Loading…

スポンサーサイト

Posted by 世羽 on --.-- スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「復活の朝」に起きたこと・・・そのビジョンの一部

Posted by 世羽 on 31.2013 語り   0 comments   0 trackback


当たり前といえば、当たり前ですが・・・。
日本では、クリスマス商戦は大々的にやっても
ご復活商戦はしませんね(今年は本日31日がそれにあたる)。

以前、ニュースか何かで、とあるお寺のご住職の方が
宗教を超えてクリスマスを祝っている・・・というのを
話題にしていたのを視聴した記憶があります。

宗教の垣根を越える・・・。何げに凄いことです。
お互いを尊敬できる証ですね。

本物の善い神様/光の存在なら、導く人間は異なっても、
たぶん、お互い仲良くするでしょう。

仲違いしているように見るのは
おそらく、人の見方によるだけで・・・。

そして・・・。
クリスマスより、もっと、深い意味があるはずの、復活祭。

宗教の壁や、幾多の誤謬、また、復活前のむごい受難の様子に阻まれて、
クリスマスのような、ただ喜びだけ・・・という訳にはいかないため
あまり知られていないようです。
(ひとつ隠れた意味を言うと、神道の思想とユダヤ教の類似・・
ここに大きな壁もあります)

復活の意味・・・その奥深いものは
専門の方々のお仕事ですし、身をひくとして。

復活の朝についても詳細に視た人がいる・・・。
あの過去記事
http://tokitabiyohane.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
で、お話したビジョンの物語から
その朝のほんのひとコマを、お知らせしてみます。
(文中では、少し前の呼称イエズスとなっています)
本を数ページ読んだつもりで、どうぞ。


夜明け images


原文 IL POEMA DELL’UOMO-DIO MARIA VALTORTA より


夜露がかすかに光るだけ、菜園は静まり帰っている。
夜中、その上にひろがっていた濃紺の空は、
その一部を残して、次第に群青色に変わっていく。

東から西へと、まだ薄暗い地上が、
夜明けの明るみに占領されていくのが見える。

白い暁の波の下で、弱まりながらも、
まだ生き残っている幾つかの星も、
一つ、また一つと姿を消し、
ずっと向こうの、西の方に二つ三つ残っている小さな星だけが、
朝ごとのこの夜明けの奇跡を見つめている。

しばらくして、
トルコ石のような色をしたなめらかな空に、
バラ色の光が一線を画するとき、
木々の枝と草の上をかすかな風が吹き過ぎて、
「さあ、目を覚ませ、一日が始まった!」と告げるようであるが、
はるかに高い糸杉にねぐらを作る小鳥たちは、まだ目を覚ます気配がない。

特に何事もなく日が過ぎて、退屈したらしい番兵たちは、
寒そうに肩をすくめて、うたた寝しているように見える。
(世羽注:番兵たちは、葬られたイエズスの墓を、監視する任についていた)

墓の入り口は厚い石造りで、目立つところに神殿の判も押してある。

番兵は夜の間に焚き火をしたらしく、地面には木の燃えかすが残っている。
それに皆で何か食べたらしく、
食べ残しのものと、拭き取ってきれいにした小さな鍋も残っている。

彼らは食べてのち、その辺りを散らかしたままで、
恐らく徹夜の番をするつもりであったのだろうが、
多少楽な姿勢を取れる場所に腰をすえ、
つい、うとうとしてしまったのだろう。

いま、東の空はすっかりバラ色になっているが、
太陽の光のまだ行き渡らない所もある。

その時どこか地の底からでも吹き出したように思える一つの星が、
千変万化の光線を放ちながら、恐ろしく早い速度で地上に下る。

その光のまばゆさに、夜明けの明るい大空も光を失ったように思われる。
その光と共にすさまじい地鳴りが起こったので、番兵たちも驚いて立ち上がる。

その地鳴りと思えた大音響は、
栄光の肉体をとってよみがえるキリストの霊に付き従う天使たちのアレルヤである。

星は、墓の入り口の鍵を苦もなく落として墓に入る。

他の牢番も番兵も、みな恐怖に立ちすくんで身じろぎもできない。
ふたたび地鳴りが起こる。

名状し難い光をおびた星が墓に入ったとき、
暗い穴ぐらの中は光に満たされる。

その時、布で覆われた死体に神の霊が入る。

だが、これら一連の出来事は、
ほんの瞬時のまに、いやそれよりも短い時間に思われる。

神の霊があらわれ、墓に入り、
そして消えるその、目にも留まらぬ瞬時の出来事の間には、
たとえば「私が臨む、よみがえれ」と死体に命じる神の御意志さえも、
人間にはつかめはしない。
ただ、神のご命令を受けて、死の肉体は地鳴りをもって応じる。

すぐさま、布に包まれ巻かれた死体は、栄光の肉体と変わり、
永遠の美しさによみがえる。

死を越えてよみがえった証拠には、
まず心臓がめざめ、固まっていた血管に血を送り、
胸が力強く打ち始め、体温が戻り、あらゆる機能がめざめる。

さらに「瞬く間」のことであるが、
死体の布に覆われ、胸に組み合わせてあった手が
そして身体が動きだす。

すでに物質を離れたその超自然的な肉体、
神なるものの威厳、重々しさ、輝かしさは、
私の目ではとらえ得ない。

次に見たのは
前に知っていた傷だらけの肉体ではなく、
五つの傷から射す光線である。
御体全身からも不思議な光があふれている。

さらに最初の一歩を踏み出される場面を見ると、
その御手、御足の動きにつれて、
光の刃のようなものが辺りに散る。

茨の冠あとの無数の傷口から発する光は、
御顔のまわりを円い光の輪で包み、
胸に置かれた手を広げられると、
ちょうど、心臓のあたりが白光を放ち、
まさに「御体そのものが光」である。

その光は、
私たちが地上で見ているどんな光も及ばないもの、
太陽の光さえ光と言えなくするもの、
まさに「神の光そのもの」である。

イエズスの御体から発するその神秘の光のために、
彼の目の青さはますます底知れぬ青さに深まり、
毛髪は炎のような色をおび、
御服の白さも、言わば天使的な純白に輝く。

人の言葉や表現のあわれさは、
とてもその様子を言い表すことはできない。

言わば、三位一体の「超越的な強大な光」である。

それは私たちが「光」と呼んでいるすべての光を無力にさせるもの、
永遠の時の一瞬一瞬を自らに吸い込みさらに永遠へと至る。

天使、聖人、天にあるすべて、神の愛、神への愛、
これらが一つとなって、
よみがえったキリストの体から発する光となる。

復活したキリストが墓の方に進まれると、
光の向こう、入り口の両側に、
天使であろう美しい光が二つ、
平伏して主を礼拝しているのが見える。

復活 images


キリストが幸せを捲きながら墓から外へと出て来られると、
歓喜にめざめた草の木の露がきらきらと輝き、
ようやく姿を見せた太陽の下で、
永遠の太陽に向かって、
木々の花がぱっと開いてこの歓喜の奇跡を祝う。

