めざましい霊性の発達を見せていきます。
でも、途上では、
とある“美しい女性の清らかさ”を知って嘆くという
人間臭さも見せたりもします・。


(マグダラのマリアの信じる姿勢がどうだったかは
ラザロの復活や、あの3日3晩の過ごし方あたりが圧巻です。
あともう少し、以降に続けてみます・・・)



   「神は“突然の回心”を要求することはない。
   人間の心から絶対的なことを無理に要求しない。
   神は待つことを知っている」

                    ―――by 幻視のなかのキリスト―――



*****

こんなものを読めば、
「へっ」と言う気持ちになる人はたくさんいるだろう。
だから“逆らいのしるし”なのかもしれないが・・・。

ただ、語られて、言わんとしていることはよく分かる感だ。

たとえば今の世界、日本・・・
どれほどの男女が知らず知らずのうちに
曲解された性の虜になっているのだろう・・・と想う。

英雄、色を好む・・・と言われたりするが、
これは、“英雄”となる者が男にしろ女にしろ
“色”になる者を道具に見立てる文言にも思える。

これを称賛する世界が続くなら、
ましてや、性をお金や儀式で用いるだけなら、
男女が真の意味で互いに尊敬しあうことにはならないだろう。


     マグダラの4(とあるお金)image



良く愛するならば、おそらく
相手になる人のことを“とても大事”に想えるだろうから・・・。


*****



余談:上記には関係ないが、ちょっとしたことで
ほんわかする「昔の報道写真」を見た。

マグダラの4(修飾画アフガンにて)image


こうした場面が戦場でなく、ありふれた奇跡のように、
社会の日常でもっとたくさん、ごく普通に起きている情景・・・
そんなものを見ていたい。


はじけるような笑顔。

マグダラの4(修飾用画像笑顔)image


マグダラの4(修飾画子供の笑顔)image



取り外された垣根とかも・・・w。

マグダラの4(修飾用それとなく友達)image


「マグダラのマリア」3・・・マルタが語った“彼女”の様子・・・など

Posted by 世羽 on 17.2014 イエス関連   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
先日のAPEC・・・。
日本のトップは他国より「ワンランク下」の部屋に通されて習氏に会い、
米・露・韓国の政治的トップは“赤系の服”
日本の政治的トップが“青系”を着た。
そして「仲間はずれ」と報道するメディアもあった。

しかし、
京劇などで忠義を示す表現として「顔を赤色」に塗りたくるように、
かの国の赤色には確かに「忠義」の意がある。

選択の好みもあったと思うが・・・
結果的に日本のトップの身につけた服が、
いまはまだ信用しかねる国に尾っぽをふらない
「霊的でもある“青”色になったのは、
政治家個人の出来・不出来を超えた「視えざる力」“主張”にも映る。

一方、その「赤の意味」を持つ国の党機関紙
『中国民衆は沖縄独立を支持せよ』と煽り、
中国は大洋への進出の足がかりとして本気で沖縄を狙っている。
しかも、その思想浸透が著しい日本の南・・・。

折りもおり、
背景が色々あって公安にマークされるほど親中
皇室に対して嫌悪感を抱くことで知られる方が
「長」に選出された。
自然保護を名目にしたかもしれないが、かなり危うい。
この時期ついに、「日本の護り」から旅立つことを選んだ気配も。

さて、今後どうなっていくのか・・・。

マグダラの3(修飾用画像)image



一連のつづきです・・・



マルタが語った“彼女”の様子


“事件の場”から逃げ去ったマグダラのマリア
それまで疎遠だったベタニアの実家にいる“姉マルタ”に使いを出し、
自分のところへ来てくれるように頼みます。

嬉々として妹のところへ出向いたマルタからは
兄ラザロに手紙が出され、文面には
「希望が見える・・・」と嬉しい言葉がつづられていました。

     マグダラの3(中世のベタニア辺り)image
     (ちなみに、中世のベタニア辺りの名残)


しかし、

しばらくマリアの家に滞在しているあいだに
マルタには「そうでもない状態」が、わかってきます。

そして思いあまったマルタは、
当時カファルナウムにいたイエスのもとを訪れて
泣きながら現状を訴えます。


    マグダラの3(capernamap)image

  マグダラの3(SeaGalilee周辺)image


「先生、いまはもう何もかもダメです。
いえ、そうとも言えない・・・。
なぜって、いまの彼女はむしろ
自分のそばに男がいると耐えられない。
それは、以前と変わっています。


