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宙を飛んだ人・・・

Posted by 世羽 on 02.2015 不思議考   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
人の思惑を超えたところで
善きにつけ、悪しきにつけ
したことの見返りは、最終的に戻る。
ISの人たちも同じだ・・・。

だが、結果が出る前に、闇の形が地中海を越えるとしたら、
世界の進む方向が一挙に暗転する可能性がある。

押しとどめるには、それなりの覚悟もいる。


コペルィーノの聖ヨセフ(修飾画像)image




かつて、何かしらの神聖なものを求めた人たちが
もの凄く裕福だったり、成功した人生を捨て去ってまで
至高の存在への道を歩もうとした歴史があって・・・。

古今東西、多くの人々の幸せを願って尽力し、
後世に名を残した人たちは
決して楽のみの人生ではなく、苦難を歩んだ形跡があったりして・・・。

現代では、
幸せになるには富や成功を手にいれて、
少しでも善い結婚をしたりして・・・
何不自由なく生活できることがいちばん素敵とされるようになり
そのためなら、どんな方策でも身につけよう・・・とされたりします。

確かに、

この世界を安寧に、物質的に生きていくだけなら
後者の生き方で充分通じるでしょうし、
それなりの充実感も湧くでしょう。

ただ、自分は想います。

人は本当にそれだけのために
この星に生まれて来ているのだろうか・・・と。

“思考の好み”によるところも大きいと思いますし、
多くのみなさんに当てはまることでもない・・・と感じていても、
自分の心の奥底ではやはり、
人が霊を主体として生きる生命体であるなら、
霊としての生き様を探る必要がある・・・と
強く訴えてくるものがあります。

・そんな話はどうでもいいですね。


本題に戻すと・・・。


先日、ある人がコペルティーノの聖ヨセフの「絵はがき」
数枚くれたのです。

コペルティーノの聖ヨセフ(御絵)image


ご存じの方も多いと思いますが、
この人物のことを一寸書き記してみたくなりましたw。



コペルティーノの聖ヨセフは、昔のイタリア、
1603年~1663年を生きた修道者で、
しばしば体が浮いてしまったことで知られています。

「昔のことだし、どうせお伽話だろう」・・・と思われるでしょうが
彼が浮揚した状態を多くの人が眼にしたので、
それが稀有な出来事として記録されています。

のちにコペルティーノの聖ヨセフと呼ばれるようになったこの人は、
旧ナポリ王国内のプーリア半島コペルティーノ村にいた両親の元に生まれました。
父は大工業を営んでいたようで
地元では善人として知られており、隣人らの借金保証人を引き受けては、
しばしばその肩代わりをするなどしていたようです。
ヨセフの母は信仰深い人で、幼少のヨセフに神さまのことを教えたのは、
多くは彼女だったようです。

ヨセフは幼いころ、
教会で美しい賛美歌などを聴くたびに目を天に上げ、
何かに見とれているかのように
ポカーンと口を大きく開いているような様子を見せました。
そのために友達たちからは「開いた口」を意味するBocca aperta
呼ばれていました。

これは、のちに起きることの前ぶれであったわけですが・・・。

子供時代は病気がちで、
背中にでき物を発症したさいには、5年ほど寝たきりになります。

そんな病床にあるヨセフにとって、
母親が色々と読み聞かせてくれた物語、それも聖人の話、
とりわけアシジの聖フランシスコの話がお気に入りだったようで、
彼の心に「神さまに仕える道を選びたい」という想いが育っていきます。

とはいえ、物事はそう簡単にいかず、病気が治ってからの一時期、
ヨセフは野菜を売ったり靴職人の仕事をしたりと、
さまざまな職につくことになります。

その後、すでに司祭だった叔父のつてを経て
何とか修道者の道を歩もうとしますが
叔父はヨセフの教育不足を指摘し、賛成してくれませんでした。
ヨセフはどうも、愚鈍な者と思われていたようです。

それでもヨセフは、
何とかカプチン会のレイ・ブラザー(当時は多くが文盲の農民がなった)になるまでに
こぎ着け、
いわゆる炊事係りとして働くようになります。

ところが、いざ仕事にいそしむようになってみると、問題が起き始めました。

彼は、仕事の最中に神さまのことを考えるだけで
たびたびトランス状態になり、
皿を割ったり、鍋をひっくり返したりしてしまうのです。

長上は、ヨセフがきわめて注意散漫で、しかも過度の夢想家だと見なし、
「ここには置いておけない」と、故郷に戻るように言い渡しました。

失意のうちにコペルティーノに戻ったヨセフは、母親にも叱られましたし、
叔父にも叱責されるという“痛い体験”をします。
特に、叔父のフランシス・デサ神父「お前は何の役にもたたない」と、
彼を嘲笑したばかりか、「私はお前とは何の関係もない」・・・と突き放します。

そんなヨセフに、さらに試練が襲います。
かつて父が返せないでいた借金の件から、刑務所に送られかけたりしてしまうのです。
でも、幸いなことに天の配剤もあって、どうにかその危機を切り抜けます。

そして、半ば身を隠すように教会の屋根裏部屋で
6ヵ月ほど匿われるように過ごしているあいだに、
ヨセフはコツコツと、自分に足りない勉学を身につけようと
一生懸命に勉強します。

そんなヨセフの姿を知ったとき、
あの悪態をついたフランシス・デサ神父の心が変わります。

そして、彼はヨセフにコンベンツァル聖フランシスコ修道会で聖職の道につくことを提案し、
実際にその道が開けることになります。

修道会でのヨセフは
とりわけ貧困と祈りの生活を通して、
神聖と彼の会への召命の恵みで霊性の成長を続け、
諸事においては
清掃や動物の世話、園芸など、修道院での卑しい仕事を引き受けたり、
台所仕事でも頑張っていました。

ヨセフはまた、深い瞑想の時間を持ちましたが、
その多くの場合で、
自分がどうしてそこに着いたかがわからない場所で
ボーッとさまよっていることもありました。

1630年10月4日のこと。
コペルティーノでは聖フランシスコの祭日の行列が催されていました。
そのとき突然、ヨセフは空に上昇し、
集まっていた群集が唖然とするなか、彼らの頭上で漂いつづけてしまったのです。


ヨセフが下に降りて、自分に何が起きたか気づいたとき、
彼は騒然とする群衆から身を隠そうとして
咄嗟に実家に逃げ込んでしまいました。
のちの彼の言葉によると、
そんな自分のとった行動が「恥ずかしかった」そうです。

しかし、これがヨセフを 「空飛ぶ聖人」と知らしめた大きな出来事になりました。


コペルティーノの聖ヨセフ(祭日に)image


その後、彼の「フライト」はつづき、むしろ頻繁に起きるようになってしまいます。
修道院の仲間はそれを止めようとしたようで、
ときには「降りてこい!!!」と叫ぶこともあったらしいのですが、
肝心の、ヨセフ自身の自覚がなく起きることがほとんどだったこともあって、
どうしようもありませんでした。


      コペルティーノの聖ヨセフ(飛ぶ)image


この現象は、
イエスや聖母マリアの御名を聞いたときに恍惚状態になってしまう場合に
よく見受けられ、
また、聖体の前で祈っていたときや、
幼い頃の時のように甘美な聖歌の歌声を聞いているときにも、
突然起きたりしました。