番兵たちは失神してその辺りに転がっている。

人間の目をもってしては、とても神を見ることはできないが、
自然の草木や鳥たちは、太陽の光のくもに包まれて、感動の声えをあげる。
イエズスのやさしい目が木々や花々に留まると、
彼らはそれにこたえ、
空を見上げればその青さがひときわ澄み渡る。

露はダイアモンドよりも光り、
なめらかな花びらをいっぱいに開いた花園のバラを撫でながら、
そよ風がうれしそうにたわむれる。

イエズスは手を挙げてそれらを祝福される。
小鳥はさらに声高くさえずり、
風に運ばれた花の香りが、むせるように辺りにただよう。

その時イエズスは、私のささやかな苦しみと悲しい思い出と、
そして明日へのわずらいを、一瞬にして消し去ってくださる。

あとにのこったのは、たとえようもない喜びだけで、
それに全身が包まれる。



この幻視については先日お話したように、真っ向から否定する人もいます。
アンナ・カタリナ・エンメリック(暗黒の三日間で有名です)の幻視との表現の違いをあげて、批評する人もいます。

ちなみにエンメリックによると

軍人の姿をした一位の天使が稲妻のように空から舞い下り、
石を右のほうへ転がし、その上に座った・・・

などと表現しています(VALTORTAは星としています)。

いずれにしても、自分の感性は、
多少の記述は違っても、何かが起きて、
それがあった・・・と、限りなく真実の光景を感じとっています。

本物であるなら、宗教の枠組みや、何を信じていようと、
それら諸々を超えます。

多くの聖なる人には、それぞれの尊さがあります。

それが「まことに光を帯びた聖人」であるなら、
きっと誰もが、彼らに対して心の奥で何かを感じるでしょう。

たった一人でも、「本物の」聖なる存在を心で知るならば、
おそらく、
偽の存在や教義に遭遇したときの判断の基準となるでしょう。

そして、信仰のあるなしにかかわらず、
また誰か特別な人のためだけでなく、
まことの光の存在であるならば、
神なる存在は、助ける人たちの声を必ず、
ちゃんと聞いていると思います。

今日という日が、皆さんにとって善き日でありますように!


和訳ではないのですが・・・映画です。
メル・ギブソンがエンメリックの幻視を忠実に再現したことで
話題になった・・・・でも、長い・・・。

The Passion of the Christ 2004 FULL MOVIE
http://www.youtube.com/watch?v=MNPoxmwLC1c




スポンサーサイト

「赤い星/火星」のエネルギー防御システム解除はまだ続く

Posted by 世羽 on 30.2013 宇宙と星がらみ   0 comments   0 trackback
本日は、まるっきりの、素の自分モードで、突っ込みます。


星が好きでした。
(というか今でも好きですが)
小学生から中学生にかけては、反射望遠鏡や双眼鏡で空を眺めまくっていました。

地面や屋根に寝ころんで夜空を見上げては、
犬と一緒にそのまま眠ってしまうなど、しょっちゅう。

住所は、いちいち星の名前で創ったものをつけ加えて書いていました。
なので、現在色々な人が言っている、何処の星生まれか・・・などは
もっと、それ以前の早い時期に、何の抵抗もなく受け止めていた時期がありました。

で・・・長じるにしたがって色々なことに気づき、
今にいたっては
ネットで言われていることが、
多少自分の感覚と違うな・・・と、思うようになりました。

というか、以前書いたように、
幸か不幸か、人が何か創作で物事を言ったり書いたりしていると
わかってしまう・・・というか・・・。
これはわからないほうがホントいいのだ・・・そう思います。
(ときおり、怒りも湧くときがあるほどで。もちろん抑えます)

なので、ネットの世界の、
特にチャネリング系の不思議話を見るのは極力避けていたものです。
何か、妙に心が痛み、辛くなったりして。

まあ・・・自分の感じていることが絶対だ・・・とは口が裂けても言えませんが
それでも、けっこう宇宙の理に近いものを感じとっている感覚、
言われなき確信のようなものがあったりします。


で、今・・・はるか遠い星はさておき。

まず、あの「赤い星」。けっこう身近な感がある「火星」

自分はあそこに、何かが本当に実在する痕跡を感じることがたびたびありました。
(その感覚は説明しがたいのですが)・・・・それも、もうずっと昔からです

たぶん、かつて人間に近い存在がいたからこそ、
それを感じるのだと思います。

mars20crownedface1 火星の顔


そして、強く感じるのは、やはり地下です。
漠然とそんなことを感じていた、ひと昔前。

偶然にも、火星にタイムトンネルを使って人を送り込んだ話が、世間に流れてきました。
そう、あの、「モントークプロジェクト」です。

このとき時空を湾曲させる力を生み出すために地下埋蔵型の巨大アンテナが使われ
その名称が「オリオン・デルタ・T・アンテナ」でした。

しかも、その「オリオン」という名称部分は、その知識を与えた地球外生命体の名称をとったという、そんな逸話があります。

オリオンといえば、あのギザのピラミッドです。
「オリオン・ミステリー」で、
オリオン星座の形の配列とピラミッドの配置との関係が有名になりましたね。

またエジプトの首都カイロが、アラビア語でいうと「エル・カヒラ/勝利の都/火星の意」にあたるというのは、あまりに有名です。

そして、ギザのピラミッドといえば、そう・・・火星のピラミッドに繋がります。

そんな背景があったとはいえ・・・


当初、どうせ三文話だし。ガセだな。そう思っていたのです。

ところがどっこい
すべてではありませんが、その記述を読んだとき、
自分が感じていたこととあまりに符号することがあって、ビックリしました。
そして、情報のなかに、いくつか的を射ていることがあるな・・・
そう思ったわけです。

そのひとつ・・・。

かつて、地球と火星を含む、ほぼ太陽系全体に、
「エネルギー防御シールド」が張られており、
それが、火星でシステム解除されたとき、
様々な他の星との意識コミュニケーションが頻繁になされるようになった。

・・・自分も、
(形状は少し違いますが)そのようなことを、漠然とですが感じていたのです!
(これが消えたことはリスクの点で言うと、実は神のみぞ知る・・・です)