けれど、いつもとても悪い状態で、
私には“気が狂った”とさえ思えるほどです。


以前は多少なりとも彼女を理解していると思っていました。
でもいまは・・・誰が彼女を理解できるでしょう・・・・」


「さあ、落ち着いて!」

(この言葉につづいて)

「もう男の人が自分のそばに居るのを見たくない・・・。
それは非常に善いことです。
悪い交際からの“誘惑”を避けたいとか、罪に至らしめる交際を“避けたい”と思うのは
善意のしるしですから」


(といった内容でイエスが詳しく話すが、そこらはちょっと飛ばし、
マルタがマリアの様子を話しをつづる)

「マリアは私が来てからというもの、
舟で湖に行くためにも庭から出ませんでした。
彼女の乳母が言うには『そんな状態はずいぶん前からだった』
・・・とのことで。


変化は過越祭のころからあったようです。
だからといって、幾人かの人たちが彼女に逢いにやってきたとき、
それら全部を断ったわけでもなかったようです。


誰も通さないように命令して、
それをいつも守るように言っておきながら、
とある客人の声を聞くと彼女は玄関にすっ飛んで行って、
その男がもう帰ってしまったと聞いた途端に憤って
僕たちを打つこともあったようです。


私が来てからはそんなことはありませんでしたが・・・。

私が来た最初の夜、彼女はこんなふうに言いました。

『私を止めてちょうだい。
必要なら縛ってもいい。
あなたと乳母以外は、誰も私に会わせないで。

私は病人、治りたい・・・。

私のところに来る人たちや、私を連れだそうとする人たちは
熱病の“ため池”のよう。
あいつらは、私の病気をますます悪くするのよ。

だけど、上辺を見れば、あいつらは美しい・・・。

彼らは綺麗に咲いた花。姿の良い実・・・
私が我慢できないほどに・・・。

私は不幸で、哀れな者。

マルタ・・・あなたの妹は弱い女です。
そしてあの人たちは、私のその弱さを利用して、
のちに告白できないほどの“恥ずかしいこと”をさせる』
・・・・」


     マグダラの3(取り乱す)image


(マルタはマリアが言うとおりにし、
ときおり襲ってくる非常に激しい誘惑の時には、
野獣のような状態になってしまう彼女を抑えたりしている)


「“その時”が過ぎると
『ゆるして、ゆるして』と、マリアは私に泣き嘆きました」


     マグダラの3(涙を流して)image


「なんで“許して”などと言うの?
あなたが私を苦しめたことなんかない・・・」と私が言うと



『ちょっと前だったか、昨日の晩だったか
“あなたはここから出てはいけない”・・・と言われた。
私はあなたを心の中で憎んで、呪って、
マルタなんか死ねばいい!・・・と望んだのよ』
・・・と」


    マグダラの3(混乱中)image


「主よ、マリアは気が狂ってしまったのでしょうか。
そうでなければ、誰かが
彼女を自分の邪欲の奴隷にするために“媚薬”でも飲ませて、
その薬が頭にのぼってしまったんでしょうか」


「いや、媚薬ではない。狂気でもない。
他のことです。
話しをつづけて・・・」


「彼女は、私には尊敬深く、言うこともよく聞きます。
いまは僕たちも虐待していません。

ただ、あなたのことについて知りたいと言わなくなりました。

むしろ、それに触れると
すぐに話題を変えてしまいます。


ときに、眩しくて眼が痛くなるほど何時間も湖を眺めたりして、
そこを通る舟があると
『あれは、あの“ガラリア人の漁師たち”のものでしょうか』
などと言うのに、
あなたのお名前や使徒のみなさんのお名前は、決して口にしないのです。


でも私には、
ペトロの舟におられるはずのあなたのことを考えているのがわかります。
それは、散歩をしていたり、
私が何か縫い物をしていて、そのとき彼女が何もしていないときなどに突然、
『じゃあ、あなたが信じようとしている教えに従えば、
このように生きるべきなの?』
などと、聞いてきたりするからです。