コペルティーノの聖ヨセフ(ミサ中に浮く)image


最も有名な話では、教皇ウルバヌス8世の前に出たヨセフが
感動のあまり体が浮いてしまったことで、
それは、“当時の知識人”たちが見まもるなかで起きた出来事として
記録されました。


       コペルティーノの聖ヨセフ(教皇の前で)image


ヨセフはこれのみならず、癒しの賜物も携えていたようで
病気の人を治しましたし、
干ばつで苦しむ人々に雨が降るように祈ってほしいと頼まれれば
それに応えて祈りを捧げ、実際に雨を降らせたりと、
色々な現象を引き起こしたようです。

もちろんこうしたことが「神聖な力」で起きるときは
それを嫌がる「霊的な力」が邪魔をしにくることは
多々あるものです。

ヨセフも例外ではなく、
あの聖ピオ神父が体験したような
物理的に体ごとひっくり返されたりするような
霊的な攻撃も受けていたことが記されています。

ヨセフはときおり、エクソシストのような感じで闇の存在に対峙していたようですが、
ある時には、
悪魔の接近に対してアシジの聖フランシスコに助けを求めて祈ったことがあって、
聖フランシスコの出現とともに、悪魔が消えたのを眼にするという体験もしています。
もともと、フランシスカンとしての霊性の道にいたヨセフですが
それ以来、より一層、
会の師父であるアシジの聖フランシスコに絶大な信頼を寄せたと
伝えられています。

そしてこの当時の悪魔に言わせると、
「修道士ヨセフは、我々が持っている“最悪”の敵」だったそうです。


コペルティーノの聖ヨセフ(osimoの大聖堂)image


しかしながら・・・・

こうしたあまりに奇抜過ぎることや、
その現象によって衆人が熱狂的になることについては
それがどんな力から出ているかが明確になるまでは
そのまま教会が認めることはありません。

ヨセフの場合も同じで
異端審問の場に引きずり出されることになりますが、その危機も乗り越えて
彼には何の罪状もない・・・とされるに至ります。

とはいえ、彼はその後、公の行事に出ることは許されず、
仲間の修道士たちが祭りで町中に出る時でさえ、1人で居残りを命じられるようになります。

しかし人々は、優しい性質のヨセフを慕って集まり、
日々その名が知られるにつれて、
ヨセフのもとには、彼のアドバイスを求めて
ヨーロッパ各地から訪れる人でいっぱいになりました。

彼らのなかには、大臣や将軍、管区長、司教、枢機卿、
騎士や世俗諸侯などもいましたので、
これがまた問題視されるようになってしまいます。

結局のところヨセフは、インノケンティウス10世の命により
留め置かれていたアシジから秘密裡のうちに身を移されて
軟禁状態になります。

このときは
手紙を書いたり受け取ったりすることすら禁止されました。
その状態はインノケンティウス10世没後、解かれるやに思われましたが
つぎの教皇の代に至っても、そんな状態が維持されて、
必要な場合、また医師を除いては
誰とも話しをしないように命じられたのです。

こんな試練を、ヨセフは並はずれた忍耐で忍びました。
あるときなど、手違いで2日ほど食事が運ばれなかったこともありましたが
不平一つ言わなかったと記されています。

1663年8月10日。
ヨセフは発熱を伴う病気になり、ベッドから立ち上がることができなくなり、
その後、15日に見せた「フライト」が、彼の最後のものとなります。
(記録では、70にのぼる特異な現象が奇跡としてあげられている)

臨終にあたっては、終油の秘蹟、教皇の祝福を受け、
聖母の連祷を暗唱した後、コペルティーノのヨセフ・デサは、
9月18日の夜に帰天・・・。
この2日後、群衆の見まもるなか、
無原罪の御宿りの礼拝堂に埋葬されました。
(クレメンス13世によって1767年7月16日に列聖)


コペルティーノの聖ヨセフ(ご遺体2)image



      コペルティーノの聖ヨセフ(ご遺体)image



現在、コペルティーノの聖ヨセフは、
「空を旅する人たちの守護聖人」であると同時に、
NATO諸国の「パイロットの守護聖人」となっています。


       コペルティーノの聖ヨセフ(聖堂)image



コペルティーノの聖ヨセフ(おメダイ)image



「何もできない馬鹿なやつ」とされていたヨセフは、
こうして、まったく別の姿を見せることとなりました


コペルティーノの聖ヨセフ(雰囲気)image



(映画のワンシーンから)





*****


“まことの意味”で神を想うとき、
勉学の不足も、仕事の不出来も関係なく
聖霊の恩寵は“暖かい形”で必ずやってくる。

いま、たとえ誰かに馬鹿にされていようと
自分に価値がない・・・と想えていたとしても
神さまにはそんなことまったく問題がなく・・・。

それを、
“体験として”心から実感したとき
人は、よりいっそう神の存在を知ることになるだろう。



どれほど恐怖を生み出す闇の力が迫るかに思えたとしても・・・

それを打ち消す
この世を超えた「本物の聖なる力」が、
引き続き、多くの人の護りとなりますように。



(ウンブリア辺りの風景)
コペルティーノの聖ヨセフ(修飾ウンブリア辺り)image


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「シリア北西」辺りの地下に・・・

Posted by 世羽 on 30.2014 不思議考   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
選挙が近づいていることもあってか、とある投稿板で
「外国人参政権」のことが議論されていた。

これを多くの人は、特定の国に関係するだけの案件とだけ見がちだろう・・・。

個人的には、
どのような出身国の人であっても、国を指導する場所へ選挙に参加して
“思う人”を送りたいなら・・・
日本に滞在した時間の如何にかかわらず、
まず日本の国籍を取得して、
日本人として生きることを決め、日本を好きになり、
本気で日本を愛する必要があるだろう・・・と思う。

いくら“博愛の精神”を主張しても、権利を主張されるがままに受け入れるだけなら
それは「本物の愛」ではないと思う。

やはり、「ならぬことは、ならぬ」と忌憚なく言えて、そのうえで
仲良くする・・・というのが本道ではないか?
少なくとも自分はそう思う。

と・・・地下の響きが、30日の昼頃から、変化が著しい。
まださらに、ため込もうとしているのか、様子見・・・。


アレクサンドリア(地中海辺りの情景)image


イスラム国について報道されてるようになってから、けっこうたちます・・・。
シリアでは米軍の空爆も続いています。

そのシリアの辺り・・・ちょっとした「不思議話」が残っています。

まあ、伝聞の様相ですが・・・。
ちょっとだけお話風にしてメモしておきます。



それは、1950~1951年にかけてのこと。
場所はシリア北西部の山岳地帯。


ここに“エール・フランス”の旅客機が、
1950年の春、そして翌年の1951年の同じく春と、立て続けに2機が墜落した。

航空会社側が人を向かわせようとしたものの、当時のシリア政府に拒否されて遺体の回収はおろか、墜落機の様子も搭乗者たちの安否もまったく不明のままになった。


1951年の秋。大規模捜索が駄目なら単独で・・・と、
フランス人航空技師のルイ・タムソンが自ら調査に赴くことを志願し、
エール・フランス側の許可もとり、友人だったアメリカ人フランショットと共に
シリアに入った。


(米軍が現在爆撃している一番西側のポイントが、この話の起きた場所に近い)
アレクサンドロス(シリアへの爆撃地点)image


    (以下・・・ルイ・タムソンはルイと記す)