つまり、ある時点まで
地球以外からのエネルギー体が入り込めないようなシステムが
機能していたということ。

ここの部分を、本当だろう・・・と、心で感じました。

良かれ悪かれ、それが解除されたことによって
地球外の意識の侵入がこうして顕著になっていたのだと・・・。

そして今、
地球ではそのシールドが止まっている状態で、
実に色々な外部意識の渦にさらされている・・
と言っても過言ではありません。

なので、それを本気で感じているからこそ
これまで、エネルギー体の選別に注意してほしい・・・と、
ことさら強調してきたわけです。

良さそうに思えて、ためにならないエネルギーが確かにある・・・
そう感じるからです。
その複雑さは、一言で言い尽くせない・・・。


地球を愛し守護している存在たちが、色々いるのも感じています。

彼らは、(うまく言えませんが)機械文明の発展延長上にないので、
機械文明発展そのものには、あまり興味を示しません。
むしろ、人が純エネルギー体として進化するのを好むようです。

つまり、自分たちと同じように人類を、
光の身体へと発展させようとする意図が感じられます。

一方、地球外の意識には、機械文明の延長上で発展した意識があり、
ときおり、先にのべた存在と、別の促しをするようです。

さらに・さらに・・・今は、詳しく言いたくないですが、
もの凄い真っ黒い意識体、
ところどころ、ラメのような超細い灰色の筋があるような
(と表現するしかない)ものも感じます。
これには悪意というよりは、深淵を感じます。
それは、人間の想念が創りだしたようなものではありません。
(なぜそんなものが生み出されたのか教えてほしいくらいです)

地球外生命体といっても、千差万別、万能ではありません。
おそらく、これらを識別できない存在もいるはずです。
そして個人的には、
本当は大好きですが、地球外生命体という存在から聞いたという情報を、
ある時から極力避けるようになりました。

自分・・・それらの話を好んでいる人のエネルギー体が、
宙に浮いているというか、
肉体からモワッと乖離(かいり)しているような、
そんな感覚を覚えることがあるからです。

なにか、話が脱線してしまいました。

要するに自分
あの「赤い星」にかかわる、とあるシステムが
解除され続けているということの意味に
すごく興味があるわけで・・・。

古代の文明とのかかわりまで伝えだしたら
いくら時間があっても足りないくらい話してしまうだろうと思います。


で・・・引き返し。


少々、どうでもいい話でしたが
自分には、そんな興味の範囲が色々ある・・・といった感じです。



(さらにつぶやく: いや・・・それよりか・・・なんか、おなかが空いてて。いや違った、それはどうでもよかった。
・・・あのぉ・・、たとえばですが、人が言い争うと、たとえ画面からでも、感じられる人は凄い勢いで色んなものが出ているのがわかると思うのです・・・わからずに見続けると、たぶん余波を受けるかと・・・。そうならないよう切に祈ります。
そして多くの人の心に平和がありますように!)



星のことを考えると、心がキュンとなって
つい、これを想いだして聞きたくなる・・・。内容は、恋の歌ですけどね。


http://www.youtube.com/watch?v=qdX6XrDOOrM




「沈黙の世界」に・・・現代スピリチュアルを重ねてみる

Posted by 世羽 on 29.2013 語り   0 comments   0 trackback


少し、小難しい話かもしれません。
学校で、外部からの課外授業でも受けたと思ってくだされば・・・。


思い切ってマックス・ピカートの書いた古典哲学の名著
『沈黙の世界』から抜粋してみます。
言葉が妙なところがありますが、抜粋そのままで)

よほどのことがないと
現代スピリチュアルの方々は読まないと思います。
文中のところどころに
勝手な書き込みを少しつけました。
引用のあとに、またお話しします。


【古代の言葉】

黄金時代についてのいくつかの物語のなかに、
人間はあらゆる動物や、樹木や、花や草の言葉を理解したと語られている。


(今・・それが再び来た感じです)

それは、沈黙の充溢から生まれ出たばかりの最初の言葉のなかには、
まだ一切を包んでみずからあたりに充満する力が存在していたことへの
追憶のようなのである。

(生まれたての言葉には、源の力が強く残り、それを理解することができた。
日本人的には言霊の力、その意味を理解した・・・みたいな)

昔の言葉のなかには、内気さと力強さとが入り混じっている。

内気・・・それは、
言葉が、やっと沈黙から歩み出たばかりであったからだ。
そして力強さ・・・
それは、言葉がふたたび拭い去られて消失してしまわないためには、
自己を堅固に保たねばならなかったからである。

(絶対的な至高の沈黙から言葉が出てきた様子が見てとれます)

(古代において)まるで巨大な壁の一部のように、
言葉はほとんど変化することなく立っている。

あたかも、言葉は
沈黙から送り出されたように、
ふたたび沈黙のなかへ呼び返されることができるのを待ち受けているかのようなのだ。

言葉は沈黙によって監督されていることを感じ、
つねに沈黙のほうをふりかえっているかのようなのである。
実際、沈黙からは別種の言葉、
いわば一種の訂正が生じ得ることも、常に可能だったのである。

(沈黙を至高の存在、言葉を魂と考えてみても通じます)


昔の言葉は静的であった。
言葉は打ち込まれた杭のようであった。
おのおのの杭は、
まるで独立して立っている。
一つの言葉から他の言葉へ通ずる道は、ほとんど皆無である。
このように言葉の建築術は垂直的なのだ。
文章のなかで、言葉は一語一語が垂直に、柱のように立てられている。

ところが現代の言葉においては、
揺るぎなく存在しているもの、静的なものに対して、もはや価値が認められない。

文章は動的になってしまった。
そして一つの言葉は急速に他の言葉へと移行し、
急速に一つの文章は他の文章へと動いてゆく。

(確かに言い得ています)

言葉の建築術が変化したのである。
文章はかくして液体のような流動的なものになる。

文章は激しく前へ前へと突き進む。

事実、現代の言葉は棘々しく攻撃的である。
たいていの場合、より多くの攻撃性がその言葉のなかに、
すでにその言葉のかたちのなかにある。

言葉は不眠におちいり休む暇がない。

一つの言葉は沈黙よりもむしろ、それに先立つ他の言葉から生じ、
沈黙へ赴くよりも、
むしろ次の言葉へと急ぐのである。


マックス・ピカート(Max Picard, 1888年6月15日 - 1963年10月3日)
ドイツのショップフハイムで生まれスイスのルガーノに没す。医師、哲学者



よく読むと、言葉を「人」や「魂」に置き換えて読めたりします。
何となくおわかりになりますか?