そして泣いたり、気が狂ったかのような、
悪魔みたいな皮肉な笑い方をしたり・・・。


ときに一方で、
いつも芸術的に結いあげている髪をほどいて二つのお下げにし、
私の服を着て、そのお下げを肩の前とか後ろに持って来たかと思うと
慎み深く襟を首までしめて、
服や髪の毛、そして顔を表情を変えて処女のように装って言うのです。


『では、私がこんなものになるべき?』とか。

そして

私たち姉妹の「母」の誇りでもあった艶のある髪、
その、膝まであるお下げ髪に口づけしたかと思うと、
あの嫌な笑いをしながら


『あるいは・・・。むしろご覧なさいよ!
こうして
(お下げを首で交差させて首をしめるふりをして)・・・
私のような邪魔者なんか、亡くしてしまう!』


そう言いながら、
我が身を絞め殺そうとするかのように紫色になるまで絞めるのです」


  (略すが、他のさらに狂った行動がいくつも語られている)

「そしてこんなことも私に言って・・・

『私のために憐れみはあり得ない!私は度を過ごしてしまった!!!

どうして・・・どうして?

私を引き裂くこの怪物が私のなかにいるのか。
彼は私に平和をゆるさない。


優しい快い歌声で私を悪へ引き込んで、
その声に、私の悪口を言うお父さんやお母さん
そしてあなたたちの声を合わせるのよ。


なぜって、あなたもラザロも私を呪っているし
イスラエルが私を呪っているからよ!!!』
・・・」


   マグダラの3(マリアマグダレナ御像)image



キリストがマルタに話したこと


(ここで、上のマリアの言葉にマルタが言い返し、
あとでキリストに注意されている。
マルタに話したいだけ話させてから、キリストが言う)


「マルタ・・・私がいつか、あなたに言った言葉を覚えていますか?
マリアは病人です。
あなたはその時信じようとしなかったが、
いまは自分の目で見ているでしょう?


そして彼女は気が狂ったと言っている。
しかも、彼女自身が、罪の熱病で病んでいると言っている。


その代わりに私は言う。
悪に憑かれて病気であると・・・。
これこそ、ひとつの病気なのです。

あのような矛盾、狂乱、ときどきの涙、
落胆と同時に私への口にしない思いなどは、
回復時に“一番激しい危機”を感じさせる、
この病気の“経過”にほかなりません。

彼女に対して愛情深くいること、これこそ善いことです。
堪忍袋の緒を切らないように。

彼女に、私のことを話すのも善いことです。
彼女の前で私の名前を口にすることに嫌気を感じないように」


(マルタは内心、
破廉恥な“その時のマリア”の前でキリストのことを出すと
聖なる者を汚す・・・かのように思えて“嫌気”を感じていたが、それを視ぬかれた)

「彼女の哀れな霊魂!
彼女の霊魂も、あなたやラザロ、使徒や弟子たちの霊魂と同じように
創造主の父から出たものです。


それは、
私が肉体となって救いたい“多くの霊魂たち”のなかに、
すでに含まれ、眺められています」


(たくさんの語りがあるが飛ばす)

「あなたは心配するな。
人が善に来る“望み”を抱いているとき、
獲物を失うだろう悪魔的なものにその望みを妨げられ、
いまだ人間的に考えて、
自分を“人間的に評価する”という自我的な敵に邪魔されていても
その人はすでに、悪徳と悪人の攻撃に対して強くなっている。


その人は、(道標となる)北極星を見つけた・・・
もう彷徨うことはない。


『神のことを考えないで、なぜ何故イスラエルのことを考えたりするのか』
などとも言わないで。
それは含蓄のある咎めではあるが、そのようなことはするな。


彼女は炎から出たばかりの人で、傷だらけの人です。
優しさ、許し、希望の香料でなければ彼女にふれるな。
私のところへ自由に来られるようにしなさい」


(飛ばす)