二人は現地で人を集め、現場に向かおうとするが
その場所を説明すると、たいてい誰もが
「“テレスマート”には絶対に行かない」と拒否する。


調べてみると、そのテレスマートとは「悪魔の彷徨う場所」という意味で、
現地の人々から非常に恐れられている土地であることがわかった。
こともあろうに、2機の旅客機はその付近に墜落していたのだ。


しかし、かといって、調査を諦めるわけにもいかない。
二人は声をかけつづけ、“タムチ(砂漠の人)”と呼ばれる人たちや、
ならず者しか集まらなかったが、それでもどうにか、
総勢14人の隊を編成することができた。


同年10月21日、調査隊一行はベイルートを出発。
カミッシュ高原に野営したり、タイロス川を渡ったりしつつ、
問題の山岳地帯へと足を踏み入れた。


だが、隊にはその場所を案内できるほど土地勘がある者もおらず、
多少、山歩きに詳しいトルコ人が“斥候の役目”をする感じで
一行の先を歩いて探るという形で進んでいた。

するとそのトルコ人が「アルバがある・・・」と、血相を変えて戻って来た。


アルバとは鉄の車輪の馬車のことだ。
「こんな岩ばかりの山岳地帯に、そんな馬鹿なことがあるはずがないだろう」
みながそう言った。


だが、そのトルコ人は
「いや、はっきりと地面に轍(わだち)が残っている」と主張する。

なら・・と、一行は
自分たちの眼で確かめるために、その場所に行った。

すると、確かに、岩石のあまりない、草地のようなところに車輪の轍のあとが
残っていたのだ。


それを実際に見た途端、隊の現地人たちがさっと顔色を変えた。
そして、それぞれが
「アレクサンドリアだ・・・」と囁き始めたのだ。


『エジプトでアレクサンドリアと言うならわかる。
しかしなぜ、このシリアで?
もしかして、アレクサンドリアという同名の土地でもあるのか?』

・・・ルイは内心、そんな想いをめぐらした。


そのときルイたちの居た場所は、赤茶けた大地、灰色の岩がある荒涼とした場所。
鳥も昆虫も居ないかのような場所だった。
人知れず、何者かが住んでいる気配もない。


しかしシリア人たちが言うには、

「この下にはアレクサンドリアと呼ばれる地底都市があるんだ・・・。
昔から伝説があって、地底の都市に住む者たちが、ときおり地上に出てくる。
この轍の跡は奴らのしるしなんだ・・・」

「でも、なぜアレクサンドリアという名前なんだ?」とルイが聞いた。

彼らの説明はこうだった。


「あのアレクサンドロス大王(アレキサンダー大王/アレキサンドロス3世)が肉親のあいだに起きた争いのあと、腹心の部下たちを連れて突然姿を隠し、このシリアの山の中に身を隠したってことだ。

       アレクサンドロス(3世)image


彼らは、この山の洞窟に入り、さらにそこを掘り進めて、
地下に2万5700平方㎞にも広がる地下帝国を建設したって話しだ。
それはシシリー島にも匹敵するほどの大きさなんだ」



アレクサンドロス(3世の絵画)image


たまたま考古学に明るかったフランショットが口を挟んだ。

「あ・・・それ、何かで読んだぞ。
たぶんエジプトの考古学者パブストがそんなことを書いていた。

それに・・・。
第2次世界大戦のさなか、1943年ごろだったかな
ベイルート駐在の連合軍が、ドイツとイタリアに協力するゲリラたちを掃討しようとして2000人もの兵士をこの辺りに派遣したんだ。
でも、その部隊が丸ごと消息を絶ってしまった・・・という話しがあったよ。
生還者は1人もいなかったんだぜ。
たかがゲリラが、装備を備えた2000人もの部隊をさらえるか?
何かがあったのかもな」


このときルイは、聞いた話しを総合して色々と思い浮かべてはみたが、
まず自分の任務を・・と、
周辺の地形を探り、飛行機が事故を起こすような乱気流などの発生があった可能性などを徹底的に調査した。

そして、その日の深夜。
野営のなかで眠っていたフランショットが異様な音を聞いて眼を覚ます。

その音はまるで、大勢の人々が集団で奇声をあげているのに似ていた。
しかもその音は地の底から響いてくるようで、
それは、不気味で恐怖を誘うものだった。

眠りについていた他の隊員たちも、次々に起きてきて騒ぎ始めた。

「地の底だ、地面の下から聞こえてくる!!!」

「悪魔だ・・・悪魔の声だ。だから言わんこっちゃない。
ここはテレスマートなんだ。早く引き返そう」


そう言いながら、屈強なはずのシリア人たちが、
恐れのあまりテントに身を隠してしまった。

「一応、調べてみるか・・・」と、ルイとフランショットは周辺を偵察してみることにした。
ライトを手にしてしばらく歩き、「なんだ何もないじゃないか」と思いつつ戻ってみると、
突然、テントのほうで悲鳴が響いた。
声のするほうに眼をやると、なんと・・・
そのテントの周囲を数百人もの人影が取り囲んでいたのだ。


「あぁ・・・」

二人が同時に立ちすくみ、声にならない声を上げたときだった。
いきなり後頭部を何者かに強打され、意識を失ってしまった。



ルイが意識を取り戻したとき・・・。
彼が最初に見たのは、自分の横たわっている場所だった。


そこは岩盤をくりぬいた部屋で、にもかかわらず、強い光がみなぎっていた。
ふと気づくと、自分を取り囲むようにし十数人の人々が居並んでいる。
それも、白髪の老人から青年、そして子供まで・・・。

奇妙なことに、彼らはナチス・ドイツやフランス海軍士官の制服、
アメリカ兵の戦闘服などを身につけているではないか。
『俺は夢を見ているのか?』・・・そう想ったときだった。


「お前はなぜ、このアレクサンドリアにやって来た」・・・突然声がした。

ルイの正面にいる老人がフランス語で話しかけてきたのだ。
言葉は丁寧だったが、かなり厳しい口調だとわかる。

で・・・ルイは
自分がフランスの航空技師で、この付近に墜落した自国の飛行機の調査のために
この地にやってきた・・・と説明した。


「お前の話が本当かどうかは確かめねばならない。
そのあいだ、お前たちは“わが国”にいなければならない」


「わ・・・我が国って? ここは国なんですか?
何という国なんですか?・・・でも滞在しろと言われても・・・」


「ここはアレクサンドリアだ。
当面、食べ物と眠る場所は提供しよう。
だが行動は監視され、規制される」

「それって、捕虜ということですか?」

「どうとでも言うがよい。とりあえず、今のところ生命の心配はないから安心しろ」


その後、ルイは屈強な若い男二人に左右を抱えられるようにして、別の場所、
岩をくりぬいて造ったような小さな牢獄に監禁された。
話しでは、他の仲間たちも、別々の場所に隔離されているということだった。

牢獄は薄暗く、通路から漏れる光だけが灯りとなっていた。
ルイは自分が夢を見ているのか・・・と何度も思ってみたものの、
それはどうやら、現実に起きていることだった。