哲学者の視点からすると、論外かと思いますが
置き換えて読み込んでみると面白い。
「なるほど」と感じる方もおられるかもしれません。

時代は変化しますから、言葉の変化は止められないでしょう。
時代の流れというものです。

ただ、変化するものは変化できるものであって
進化しつつも、依然として変わらない本質もあります。

重きを置く言葉、非常に重大な何かを伝える言葉が上智から降るとき
「沈黙の世界/至高の世界」から降す存在は、言葉を慎重に選びます。

軽々には伝えません。
あまりに饒舌に話すこともないでしょう。

遊びではないからです。

受ける器も選びます。
たとえ無学であっても
その心や魂の状態、そして人柄などが、受ける器の対象となります。

本当の意味で、これら器になる人というのは
いつの世でも、そう多くはありません。
(人を神聖に導くと言う意味で、厳密にシャーマンのようなものとは異なる)

自らの内に声を聞いて問答するのと
はっきり「感覚でわかる」ほどの言葉を聞き、
人を導くために使うのは
似ているようで
異なる・・・。

実際には
自我の混じった声を、何かの存在と捉えて
聞いている方が多いかもしれません。

どんな役割を選んでも自由です。
それが誰かを助けることになるなら
とても嬉しいことです。

でも、そうするとき
知らず知らずに忍び寄る
名誉欲や羨望を集めたいという感情だけには
どうぞとらわれませんように。
創作した言葉、内容だけは伝えませんように。

そんなことを、誰に言うともなく、願ったりしています。


(・・・脈絡なく、何度読んでも訳のわからん歌詞の、こんなのを貼り付けたくなり・・。
  でも旋律が好きなわけで・・)

http://www.youtube.com/watch?v=thXKwGEXyQo




「究極の愛」の美しさ・・・それはシンプルです

Posted by 世羽 on 28.2013 語り   0 comments   0 trackback


愛・・素敵な言葉です。

偶然にも、日本語では「あ」と「い」、アイウエオ順の先頭2語ですね。

この言葉から、どんなことを感じるでしょう。
でも、言葉でどういうものかは、ハッキリ示せませんね。

何とか形で示すなら

親の愛
子としての愛
恋人どうしの愛
結婚してから育む愛
友情や隣人としての愛
無条件の愛
・・などなど・・

愛のエネルギーは様々な局面での
姿を見せてくれます。

愛は、宇宙の最高位のエネルギーを派出するもの。

それに「触れた」と感じるとき
人の心は素直に喜ぶことができます。

愛を与え、返す、そのやりとりは「何て素敵なんだ」
ごく自然に、そう感じます。

それは、どんな言葉の説明よりも
感情が、心が直に感じるでしょう。

ときとして、与えることに疲れ
返してもらえないことに不満を覚え
愛が何だかわからなくなったりします。
それでも、
愛そのものが消えてなくなるわけではありません。

とはいえ
人は、自らの外側での愛のキャッチボールのみを楽しみたがる生命体です。
それに生き甲斐を感じたりもします。

特に若いときは、そうでしょう。

そして、歳を重ねると
愛が「情」のみに変化してしまうことがあります。
そして、それを面白くなく感じたりしてしまいます。

それでも愛がなくなったわけではありません。


今でいう、特別な魂どうしの愛のやりとり、融合
これも、実のところ愛のキャッチボ-ルの範疇ですね。

では、究極の愛・・・とは何なのでしょう。

無条件の愛のさらに上をいくもの・・・

想像できますか?

愛とは人が名付けたもの、
愛・・・この表現は日本人の表現した形。

それは、この全宇宙を創っている「素材」
それが「究極の愛」です。

つまり、すでにあなたも、その他すべての人も、
もちろん宇宙に属する生命体すべてが
皆「愛」そのままです。

愛そのものが、愛のやりとりをする・・・。
本当はそれさえも必要ないほど
「愛」はそのままで、すべてに行き渡り存在しています。

気づく・気づかない・・・とか、そう言う問題ではなく
自然に・・・そう・・・あるがままです。

それをちょっとねじ曲げて、人間的に表現してしまっているだけで。


試しに
目を閉じて、何気に辺りを感じてみてください。

それから感じたものすべてに
「まぶゆい光」があふれているところを・・・。

すべてが今、その光に溶け込んでいくのを想像してみてください。
物理的な物の姿が消え、自分の想像できる・意識できる神々しい光のみが映るのを想像してみてください。

(とても簡単ですが、これだけです。最初のうちは、何らかの光源を前にして目つぶると
光が透けて、イメージしやすいです。イメージできなくても心配いりません。意識するだけでもいいのです)


想像できること、意識できることは現実の一部です。


今、想像したこと・意識したことが、「究極の愛」の美しさ・・・その一端を
現しています。
真実は・・実のところとてもシンプルです。


どんな嫌な人でも、
どんな悪人でも
本当は同じものからできている・・・。
(真性の暗闇については、またいつか・・・)

ほんの少しずつでも
この「究極の愛」の美しさを、感覚で捉えられるようになると
心が変化していきます。

そのうちに、初めて
無条件の愛の何たるかを、
理屈ではなく、心で理解するところへ
進んで行きます。

ある日、「究極の愛」に基づく「無条件の愛」で生きている自分に気づくかもしれません。


愛というものに人間的な困難さを覚え
愛が何かさえわからなくなるようなとき

ほんの一瞬でいいのです。
自らの心に主権を戻し
目を閉じ
先ほどの「簡単な方法」を繰り返してみてください。


何度かうまくいく経験を重ねると
ここで記した意味を、段々わかってもらえると思います。

世界を、本当の意味で輝かせるのは
また、日常の
さまざまな愛を「美しい」ままに保つのは
こうした、すごく小さな練習から生まれます。

それにお金はかかりません。

もしよかったら、試してみてください。


人生を最高に活かしたいときに頼りになるもの・・・

Posted by 世羽 on 26.2013 語り   0 comments   0 trackback


恐らく・・ですが

チャネリングや様々な占い、
神示などの「指針」を参考にしたいと思うとき・・・というのは
多くの場合、
人生の折々に、手っ取り早く、何かの問題の答えを聞いてみたい・・・
そんなときではないでしょうか。
(もちろん単なる遊びもありますね・・・)

そして、その願いに能力をもった他者が応えたり、
ときに占いが活躍するでしょう。

ある段階までは、それはそれで
必要なことがあります。

そして、その段階を経ると
人は、自らの問いかけに、自力で答えを得る「勇気」に誘われます。

自分を信じる「勇気」を持つ・・・ということ。


占いをしたとき、
自分の気に入る答えが出るまでやり続けた・・・
そんな経験はありますか?