「・・・彼女を待ちなさい・・・

彼女は“憐れみ”によって屈服させられるでしょう。


なぜなら私は“いま”、彼女がとどめている罪を彼女から引き抜く。

そうしたら、ちょっとのあいだ、
すべての血が採られた人のように、
医者が骨を引き抜いた人のようになるでしょう。

しかしのちに回復して、彼女自身が、
“起こったこと”に驚くでしょう。

いまから彼女には、“大いに愛されること”と“沈黙”とが必要になる。

あなたは彼女の“もう一人の守護の天使”のように、
自分の存在を感じさせないで、良く護りなさい。


     マグダラの3(マリアとマルタ)image


彼女が泣いているなら、そのまま泣かせておきなさい。

自分自身にいろいろ質問しているのを耳にしても、
そのままにしておきなさい。


微笑んだり、突然難しい顔をしたり、
変わった目や顔つきで微笑んでいるのを見たら、
それを問い質したりせずに、人前で窮屈な思いをさせないようにしなさい。

昇っている“いま”は、下っていた時よりも苦しんでいます。

下っていたときにあなたちの眼差しを堪え忍べなかったのは
あなたたちの目に咎めがあったからです。

しかしいまは、とうとう目覚めた恥ずかしさで、
こんどはまた、あなたたちの眼差しを耐え忍べない。


前のときには、
自分の主人だったサタンを強く感じて世間に挑戦できたが、
それでもその時には、
自分の“罪の生活”をあなたたちに見られるのが耐えられなかった。

いまはもう、彼女の主人はサタンではなくなった。

彼はまだ、彼女の“客”になっているが、
マリアの意志で喉を捕えられている。

そして、まだ私を持っていないので、彼女は弱い。

救い主にいつか告解するとき、
姉であるあなたの目の愛撫さえ忍べないでしょう。


彼女はすべての精力を、7つの形をとっている悪魔の喉をしめるのに使っています。

だから彼女は、ほかのことすべてに対して無防備で、裸同然ですが、
私は彼女に“新しい服”を着せて強めます。


マルタ平和にお帰りなさい。
そして明日の夕方、私がここカファルナウムの泉の小川のそばで、
皆に話すと優しく伝えなさい。


さあどうぞ、平和に行きなさい、
あなたを祝福します」


(こう言われたマルタだが、本当にそうなるのか不安だった)

「ちょっとでも彼女に力を与えるようなものを、私にください・・・。
そしたらそれを、マリアに渡します。
彼女はとても苦しんでいますから・・・。
私は彼女が悪魔に打ち勝てないのではないかと恐れています」


「あなたは赤ちゃんみたいですね。
マリアは、私とあなたを持っているのに・・・。
成功しないことがあり得るでしょうか。


それではここにいらっしゃい。
私の渡すものをもらいなさい。


罪を犯したことのない、優しく憐れみ深く、
敬虔でよく働いたあなたの手を私に・・・。


この手は「愛と祈り」の行いしかなかった。
この手は怠惰を知らず、汚されたことがない。

ご覧・・・その手を、私の手のなかに取っている。



     マグダラの3(手)image


この手を、悪魔に対してあげよう。
そうしたら、悪魔は堪え忍べない。

そして、私のこの革帯を受け取りなさい。

これをいつまでも離さず、
これを見るたびに、自分自身に向かってこう言いなさい。

『イエスの身につけていたこの革帯よりも“イエスの力”が強く、
この“力”をもってすべてに打ち勝つことができる。
悪魔たちと怪物たちよ、私は恐れる必要はない』


満足ですか?

私の平和があなたとともにありますように。
安心して行きなさい」



マルタはイエズスの前に伏してから部屋を出た。


“マルタの侍女”が門まで寄こした車に乗って“マグダラへ戻るマルタ”を見ながら
イエスが微笑んでいる・・・。


マグダラの3(マルタ)image
 (ちなみに、美術としてのマルタ)


(このあと、幻視者には
上記のヴィジョンの霊的な解説が語られている・・・)


そこから一文・・・。

「愛である神が、あなたたちのなかにいるなら、
自分のところへやって来る人々に、
どのような“愛の言葉”を言うべきか
容易に見つかるだろう」



(次回につづく・・・)





人に似たことをする動物を
人はごく自然に“可愛い”・・・と感じる。


マグダラの3(修飾用画像2)image



・・・大いなる「何か」もそうだったりして?・・・と
気ままに想いを馳せる。


     マグダラの3(修飾用3)image



今年も残り少なくなってきました・・・。
これからも、みなさんの日々が素敵なものでありますように。


マグダラの3(朝霧の湖)image


  

プロフィール

世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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