アレキサンドロスという人物について、自分の知っているかぎりの事柄を思い起こしてもみたが・・・どうもわからない。

本当にここは、どこなんだ?・・・結局それしかなかった。


アレクサンドロス(暗い牢獄)image



と、突然「コツコツ」と音がした。
聞き耳をたててみると、それは合図のようでもあった。

「誰だ?・・・」そう声に出して聞いてみた。

すると、「きみはフランス人か?」とくぐもった声が聞こえてきた。

「そうだ・・・。きみもフランス人なんだな? どこだ・・・きみはどこにいるんだ」ルイは必死に問いかけた。

「下だよ。きみの部屋の下。亀裂があって、上に人が入るとわかるんだ」

思わずルイは腹這いになると岩盤に耳をあてて、声の出所を探した。
ほんの少しだが、空気の流れのあるところがみつかり、
どうやら、そこに亀裂があるようだった。

ルイが尋ねた。
「きみは何者なんだ?」

「私はポール。きみと同じ身分の者さ。元はフランス海軍の士官候補生だ。
ここに来てもう2年になる」

「2年も? また、何だってそんなことに」

「この土地の伝説を聞いて、探検を試みたらこんなハメさ。
 ほかの仲間たちも同じ目に遭っちまったんだ」

「そうか・・・。気の毒なこった。しかし、あいつらは本当は何者なんだ?」

「僕もよくわからないが、とにかくだ・・・この場所はとてつもなく広い。
海のほうにものびているらしい。
数千人の戦士がいて、女や子供だっている。
一般人の男や年寄り連中もいる。
地上への“出入り口”があって、2輪の馬車も使って地上に出ているみたいだ。
地上に出たときの彼らの装備を見たか?」

「いや・・・ここに来る直前に殴られて気を失ってしまって見ていないよ」

「そうか、見ていたら驚いただろうね。
何しろ、近代的な小銃を持っている者と、古代の鑓と盾を持っている者が入り交じっているんだから・・・」

「そう言えば、服装も奇妙だった・・・。
アメリカ、フランス、ドイツなんかの軍服を着ていたし。
ありゃ何なんだ?」

「ああ・・・それね。
第2次世界大戦中に、シリアで戦っていたドイツ軍と連合軍の両方から服や武器を奪ったらしい」

「えっ? 戦死した兵士から奪ったのか?」

「違うよ。彼らはこの土地に入り込んだ“兵士”は国籍を問わず殺したらしい」

「ここの人たちは、何だか古代と近代が混じった感じだが、
フランス語を話したり、世界の情勢も知っているような感じだった。
なんで外の世界を知っているんだろう」

「彼らはベイルート辺りにはけっこう出かけているんだ。
生活は地下でしているが、山岳地帯で大麻も栽培しているみたいだ。
それがこの国の唯一の産物さ。
その大麻と日常の生活品の交易をしているんだ」


と、そこで・・・看取の見回る足音が近づいて来て会話が中断してしまった。

翌日、ルイは尋問のような形で、昨日とは異なる老人の前に連れ出された。
老人はやはり十数名の男たちを連れていた。

そこで老人が、ルイの調査していた飛行機事故について話し始めた。


「“あれ”は、神聖な土地の上を汚した罪で“ゼウスの怒り”に触れたのだ」

「ゼウス・・・ですか? ゼウスがあなたたちの神なんですか?
アラーでなくて?」

ルイは思わず聞き返してしまった。
というのも、イスラム教の支配するシリア周辺で
ギリシア神話の神の名前を聞くとは思いもおよばなかったからだ。


「われわれの神はゼウスだ」

「神殿とかもあるんでしょうか?」

「ある。しかし、そこに行くには海の下を3日歩かねばならない」

根っからの調査好きと好奇心でいっぱいになったルイはさらに尋ねる。


「ぜひ、その神殿を見てみたい・・・ダメでしょうか?」

駄目だ!
異教徒を神の前に連れてはいけない。
お前は自分が“囚われの身”であることを忘れるな!」


「わかりました。でも・・・もう一つだけ教えてください。
この、“あなたたちの国”が今でも世界の目から隠れているのは
どうしてなんでしょうか」 

長老は、部屋の背後で燃える松明の光のなかで考えるような素振りを見せて
しばらく沈黙し、口を開く。
それは荘厳な響きさえ宿した口ぶりで、彼はこう言った。


「隠れているわけではない。
われわれは非常に遠い昔から、
われわれに与えられた闇と静寂の地に住んでいるだけだ。

侵略者が現れたなら、それを滅ぼし、この土地を護りつづけるのみ」



アレクサンドロス(神ゼウス)image


『もし、この人物が
ギリシア時代の衣服のように白いローブでもまとっていたなら、まだマシだった』と
ルイは思った。


あまりにちぐはぐだった・・・。
なぜなら、眼の前の老人はドイツ軍の軍服を着ており、背後に控える者たちもまた
異なる国の軍服を着ていたのだから・・・。
しかし、それゆえ不気味でもあった。


「私はこのあと、どうなるのでしょうか?」核心をついた問いが
思わず口をついて出た。

「おまえの言っていることが本当なら、自由の身になる。
もし嘘であれば、ゼウスの生け贄として捧げられる」



こののち、たぶん2週間ほどのあいだ、ルイは岩の牢獄に留め置かれていた。
そして、どういう“つて”を使ったかは不明だが、
ルイの言っていることが本当であることが確かめられたようだった。

ルイは呼び出され、こう告げられた。

「お前の言葉に嘘はなかったようだ。
お前を自由の身にする」


こうしてルイは、目隠しをされて連れ出される。
馬の気配と乗り物の感覚で、まさに“馬車”に乗せられたことがわかった。


そして夜の闇のなか、何処ともわからぬ場所に1人放り出された。

ルイは恐ろしいというより、一刻も早くその場から遠く離れたいという気持ちでいっぱいだった。
無我夢中で気が狂ったように走り、
どこをどう通ったのかもわからなかったが、運良く
ベイルートへと辿り着くことができた。

そして非常に嬉しいことに、
友人のフランショットや他の隊員たちと再会を果たすことができた。
聞けば彼らも、ほぼ同時期に釈放されたらしい。
みなは、「とにかく命があっただけでもよかった」・・・と喜びあった。


アレクサンドロス(遠征マップ)image



こうしてルイは、当初の飛行機事故の調査などまったくできぬまま
フランスに帰国した。


帰国するとルイはすぐさま
当時の警視総監シャルル・ミラルテに事の子細を報告した。
ミラルテは話しを聞いてこう言った。

「もしかするとそれは、ナチスの残党の新組織だったんじゃないのか?」

「いえ、そうではないと思います。
彼らはほんとうに2000年も前からあそこに住んでいて、
ひとつの秘密の国家を存続させている
アレクサンドロス大王とその軍隊の子孫に間違いないかと思います」

「しかしきみ、そんな夢のような話し・・・。信じられると思うかね。
地中海の海底のその下にそんな国家があるなんて・・・」


信じなかったのはシャルルだけではなかった。

ルイの派遣を許可したエール・フランスもそうだった。

「きみは調査が出来なかった言い訳に、そんな途方もない夢物語をでちあげる気か?
航空機の破片でも持ち帰ったのならまだしも。
きみはベイルートで、ただ遊んできただけなのかね」

ルイは嘲笑の的となり、会社を辞職するハメとなった。


フランショットにしても同様だった。
彼は自分の友人のジャーナリストたちに体験したことを話してはみたが、
誰1人信じてはくれなかった。


結局、二人が持ち帰ったこの話しは戯言扱いにしかならず、それで終わった。


アレクサンドロス(alexander3)image



ちなみに、2012年、ギリシアのアンフィポリス(Kastaヒル・マウンド)で
このアレクサンドロスにまつわるかもしれないという古墳が発見され、
今も発掘がつづいています。