能力者に何かを尋ね、納得できず
別の能力者を訪ねたり、ワークショップを渡り歩いたり
そんな経験はありますか?
(ここでは癒しの場合を除く、人生の問題についてお話しています)

このとき人は、
すでに
自分で一つの欲しい答えを見つけています。
その後押し、「そのとおり」といった・・・そんな保証を求めています。

心で抱く答えが「正解」かどうか・・・自信がない状態です。

自分以外の何かに促されたほうが、自分に責任がありません。

仮に自分だけで重要な何かをしようとした場合、
見つけた答えが、
見た目に「失敗と思える」事態になる可能性もあります。

ですがそれは、失敗ではなく、
チャレンジという行為によって培われる
次のステップへの道標になることを
多くの人はあまり気にとめていません。


「すべては完璧」・・・
この言葉を、色んな書物で、講演で、ネット上で
何度も聞いたり、目にしたりしてきましたね。
(スピリチュアルに目を向ける方であれば、異論はないかと)

至高の存在は
人それぞれに、物理的な次元上で
「完璧な計画の詳細」を施しています。

けれど、
人は直線状の時間の上に身をおいているために
全貌が、よくわかりません。

その完璧な計画を信じること・・・。
これには「勇気」がいります。

自らのいる場所で、自らを心から信じること・・・。

すなわちそれは、その「完璧な計画」を受け入れられる・・・
ということ。

これができれば
そこには「恐れ」の入る余地が消えていきます。

ただ、
こうして言うのは簡単ですが
実行し、体験するにはシンドイ時が多々あるでしょう。

人によっては、自信が傲慢に変わり
独善的な様相を呈してしまうトラップに陥ったりします。
よって、自分を信じるについては、
謙遜であることも必要になります。

信じるという行為は、ただそれだけのことなのに
意外に難しかったりするのです。


だからこそ、
人は、それを日々、少しずつ
たくさんの現実で練習しています。

ときに、肯定的な言葉で、ときに周囲の愛で、ときに有益な知識で
そして、自分を守護する高次の光の存在の助けを借りて・・。

人が、こうして練習し始め、
自らを信じ、
その心の声を信頼する人の数が増えればふえるほど
今のような、誰かの「言葉」「導き」諸々が必要なくなっていきます。
そのとき、職業としてのスピリチュアルなものも存在できなくなります。

残るのは、愛に満たされた宇宙の理・・・
人が神と呼ぶ至高の存在への確固たるつながりです。

といっても、それには、まだ・まだ時間がかかります。

それでも
気づいた人は
先頭を歩いて行きます。
そして、続く人たちのために道を開いていきます。

人生を最高に活かしたいときに一番頼りになるのは
とどのつまり、
至高の存在に身を委ね、その導きが「絶対にあるのだ」という深い確信
そして、
その途上にいる自分自身のすべてを「善し」とできる
深い自信
です。

それを持ったとき

何か困難の原因を他人のせいにすることなく
あるがままを静かな心で受け止め
その先に必ず待つ「希望」へと、
恐れることなく進めるようになります。

その心持ちは、
たとえ、心が痛んだり、苦しいときでも
一方で
自らの人生を「最高に活かせている」という実感を生みます。

この時代は、
すべての人を、そうなる道へ招き始めた時代・・・
とも言えましょう。


日々
自分という存在への自信を深め、
現状にとどまることなく
さらなる飛躍へと臨めますように。

そして、願わくは
その体験練習の時々に、
いつも暖かい微笑みが、ともにありますように。


勇気の花
http://www.youtube.com/watch?v=y8tOkv3wQY8




HEROの歌詞に見える「強さ」をもう一度

Posted by 世羽 on 25.2013 つぶやき   0 comments   0 trackback


とあることがあり・・。

ある人が、自分を見つめようと必死で戦っている姿を目にしています。
自分を鼓舞し、進むべき新しい道を見出そうとしているようです。

そして、ふと・・・この歌が想い浮かびました。

(和訳は訳す人によって、微妙に違います。
大筋がつかめればと、ネットで拾ってみました・・・できれば直に原文をどうぞ)

There's a hero
そこにヒーローがいるわ
If you look inside your heart
自分の心の中を覗いてみて
You don't have to be afraid
恐れる必要などない
Of what you are
自分が何者であるかなんて
There's an answer
そこに答えがあるわ
If you reach into your soul
自分の魂に聞いてみて
And the sorrow that you know
そうすれば感じていた悲しみは
Will melt away
消え去っていくでしょう

[Chorus:]
And then a hero comes along
そうすればヒーローがやって来るわ
With the strength to carry on
頑張り続けていく強さを持って
And you cast your fears aside
あなたは心に秘めていた恐怖を振り払い
And you know you can survive
自分が苦難を乗り越えられる力を持っていることを知っているから
So when you feel like hope is gone
だから希望がなくなったと感じた時でも
Look inside you and be strong
自分自身をみつめ強く生きて
And you'll finally see the truth
そうすれば最後には真実が見えてくるでしょう
That a hero lies in you
それがあなたの中にいるヒーローなの

It's a long road
それは長い道のりであるわ
When you face the world alone
一人っきりで世界に立ち向かうとき
No one reaches out a hand
誰も救いの手を差し伸べてはくれない
For you to hold
あなたを抱きしめる為の
You can find love
でもあなたには愛を見つけることができるわ
If you search within yourself
自分の心の中を探してみれば
And the emptiness you felt
そうすれば感じていた虚しさは
Will disappear
消え去っていくでしょう

[Chorus]

Lord knows
神は知っているわ
Dreams are hard to follow
夢を追いかける難しさを
But don't let anyone
でも誰にも
Tear them away
あなたの夢を壊させないで
Hold on
頑張って耐えて
There will be tomorrow
明日は必ずやってくるから
In time
時がくれば
You'll find the way
自分の道を見つけられるから

[Chorus]




改めて聴くと、何気に凄いことを言っています。

当時、この歌詞の意味を、それほど深く受け止めた人は
まだ、そう多くはなかったのではないでしょうか。

でも、今なら・・・。

特に心を、魂を上に向けようとしている方々なら
この歌詞から、
当時以上に、それぞれの想いを抱くことができるのではないかと。

素敵な歌は、その旋律とあいまって
人の心と魂にダイレクトに伝わりますし・・・。

いつの日か、その、とある人の心と魂に
こんな歌が、もう一度、強さをもって響く時がきますように。


http://www.youtube.com/watch?v=MqTtAuPpxpQ




おまけ:自分・・同曲でIl Divo Heroe が好きなんですが、すぐに消されてしまう・・・。
今なら・・・見れるので。
http://www.youtube.com/watch?v=vf7AdixVYEg




SRV(科学的リモート・ビューイング)ターゲット・・・イエス

Posted by 世羽 on 24.2013 科学とスピリチュアル   0 comments   0 trackback

地球と光l



1974年10月。『ネイチャー』にRV(リモート・ビューイング:遠隔透視)の研究報告がされたことは知る人ぞ知る・・・でしょう。
すでにこのあたりから、RV能力が科学的に「ある」と、実証されたことになります。

米ソ間での軍事的な軋轢から超能力研究が進んでいたころ、
米国では「スターゲート」作戦が実行されました。
日本ではジョセフ(ジョー)・マクモニーグル氏などが有名ですね。

今も、密かに様々な研究がされているようです。
その途上、少し昔のことですが、
自らもRVの訓練をして能力を開発したコートニー・ブラウン博士のSRV(科学的リモート・ビューイング)なる研究があります。

彼は、軍事施設をビューイングする軍事的な側面よりも、
彼が知りたいと思う「神や地球外生命体」について、セッションを組んだことで知られています。

1994年6月2日
ジョージア州アトランタ/タイプ4,遠隔モニター/ターゲット番号:8863、8473

(その一部。コートニー自身が行う。モニターが誘導するなか、彼はそれに出逢います)


「了解・・。待って。
人間は生活の基本に向かう必要がある。
急速な科学技術による修正は不可能だという明確な認識を感じとっている。
待って、何かが起こっている。
この全体のセッションの情報が、ある存在からやってきていることを、今、知覚している。
私はその存在のほうに向かっている。
う~ん。これは光の存在のようだ。
彼はどこか半透明だ。ガウンを着ていて、神の毛は光でできているようだ。
私は霊的存在の雰囲気を感じ取っている。
この男はイエスであるという感覚を得ている。
私はそれを〈分析的判断〉として書き留める。
私はまた、この人物から自分に向けて投影される多大な愛を感じとっている。
その状況は切迫していて、物質的な解決策ではその問題を改善できないと言っているようだ。
その思想は、肉体的なワナから人間を抜け出させて、人類を救うことである」

1994年6月14日
ジョージア州アトランタ/タイプ1(単独で行うこと)


(同じく一部)

「生態系の概念に意識を向けると、イエスは、神はすべての生命を創造・再創造することが可能であると語った。
生命の目的は進化を生み出すことである。

このあと、私は銀河系連邦の概念に意識を向けた。
連邦にかかわる生き物たちは人間よりも高い進化レベルにあるとイエスはほのめかした。

彼らもまた自分たち自身の進化を促すために働いているが、彼らの行動が人間の行動よりもいちだんと重要であるとか、また劣っていたりするということはない。
さらに彼らは特に彼(イエスのことですね)のために働くことはない、と彼は強調して語った。
彼らは自分たち自身の成長のために働く。
しかし、彼らは自分たちの進歩が、人間よりも明確に、神の心にかなうものとして見なしている」


こうした体験のなか、博士は言います。

「私の考えでは、神は数々の側面をもっており、我々はそれぞれのやり方でその時々に、部分のみを知ることができる。

神の各側面を理解する能力は、
『神の意識』と呼ばれるものに対する我々自身の進化レベルによる。

・・・生命体は自己認識の最初のレベルに到達するや、自分たちの源泉と再統合することを熱望し始める。

不思議なことに生命体は、自分たちが文字どおり源泉という実態(神)によってできていることに気づいていない。
そのため、あまり進化していない生き物には、自分自身を恐れるのと同じように神を恐れることが不可能であることが理解できないようだ」
(つまり・・・神は恐れるものではない・・と言っているんですね)


「知覚力をもつ生命体の進化は、『生命体自身の本質』と『神という源泉』との関係を自らが発見する能力によって、事実上、限定づけられている。

ひとたびこの限定にぶつかると、存在の主要なテーマは『愛』であることがわかる。
人は自分自身と他のすべての者を愛することができる。
というのも、万物は同じ素材から創造されているのを理解するからである。

愛は神のテーマであり、宇宙をつなぐ糊である。
しかし、高度に進化した生き物だけが、この現実を十分に認識する」



さて・・・。

人類に接触している、とある地球外生命体は、感情と愛を取り戻すことを一生懸命していますね。
それは、彼らも根源となるものへの一体感を取り戻したい、進化の道を閉ざしたくないと願っているからだとか。

人はそれぞれ、やり方は異なっても、「至高の存在/神」を愛する道をいく・・・これがさらなる進化の鍵かもしれません。

人は愛する人を見つけると心が躍り、
その人と一緒にいるとき、
顔は輝き喜びにあふれるでしょう。
それは愛する人の内に神を感じるからだと・・・よく言われます。

だとすると、
至高の存在・神を愛するとは・・・それと同じようなことですね?


宇宙のイエス EFBD82EFBD880-dc8f3


光の体験の次に通過する「試練」

Posted by 世羽 on 23.2013 語り   0 comments   0 trackback

月の光 images



現代は「総人類のシャーマン化」の途上である・・・と、
すでに20年以上も前に言われていました。

そして
「人類すべてを高次の意識へ進化させる力」が働いている・・・とも。

今、それを実体験されている方がたくさんおられるわけですね。

個々の人によって多少差があるものの
確かに、
誰ひとり例外なく
人は「意識の急速な変化」の途上にあります。

いわゆる自称ライトワーカーであろうが
まったくそんな事を知らなかろうが
実のところ、誰ひとり例外はないのです。

人は、この途上で
多くの光に満ちた喜ばしい体験を重ね
自分の体験している物理的次元よりも
「高次の存在や世界」があることを素直に受け入れる心・・・
それを開き始めるわけです。

そして
対象は各々異なっても
それぞれがしっくりいく「至高の/光の/神」のような存在を
心に抱くようになります。

人はそれぞれに見合ったペースで
精神性・意識の向上を
知らず知らずのうちに成し遂げていくでしょう。

そして特に
少し先を歩いている方々・・・は
現在、「光を帯びる体験」をしているわけで
多くの有料の講話や書物などでは、そこまでが語られます。

ただ、その先頭を歩いている方々が
さらに前に進むと
一時、人によってはかなり長い期間
頼りにしていた光を隠される時を迎えるでしょう。

これが、
精神性がさらに花開くために迎える
「試練」の時です。

ここに至った魂は
しばらく、神の不在・・・とも言える体験をします。

今、世に出ている一般書では
そのときの状況が語られていません。

なので
どうして・・・こんな苦しくなってしまったのだろう・・・
そう想って
自分を責めてしまうような状況が出てくるかもしれません。

けれどもそれは
人がさらに高みに登る前の
通過儀礼のようなものです。

そのとき決して
自らの心に宿る神性の炎・輝きを
疑わないでください。
信じてください。

昨日まで喜びに満ちていた日が
突然、
激しい嵐やまったくの暗闇のように感じる状況に変わったとしても
それは、その人が更なる高みへと導かれている証だと
信じていてください。
心強く前に進んでください。