当初は、アレクサンドロス3世のものか・・・などとも言われましたが
そうではなかったようで・・・。
それでも、その家系に関与する誰かの墳墓ではないか?・・・ということで、
今後の調査・研究が期待されているところです。


アレクサンドロス(ギリシアの発掘3)image


アレクサンドロス(ギリシアの発掘)image


アレクサンドロス(ギリシアの発掘2)image




また、その昔、アレクサンドロス3世の時代、
植民地として治めた場所(インドにまで及ぶ)には
アレクサンドリアという名称をつけられた場所が複数あります。


アレクサンドロス(インド遠征)image


そして・・・

このトンデモ話が起きた場所は、現在、
勇猛果敢なクルド人たちの支配下にあり
軍隊ですら容易に近づくことができないところにあるわけです。

シリアも、いまだ紛争状態のまっただなか・・・
他国の者はおいそれと立ち入れないばかりか、
自国でありながらもシリア自体がそこに目をくれることもありません。

さらに、話しが残る該当地区はいま、
イスラム国の指導者たちが潜伏する場所の近傍であり、
米国の空爆対象の一つです。

で・・・。

イスラム国の残虐さが麻薬を常用し、倫理観を麻痺させているがゆえ・・・ともされているのを聞くと、
「謎の地下都市アレキサンドリアの交易品が、大麻でもある」という言葉が想い出されたりします。

どことなく、繋がりがあるような無いような・・・。

いずれにしても、シリア辺りが平和にならないと
上記が“ただの昔話”かどうかさえ、確かめられないようです。


昔に起きたことを、実際の調査で確かめて真実を解き明かすのは
大切ですし、その過程では、新たな夢やロマンも生まれます。


ちょっとしたひとときに、人生の現実だけではなく
こうしたことへ眼を向けてみるのも一興かな・・・と思いました。



      アレクサンドロス(賢者に学ぶ)image
      (アレクサンドロス3世は13歳の頃から、アリストテレスから学んでいた)



地中海周辺はいまも美しい・・・。

アレクサンドロス(ギリシアの辺り)image



歴史の宝庫のギリシア辺りもまた独特で・・・。

アレクサンドロス(ギリシアの風景)image



「何かが起きた人」・・・テレーゼ・ノイマンの場合3/聖なる干渉

Posted by 世羽 on 09.2014 不思議考   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
朝日新聞の訂正記事を受けて早速、従軍慰安婦という文言を
「従軍犠牲女性」に変更する動きを見せたお隣の国。

ということは、その国の“本件”にかかわる“検証基盤”が日本のメディアだった・・・
ということを露呈しているようなものになる・・・w。

で、琉球大学の高嶋伸欣琉球大名誉教授とか桝添要一さんとか・・・
きっと頭脳的に優秀な方たちだろうが、
彼らの弁は、どこか朝日新聞にも似ている・・・。


聖痕3(修飾画像)image



(前からのつづきの3回目)


聖痕・・・(少しだけ書き表すと)それは
キリストが磔刑になったときに、その身体に穿たれた傷のすべて、もしくはそのいくつかが、
ある人の身体、両手、両足、額に現れる現象のことで・・・。


ヒステリー症状や一種の催眠症状、
ミュンヒハウゼン症候群や多重人格のような精神障害の疑いがあるもの、
また単に、類似の現象が起きるだけでは、聖痕には含まれません。
(現代では、本人に起因する心因性の紫斑症なども除外。
もちろんトリックなどは論外

これまで真性の・・・と判断された「聖痕」保持者は、
アシジの聖フランシンスコをはじめ、約320人を超え、
うち60人以上が聖人となっています。
(テレーゼ・ノイマンは聖人ではない)


これまで、“真性の聖痕の保持者”は総じて「脱魂」状態になっており、
精神的かつ肉体的な痛みを伴う現象を有しているにもかかわらず、
英雄的な態度で諸徳を実行し、
最終的には「キリストに似た者」となっていく道を歩んでいます。


テレーゼ・ノイマンにこの現象が出たのは
1926年の四旬節のさなかのようです。


  聖痕(テレーゼの足)image


テレーゼが言うには

「(手足に)いつできたか、私は気づきませんでした。
聖金曜日の晩、ふとこの傷を見つけたのです。
それ以前は・・・私にはわかりませんでした。
救い主のことを考えていて、ふと我に返ると、
手と足から血が出ているのを“感じ”ました。
というのも、自分の目で見ることができなかったのです。
(血で)目が閉ざされていたのです。

妹のツエンツルに・・・ちょっと私の手足を見てくれる?・・・とても痛むから・・・
と頼みました」



脇腹のほうは、四旬節の始めに現れていたようです。

3月4日の木曜日から5日の金曜日にかけての深夜。
テレーゼは突然、一条の光とともに、
かんらん山の情景やゲッセマニの園で祈るキリスト、
樹の根もとに寄りかかっている3人の男を視ます。

そして、

キリストが“血の汗”を流すほど祈っている様子を“見つめて”いると、
突如、脇腹に刺すような痛みを覚えました。

それは第4肋骨と第5肋骨のあいだで、
そこから血が滲み出て、夜通しつづき、
金曜日の正午になってようやく止まりました。

この翌週の“木曜から金曜にかけて”は、
キリストが“鞭で打たれる様子”を幻視し、そのときに脇腹から出血します。

時が進み、4月1日の木曜日から2日の金曜日になると
テレーゼは“ゲッセマニからゴルゴタにいたるまでの一連のヴィジョン”
はっきりと幻視しました。


テレーゼと妹は、ただでさえ心労を与えている両親を心配させてはいけないと考え
これらのことを秘密にしていましたが、たまたま夜着のあいだから血液の付着した布を
見つけられてしまったことから、両親の知るところとなります。


一方、起きたことは医師にも知らされ、
当然ですが、医師たちは現れた傷を治療しようとします。
塗り薬なども塗布されましたが、どれもまったく効果はなく、
痛みははげしくなりました。

やがて、すべての治療が無駄だとわかり、
指導司祭の承諾を得て医学的な治療は中止されます。

「奇妙だが、この傷は治らない。でも炎症は起こしていない」というのが
彼女を診ていた医師の感想でした。

1926年11月5日になると、
こんどは茨の痕のようなものが頭部に現れ、
9日には、頭の回りに8つのはっきりした傷となりました。



  聖痕3(茨の冠の)image



こうしてテレーゼは、普段は“小さな傷痕”を残したままで
いざ、“金曜日や特別な記念日”あたりになると、
キリストが受けたとされる傷痕を映し出すかのように身体から血を流し
その状態をこの世を去るまで繰り返したので
「十字架上のキリストの生ける肖像」と呼ばれるようにもなりました。


    聖痕3(ふだんのテレーゼ)image


その生涯のうちには、
インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダ師もテレーゼのところを訪れて、
宗教は異なっていても、不食という状態やその他について、
霊的な観点から親しく語り合ったことで知られています。


     聖痕(テレーゼとヨガナンダ)image


「私は、何も食べずに生きているのではありません。
救い主で生きているのです」
・・・これが周囲の人に漏らしていた言葉です。

テレーゼは、不食や聖痕のみにとどまってはいませんでした。

前記した幻視の力もそうですが、
行ったことのない外国の様子を知る能力(日本のことも)
人々の嘘を見破る力、
バイロケーション、
知るはずのない言語を説明したりする知恵、
小学校しか出ていないのに、学者が舌を巻くほどの広範な知識、
未来に起きる出来事の告知で人の命を救う、
幾たびも、司祭の手から聖体が勝手に浮いて彼女の口に入る、
聖体が安置されている場所を正確に感知する・・・等、
書ききれないほど様々な特異現象を周囲に見せています。