これは「暗夜」と呼ばれる状態であり
精神性が高くなればなるほど
それを知らされることになるのです。

「そんなの・・・まっぴらごめん」

と、言いたいでしょうが
そこを通過してはじめて
更なる段階に上れるのです。

無限の愛を体験するのは意外に簡単かもしれません。
でも、それは恐らく、今はまだほんの一瞬でしょう。

これを永続して身に帯びるように招かれた人は
上記した試練をくぐり抜けることになります。

それは、
現在ネットで多く見られる
楽しいだけの、わくわくモードだけでは
切り抜けられないでしょう。

今お話しているのはおもに
もっとも先を歩いている方々へ・・・ですが

時を経て
人類が総体でそうなる可能性もあります。

だとしても
一端灯された心の光は、決して消えることはありません。

ですから、
どうぞ、そんな暗夜にさしかかった時は
それがどれほど長くなろうと
その光がほんのり照らす旅路を
勇気をもって歩いていってください。

心に訪れる「特別な暗夜」は
決して、自らが招いたネガティブな結果から生じたものではありません。
つまり、その人が「引き寄せた」のではないのです。

そこに到達した人が
最終的に理解することのできる
高次の光からの導き、テストのようなものです。

この体験をご存じの方は
まだ、それほど多くはないかもしれませんが
ここで、ほんの少し
お伝えしておきましょう。



光射す森thumb5










「時の狭間を旅する者」・・・

Posted by 世羽 on 21.2013 不思議考   0 comments   0 trackback


まだ、あまり知られていない
人の言の葉にものぼっていないと思われる
とある存在たちの話を少し・・・。

自分がその存在たちに気づいたのは どれくらい前だったでしょうか・・・。
今のスピリチュアル・ブームが始まるずいぶん前ですから
17~18年も前になるでしょうか。
神でも天使でもなく
かといって地球外生命体でもなく、
むしろ人間・・・ヒューマノイド・・・ ですが、どこか違う?
(当時の様子を少し表現すると・・・
たぶん肌の色は、なめらかで薄い茶色です。
目が比較的大きく、黒いつぶらな瞳。体格は色々です)

そんな存在たちの集団がいることを
ちょっとした事で知りました。
(本当は詳細を記したいのですが・・・
ゆえあって、お許しを)

彼らは
次元と次元、時の隙間をぬうように
集団で旅行するかのように・・・旅し
時折、通り過ぎていく物理的な世界にふと足をとめ
そこに降り立ち、その世界の住人として生きたりします。

その際、住処となる世界を生きるにあたり
出自の記憶を持っている者と
そうでない者がいます。

記憶を持つ者は、いわゆるリーダー格で
足を止めた世界に降り立った仲間を統率します。

統率といっても、それは霊的な面での管理というか・・・
自分達がその世界を離れるときに
仲間に帰還を促す・・・そんな頭となる存在で
複数います。

彼らはかつての地球にも来たことがあります。

そして、ある期間、地球で生活をし
次の世界に向かうときのことでした。

帰還を拒んだ者達がいました。
(どのくらいの数かはわかりません)

なぜか・・・・。

それは、地球という星で過ごすうちに
この星を愛し、またそこで救いたい・助けたい
愛する大事な存在ができたからです。

残ることを決めた者たちは
仲間が帰還する・・・その事実の記憶を
朧気に心が覚えているものの
懐かしい想い出はすべて消されてしまいます。

もう、いつ、再び仲間が戻るかさえわかりません。

それでも、膨大な時間のサイクルを
霊的に、かつ無意識のうちに
「たとえようのない寂寞感をもって」過ごすことも厭わず
ただ、それぞれが、
救いたい者たちのために
愛する人間たちのために
残留することを決意しました。

その時点で、残留した彼らの
その大事な相手への想いが果たせたのかどうか
わかりません。

おそらく、彼らの願いに反して
多くの場合、無駄に終わってしまったと思います。

彼らの心は、痛みます。
「取り残された感覚」が無意識のうちにあるゆえに・・・。

そして、「何か」を待ち望みます。

もしかすると二度と会えない仲間のことを想うからかもしれません。
でなければ、実ることのなかった「愛」の行いへの気持ちかもしれません。

そして、そんな者たちの記憶が
魂のふれ合いを通して
人間の生命細胞の記憶に宿り、受け継がれます。
(魂の転生の類とは違います。うまく表現できませんで)

そしてときおり、
彼らの「魂の系譜」の末裔が、
まさに、救おうとした「魂の系譜」の末裔と出逢い
そのときの「行い」を果たそうとしたりします。

その望みがいつ成就するのか、誰もわかりません。
ただ「愛」ゆえに
仲間よりも、この星に残ることを選んだ「初代の存在」
の末裔・・・です。

自分は初代の彼らのこと、その「魂の系譜」の末裔を総称して
「時の狭間を旅する者」と呼んでいます。
(というか、促された・・・)

彼らは、いつ迎えにくるかもわからない仲間を
霊的に、また無意識のうちに待っています。

そして、胸の内で
時間という言葉に憧憬を抱き
それがなぜなのかを
何とはなしに気づいている者たちもいる・・・。

人間への切ない「愛」を宿しながらも
一抹の寂しげな瞳をした心優しい存在・・・。
(その者は、人であって、人と少し違うのです)

もしかすると
皆さんの傍に、
この「時の狭間を旅する者」が一人ぐらい
いたりするかもしれません。


http://www.youtube.com/watch?v=_kKbCy27zFQ

桜の精・・・その誇り

Posted by 世羽 on 20.2013 季節ごとに   0 comments   0 trackback

本日の内容は話し半分ぐらいで受け止めてください。

飛鳥山公園 980-asu-saku

自分、人の思考を結構拾ってしまうタイプで

若い頃から、ストレスを感じ

すごく苦労をしてました。

 

それを自力でコントロールできるようになったのは

そう遠い日のことではありません。

 

そんな中

自分がよく「癒し」を受けたものに植物の想いというか・・・

そんなものがあります。

 

植物によっても色々個性があって

頑固だったり、きついようなそんな感じのものもありますが

自分は今の季節の「桜」からかなり癒されていました。

 

 

「桜の精」・・・とでも言うのでしょうか・・・。

そんなものを感じます。

 

桜が花をつける頃

樹木の周囲に何とも言えない

朧気な光彩を感じます。

 

桜の精・・・彼ら・・・と、言ってよいかどうかわかりませんが、

その「彼ら」が、歌をうたっているような?