   聖痕(テレーゼの聖体拝領)image


以前書いた、聖ベルナデッタが“聖母から告げられた言葉”についても

「それは
『シユ シユイ ラ クンセシユヌ インマキュラダ』
(私は無原罪の宿りです)
だった・・・」

と、行ったこともないフランスの、しかもスペイン語が混じったピレネー方言
指摘していました。


    聖痕(何かと話す?テレーゼ)image


こんなことが度重なるわけですから・・・テレーゼは一躍、時の人となり、
膨大な人たちが彼女のもとを訪れるようになります。

しかし、これを“極めて”良く思わなかった人たちもいました。
あのナチスです。

1945年4月20日。
コンネルスロイトに駐屯していたナチス親衛隊の戦車部隊から
3人の親衛隊員が派遣されてノイマン家に侵入します。

彼らは拳銃を突きつけてテレーゼの引き渡しを要求しますが、彼女は不在でした。
親衛隊員らは、テレーゼの戻るのを待ったものの、戻りの遅いことに業を煮やし
「ここは危険思想の根源だ。灰燼に帰すから覚悟しろ!」と捨てぜりふを残して立ち去ります。
そしてこの後まもなく、戦車による砲撃が始まり、村が火焔に包まれます。
村の聖堂もノイマン家も砲撃されて、住宅17棟、納屋28棟が完全消失しました。

当のテレーゼがどこにいたかというと・・・。
彼女は砲撃を喰らった司祭館の倉庫の地下室に近親者とともに避難しており
倉庫の“鋼材すら”焼け落ちるような凄まじい砲撃だったにもかかわらず
みなが無事でした。

“不思議大好きなドン”を懐に抱いて、
不思議な力のもとで覇権を制しようとしていたナチスなのに、
いったい、彼女の「何が」気にいらなかったのでしょう?・・・



(1945年代のナチスSS)
聖痕3(1945年代のナチス)image

聖痕3(ナチスSS資料)image




こうしたことは非科学的な出来事として、当時から論争や批判の的になったりします。

今でさえ、それが何だったのかについては
キリストを信じる人も、そうでない人も受け取り方が異なるでしょう。


どう感じるかは、もちろん人それぞれ・・・。
あとは、起きたことが現実の出来事として残るのみです。


存命中のテレーゼのささやかな願い・・・それはいつも

自分のことが新聞や書籍などマスコミに興味本位にとりあげられて
必要以上に多くの人々の注目を浴びたり、自分のところに集まることではなく

「その代わり、みなさんの興味を十字架(神)を仰ぎ見るほうに向けてください。
どうかキリストの訓(さと)しを実行してくださいますように」


というものでした。


   聖痕3(テレーゼ近影)image




この出来事を受けて、
当時を生きたファーベル枢機卿がこんなことを言っています。

「こうした特別に異常な出来事は日常そう見られるものではなく、
私たちの宗教にとって必要でもない・・・。

(略)
しかし、コンネルスロイトに見られるように、
ときどき“何か”が私たちを揺り動かし、
私たちの眠りを覚まし、
今でも神の摂理があることを私たちに示すことがあり得る・・・」



テレーゼ・ノイマンという女性は
そんなことを伝えるための道具となった一人なのでしょう。

あの光の導き手が言った

「“より高い干渉”が世に存在することを
        世界の人々に知らせるために・・・」


という言葉を証する者として・・・。



気取りのない態度、真実への愛、純粋さ・・・
これがテレーゼの本質だったと言われます。
彼女は、ほんとうに素朴な人でした。


あるとき、“楽しそうに”何枚かの小さな聖画を並べて、
その1枚にこんなことを書き記しています。


   聖なる祈りによって結ばれる!
                        ―――テレーゼ・ノイマン―――




       聖痕3(テレーゼのご絵)image
  (ちなみに、その聖画ではありませんが・・・
   のちに作られたテレーゼのご絵。右下赤丸の中は、テレーゼの聖遺物の断片)




そんな気持ちを心に抱きながらテレーゼは・・・
「霊的な聖なる人たち」そして「何か」と強く結ばれていたのかもしれません。




聖痕3(修飾用画像2)mage


聖痕3(修飾用画像3)image



「何かが起きた人」・・・テレーゼ・ノイマンの場合2/光の導き手

Posted by 世羽 on 07.2014 不思議考   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
ここのところ、さらに・さらに色々な事が起きているので
なんだか、もう・・・
こんなことが起きたとしても(リンク先以下)

魔術で猫に変身した12歳少年が捕獲される

驚かない・・・w。


聖痕2(修飾用2)image



(前回からの続き2)


少し時系列が前後しますが・・・。


1925年。
テレーゼ・ノイマンが最初に物が口にできなくなったころ、
正確に言うと5月17日のこと。
この日の出来事を、彼女は当時の主任司祭に話しています。


おおかたを示すと、それはこんな内容で・・・。

ノイマン家の人々はかねてから、時間がとれるときに、
聖堂での礼拝時間にあわせて祈りをする習慣があり
この日、両親を残して教会に行きました。
(テレーゼは、同時刻に家のベッドで祈っている)


「午後5時の礼拝時間のとき、私はロザリオを唱えていました。
すると突然、目の前にがさしてきました。



聖痕2(光)image


最初、この光に打たれたとき、びっくりしました。
光は、私の前・・・ベットの上方からでした。


不思議にも、この光は“心を楽しくするもの”として感じられました。

でも、驚いた瞬間に、何か叫んでしまったようで、
声を聞いた両親が、父を先にして駆け上がってきました。

私は、この光の中から響く美しい声を聞きました。


『テレーゼ・・・あなたは丈夫になりたいですか?』

「私には、生きることも、死ぬことも、丈夫なのも病気でいるのも
みな楽しいことです。
それはすべて、神さまがご存じです」と答えました。


すると、その声が
『もう一度立てるようになったら、さぞ嬉しいでしょうね』と尋ねたので

「神さまがなさることなら、どんなことでも嬉しいです」と答え、
自分が楽しく思っている“ありったけ”のことを数え上げ

「いろいろな草花や小鳥、
何か新しい苦しみ・・・それさえ楽しみです。
でも、いちばんの喜びは救い主です」・・・・と答えました。


声が続きました。

『あなたにとって、“小さい喜び”を受けることが許されます。
あなたは今、身体を起こして座れますよ。
わたしが手伝ってあげましょう』


その声と同時に、何かが私の手を取りました。


聖痕2(修飾用助け手)image



それで、初めて身体を起こしたら、背中に激しい痛みを感じました。

声はさらに続けました。


『あなたにはまだ、たくさんの苦しみが許されています。
医者もあなたの苦しみをどうすることもできないでしょう。

けれども、決して恐れることはありません。

わたしは今まで、ずいぶんあなたのお手伝いをしましたが
これからもお手伝いをしましょう。

苦しむことを通して、あなたは信仰と犠牲の努めをもっともよく発揮し
それによって司祭の手伝いをすることができます。

どんなに輝かしい説教よりも、
苦しみが、多くの人々の救霊(すくい)になるのです。
私はそのことを前に“書きました”』



こう話すのが誰なのかわかりませんでしたが、
次の日、私の話を聞いた主任神父様が
“聖テレジア”の著書を日読んだところ、そこにこの文面を見つけたそうです。



   聖痕2(資料リジューの聖テレジア)image


声が言いました。

『あなたは歩くことができますよ』

そして光が消えました。

私は自分がベッドの上に座っているのに気づきました。

そして、まったくの元気をからだに取り戻していたのです。
このときはもう、背中の痛みは少しも感じませんでした。

我に返ると、光が消えた寂しさに涙があふれました。



聖痕2(光2)image



テレーゼに「何らかの不思議」が起きて回復し、さらに歩けるまでになったわけですが
本人が言うには、彼女自身は治ろうとして祈ったり願ったりしておらず
むしろ、それを甘んじて受けようという心持ちでいましたから
この時の回復は、何かの「介入」によって起きたことが推測されます。

この奇妙な出来事はとてつもない「珍事」として、瞬く間に村の人々に伝わっていきます。

この出来事についてテレーゼは、
とても素朴な想いを語っています。


ああ・・・
私の生涯でもう一度この足を使う日がくるなんて、思ってもみなかった。
両足が使えるとは、なんて素晴らしいことでしょう。


この大きな喜びを察してください。
だって、私の手足に新しい生命が蘇ったのですから。


    聖痕2(テレーゼと羊)image


でも・・・まだ手放しでは歩けません。
部屋の家具を伝って歩きます。

神さまが人に“まっすぐな手足”を与えてくださったことを感謝する人は
あまりいないかもしれませんが
(テレーゼの足は病中に酷い湾曲を起こしていた)
私は今度のことで、
まっすぐな手足を持った人は、そうでない人を手伝う必要があると思います。
盲人の杖となり、不具合のある人の介添えとなる・・・
そうする必要があるのではないでしょうか。



こうして、この時を境にテレーゼの病状が劇的に好転しました。

人の助けを借りて歩くことを除けば
ねじれていた脊椎がまっすぐになり、
曲がっていた右足が伸び
痙攣の発作も消失、長い間病床にいたことで生じた床ずれの傷までが
まったく治っていたのです。

そして同じ年、1925年9月30日
それはテレーゼが大好きだった“幼きイエズスの聖テレジア”の命日の
記念日でした。
この日午前1時ごろ、テレーゼが「聖テレジアの連祷」の信心業をしていると
あの“美しい光”が現れます。

テレーゼに言わせると、この光に15分間でも接していられるなら
たとえふたたび盲目の憂き目をみたとしても、きっと後悔しない・・・
と想えるほどだったと。

光は“親愛の情”をもってテレーゼに話しかけました。

『あなたは今こそ、他の人の手伝いなしに歩けますよ。
肉体に感じる苦痛は減るでしょう。
でも・・・苦しみは、これからです。
それでも人々に、神を信頼するよう励ましなさい!』


でも、すでにテレーゼは好奇の眼にさらされていましたから
思わずこう言いました。

「いま私がしていることが正しい道なのか、そうでないのか・・・。
まったくわからないのです。
ある人などは、私がペテン師だとも言っているそうで・・・。
悲しくてなりません」


『あなたの聴罪司祭に従ってください。
なにもかも打ち明けなさい。
あなたは完全に、自らの意志を滅し、
いつまでも今のまま、子供のように素直でいなさい』


そう言って光が消えました。


     聖痕2(資料リジューの聖テレジアご絵)image
    (テレーゼは、尊敬する「幼きイエズスの聖テレジア」の、
     こうしたご絵をしばしば見ながら祈っていた)


その後、テレーゼは一人で歩けるようになります。


とはいえ、彼女が病気がちだったことに変わりはなく
盲腸が悪化して手遅れ状態になったこともあるのですが
伏せっていたテレーゼに、(1925年11月13日)またも光が現れ一瞬のうちに回復。
「ありえない・・・」と、主治医をうならせます。


そんなことが何度もあったなか、
1926年11月19日、テレーゼは高熱から、さらに肺炎を発症し
危篤状態に陥ります。
足も冷たくなりはじめ、医師は臨終間近だと家族に告げます。

しかしこのとき、テレーゼの顔には微笑みが浮かんでいました。
彼女は、またもや光の導き手に接していたのです。


声が彼女に告げます。

『あなたが、そんなにも献身の念が厚いことを救い主は深く喜んでいます。
今、死ぬことは許されません。
あなたが身をもって
“生と死”とは、高い権威のもとに存在することを世に示すために・・・』



聖痕2(野原でのテレーゼ)image



そして・・・こうしたことが起こっていたどこかの時点で
テレーゼ自身が自分でも気づかぬうちに
(たぶん1926年の四旬節の頃から)
1962年9月15日に天に召されるまで
彼女は、いわゆる聖なる傷痕を“印刻される”ことになります。


聖痕(初期のテレーゼ)image


で・・・どうしてそうなったかなどを、つぎに・・・。





ときに、“人の望みもしない”知り得ぬ力が働くことがある・・・
それが起きるのは、人の熱望からではなく、それ自体が“恵み”によるもの。

           というようなことを、テレーゼが・・・言っていた。


聖痕2(修飾用)image_convert_20140806230607



「何かが起きた人」・・・テレーゼ・ノイマンの場合

Posted by 世羽 on 05.2014 不思議考   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
巷でこんな図が流れていたw。

アジア太平洋諸国の反応image


異国の人たちのほうが“リアル”にわかっているかも。



(本文はここから下)
聖痕(修飾用画像)image



1800年代の終わりごろから1900年代にかけて、
ドイツのコンネルスロイトという村(当時)に
テレーゼ・ノイマンという人がいました。


聖痕(資料Konnersreuthマップ)image


不思議系の雑誌や書籍などで取り上げられたことがあるかと思います。

この女性、
とりたてて見目麗しいというわけでもなく、
その名が有名になったころの彼女は
パッと見、異国の、ごくふつうの田舎のおばさんでした。

しかし、あの聖ピオ神父と同様に、
「聖痕」を生じたことで知られています。


のちに「コンネルスロイトのテレーゼ」・・・と呼ばれるようになった、
このテレーゼ・ノイマンは
1898年4月8日の深夜、キリスト教でいうところの、
(その年の)聖金曜日から聖土曜日にいたる時分にこの地に生まれ、
同年同月10日の“復活祭の日”に洗礼を受けました。

もちろん、この日に生まれた赤ちゃんはたくさんいるでしょうが
この日の持つ意味が、
のちの彼女の行く末を暗示しているかのようでもあります。

当時、各国の田舎がたいていそんな感じだったように、
子だくさん(11人兄弟)の家庭の長子として生まれた彼女は
幼いころから兄弟姉妹の面倒を良く見て
7歳の頃にはすでに、午後、学校から戻るとすぐ働きに出かけ
半日の労働をして賃金を稼ぎ、家計を助けていました。


聖痕(子供のころno)image


長じてからは、
身長は小さめでしたが、すこぶる頑強な体躯を持っていたので
戦時中などは、75㎏もある穀物袋を肩にかついで5階の倉庫まで運ぶなど
男まさりの労働も平気でこなしていました。

そして、調理場、水車小屋、庭園、酒場、麦打ち場、畑、牧場と
実にさまざまな場所で、とにかくよく働きました。

そんな逞しいテレーゼが、20歳になったときのことです・・・。

働き先の隣家が火事になり、
戦争で男手の足りないなか、2時間に渡る消火活動を行っていたところ、
突然、バケツを持つ手から力が抜け、背中に刺すような激痛が走り、
思うように身体が動かなくなってしまいました。

それでも、2~3日で、どうにか起きあがれるようになったので、
痛みを押して、出来る限りの小さな仕事をしていたのですが、
激痛が身体中のあちこちに拡散しはじめ、身体は縮み、足を引きずるようになりました。

その後、1ヵ月ほど、
そんな状態ながら何とか仕事に出かけていましたが、
ある日、地下室からジャガイモを運び出す途中で階段を転げ落ち
妹が捜しにくるまで、倒れたまま起きあがれませんでした。

同じことが、その後も起きて、ついにテレーゼは病院に入院します。

診断では甲状腺の下垂ということで、6週間ほど治療を受けるのですが
当然、治療費はかさみます。

母親が休む暇なく働くのを見ながら、じっとしていることは
彼女にはできませんでした。

結局、テレーゼは途中で退院し、それからというもの
“原因不明の痛みや痙攣の発作”に耐えながら、
力をふりしぼるようにして家計を助けようと働いていたのですが
またまた仕事中に倒れ、
とうとう起きあがることさえ叶わない、ベッドに伏せったままの状態に陥ります。

常時、全身のここ・そこを貫く痛み、発作のようにして襲ってくる痙攣。
一時は死ぬ寸前までいき、
何とか命を取り留めたものの、病状はさらに深刻化していきました。

そして1919年3月
発作的な痙攣が起きてひっくり返り、頭部を強打。
以来彼女は“一時的に(約4年)”視力を失うことになりました。

このときのことを、テレーゼが語っています。

「父や母は、手のふれ方でわかりました。
お医者さんが手をふれるときには私をなだめなくてはいけませんでした。
というのも、私はさわられると、それほど痛みが身に応えたので、
他の人に触れられると我慢できなかったのです。
母も、娘に触れて苦痛を与えたくはなかったでしょうけれど・・・。


そんななかでも、私は神さまの愛を絶対に信じました。
神さまがくださる苦痛を喜んで辛抱する決心を心で固めました。

            (ここら、のちに大きな意味があることがわかる)

でも、母の涙が私の右頬にしたたり落ちるのを感じるとき
悲しみがこみあげてきて、私も泣くよりほかはありませんでした」

                 (左側の頬には感覚がなかった)



聖痕(テレーズの両親と一緒に)image



1922年の末、テレーゼは頸部に腫脹を生じ、
12日間、一滴の水すら飲み込むことができなくなります。

その後1年ほど、流動食で生き伸びた感じのテレーゼでしたが
1925年の“ご復活の大祝日”以降、水もほとんど飲めなくなり、
日々口にする流動食の量も減って
1日あたり、小さなスプーンに2~3さじになりました。

当時の医療からすれば、
激痩せして、とっくに死んでいたでしょうが、
テレーゼの場合、他の人が見ると病人に見えないほどの容貌でした。

そして1926年8月
テレーゼは病床で“キリストの変容”の幻視を見ます。
(このとき、まだ物理的な視力は戻っていない)

以来彼女は、聖体と、それを飲み込む数滴の水以外、口にしなくなりました。

噂はすぐに広がり、テレーゼへの「調査」が始まります。

通常の人は、2週間ほど食事も水も口にしなければ死にいたる・・・ということで
ちょうどそのぐらいを基準の日数として
「1927年7月14日から同年同月28日まで」を調査期間とし
その間、ドイツの衛生顧問官サイドル博士、エルランゲン大学教授エワルド博士の指示のもと、テレーゼは“24時間の監視体制”下に置かれます。

昼夜を問わず、2名の看護師がテレーゼに張りつき、
何を食し、何を飲んだか、身体を洗うときの水はどう使用されたか・・・
などの記録が取られました。

このときの記録は、レゲンスブルクの司教庁にあり、閲覧可能です。
また、キリスト教の信者ではなかったエルランゲン大学のエワルド博士が書いた、
裁判用のための鑑定書も残っています。

で、この調査の結果・・・

結局のところ、テレーゼは飲食をせずに生きていた・・・というか
そうする“能力が無い”状態で生きていることが判明。
その他、私的な調査をしたミラノ大学の複数の研究者も
同じ結論にいたっています。

ちなみに、彼女の睡眠は非常に短く、
深夜3時~5時のあいだの2時間だったこともわかっています。


聖痕(テレーゼのスナップ)image



そして・・・新たな展開がやってきたのは
視力を失って4年1ヵ月を過ぎたときでした。

なんと突然、視力が戻って来たのです。

テレーズに視力が戻ったとき、
4年のあいだに成長してすっかり姿が変わった妹を見て
「あなたはどなた?」とテレーズは尋ねています。

また、出先から戻った父親の頭に白い物が増えているのを眼にして、
少なからず寂しく思ったようです。

このときのことを、テレーゼはこう言いました。

「盲目になる前、私は“見る”ということについて何の不思議も感じていませんでした。
そんなのは、当たり前のことだったからです・・・。
でも、今になって初めて
当たり前に物が見えることが、どんなに素晴らしいか、
それは日々、神さまに感謝をするべきことだ・・・と悟りました。


この尊い賜物を受けられない人たちもいます。
でもそれは、神さまのみ心でしょう。

見える人たちは、人類に与えられた、このほかのすべての賜物、
天地の創造の奇跡をなされた神さまの“大いなる愛の賜物”が、
天上に、地上に、満ちていることを悟るべきです」



またテレーゼが言うには、
この突然の視力回復には、一人の聖女の“隠れた助け”もあったようで・・・。

「あなたはどんなことをして見えるようになったのかい?
 誰かが療法に手を貸したのかい?」

と、不食についての調査を行ったサイドル博士が尋ねたとき

「先生、助けてくださった方があります!
昨日は、幼きイエズスの聖テレジア(リジューの聖テレジア)が列福された日です。
私たちは心から彼女を慕っていました。
きっと、彼女が助けてくださったに違いありません」

(・・・これが、さらに“のちに明らかに”なる)

テレーゼが、あまりに確信に満ちた語調で話したので
聞いたザイドル博士はつい
「そうかもしれん・・・」とつぶやいてしまったほどでした。


もの凄くはしょって書いていますが・・・まだ、肝心の聖痕が出てきません。
つぎに続けることになりそうです。


聖痕(TeresaNeumannスナップ)image



で・・・つけ加えてひとつ

このテレーゼ・ノイマンの“霊性”として明らかになっていることに
つぎのようなものがあります。

それは

彼女がとりわけ、自然界のなかに神との交わりを持っていたことです。

牧場や森、野原で働きながら
どんな小さな草を見ても
どんな茎を見ても
どの樹木を見ても
そこに神と、永遠性とを連想していました。

テレーゼが大好きだったのは“刈り入れのとき”で
その時こそ、何にも邪魔されることなく神と語らうことができ
神の慈愛を深く想えたから・・・だそうです。

そして、テレーズはとにかく「小さなもの」に、
真の喜びを感じていた人でした。



聖痕(テレーゼと小鳥)image




そんなテレーゼに起きた話の続きをもう少し、つぎに・・・。


聖痕(修飾用)image



  

プロフィール

世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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