感じもします。

 

で、桜の木は、

自分たちが

日本でとても愛されている樹木の一つだということを

理解していると思います。

 

そして・・・それが

彼らの「誇り」でもあるようです。

 

遠い昔から、

日本の人は桜の木の下でお花見をし、

花を愛でてきました。

その事実を、桜の精は「誇り」と感じているようです。

 

 

そして彼らから、こんなことを感じていました。

 

 

少し前の人たち・・・たぶん昭和の初期ごろまでだと思います。

当時「まで」は、もっと、桜の木が尊重されていた・・・

と、桜の精は感じているようです。

 

桜は、その下に集う人々を決して厭んだりしません。

人が集まるのは喜び、誇りの「証」なのだそうです。

 

ただ彼らが伝えてくれることによると、

上記した頃までは、

今よりもっと、直に桜に話かけてくれる人が多かったそうです。

 

「今年もありがとう」

(そう言って、幹をポンポンと叩いてくれたり)

 

「今年も綺麗だねぇ・・また来年も頼むね・・・待ってるよ」

(そう言って、手を合わせる人も結構いたそうです)

 

なかには、静かに

「一人で、心の内を桜に話していた」人も多かった・・・と。

 

で、今は

桜の下で、お酒を飲み、世間のよもやま話で酔いつぶれ

そのまま帰ってしまう人々を、少々寂しく感じているようです。

 

大地を通して、

全国の桜が集合体意識の、一部どうしで話をしたりします。

 

「そっちはどうです?」

「ちょっと、物足りない」

「触ってくれる人がいない・・・」

「あ・褒めてくれた!!!」

まあ、悲喜こもごもみたいで。

 

だから、何がどう・・・ってことじゃありませんが

今年、もし桜の木の下に行くようでしたら

よろしければ心の中で、

何か話かけてみてくださいませんか?

 

すると、桜の木はもの凄く嬉しくて

花びらに宿る輝きが増すかと思います。

 

そして、もし、

その花びらが頭や肩に乗ったり

また、その花びらを手に受けてあげたなら

その輝きは、皆さんの輝きの一助として

心の奥へとしみ込んでいくように思います。

 




靖国n桜吹雪 a0099808_11435826

桜の精・・・その「誇り」は
日本の皆さんに「愛されている」ことを実感していること・・・。
日本人の心に優しさを伝える役目していること・・・。

そんなことを、 ちょっとお伝えしてみました。

http://www.youtube.com/watch?v=qC5LC51bCKo



こんな「祈りの言葉」が好きです

Posted by 世羽 on 18.2013 つぶやき   0 comments   0 trackback


今日、とある人が、自分(私のことですが・・)について
「絶対に怒りそうもない人だよねぇ・・・」と、言ってくれました。
(えっ?・・・まったく、そんなことはないですけど・・)

もし、そう見えているとしたら
というか、見てくれていたのなら・・・
毎朝、好んで口にしている、こんな言葉が効いているんでしょうかね。


*****


新しい朝を迎えさせてくださった神よ、

きょう一日私を照らし、導いてください。

いつもほがらかに、すこやかにすごせますように。

物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れず、

いつも物事の明るい面を見、

最悪のときにも、

感謝すべきものがあることを、悟らせてください。

自分のしたいことばかりでなく、

あなたの望まれることを行い、

まわりの人たちのことを考えて

生きる喜びをみいださせてください。



*****

(おまけ)

神よ

変えられないものを受け容れる

心の静けさと

変えられるものを変える勇気と

その両者を見分ける

叡智をお与えください。

        ラインホルド・ニーバー


*****

ただ今、仕事が多忙につき
ぐとぐと状態です。

同じようなご訪問者の方がいらっしゃいましたら
どうぞ、お身体お大事に・・・。

そして・・・共に、頑張りましょう!


誰かに視てもらった過去生の信憑性とは、どれくらいのものでしょう

Posted by 世羽 on 17.2013 語り   0 comments   0 trackback


初めて逢った人なのに以前逢った気がする・・・。
「どこかでお逢いしました?」
「もしかすると・・・過去生でご一緒したかもしれませんね」

精神世界に興味があれば、恐らく
こんな会話がしょっちゅう出てきますね。

かくいう自分・・・。
「遠い昔」までは、
同じように、
そんなことを当たり前に口にしていました。

かと言って、
これまで誰かに自分の過去を視てもらったことは一度もなく、
何となく「そうなのかなあ・・」と
自分自身で「感じる」ぐらいにしか扱っていません。

逆に、自分が誰かと逢ったとき、
自分の意思とは関係なく
「もしかして、この人は・・・だったのか」
と妙に納得することがあります。
でも、自分はよほどのことがない限り、
それを口にしません。

で・・・今
有料・無料を問わず、
過去生を視てもらったり、占いで探したり、と
過去生探しが、以前にも増して盛んのようです。


活用する人には色々な目的があるのでしょう。

・単なる興味から・・・。

・他の人にはない使命がある、と信じて
それを知りたくなったから・・・。

・自分の修正したい部分が
過去生を知ることによって早く直せるかもしれないから・・・。

などなど・・・・・でしょうか。


とはいえ・・・

それを知って
何がどれほど変わるのか・・・と
ちょっとばかり想ったりしています。


最近では、過去生の記憶を保持したまま生まれてくる、
次の世代が出てきている・・・とされています。
(そうした次の世代の多くは、それを知っても
特にこだわらない精神性の高さを持っています)


でも、大半の人は
まったくわからないし
知りたくなる・・・。

では、なぜ人が生まれてくるとき
まっさらで生まれてくるのでしょう。

ここに、人が思う以上に大事な意味がある・・・
そんなことを想ったことはありますか?

今、ここに生きている。
この人生を生きている。
それはなぜなのか。

これを、改めて心に聞いてみることは
もの凄く価値があります。

それは・・・。
過去を「忘れるため」ではありませんか?
そして、忘れたうえで
出逢った人々と切磋琢磨し、
やり残した各々の課題を克服していくのでは?


皆さんは、この、今の人生で起きたことを捉えて

「過去は忘れることだ」
「人生は今を生きることだ。過去は手放せ」

というスピリチュアルな言葉や導きを、
どこかしらで得ていますね。


であれば、
時間の直線上で起きている過去生についても、
本質的には同じことではありませんか?


想い出す必要のないことを
わざわざ掘り返し、
それが幸せに繋がるならまだ救われますが
人間関係を壊したり、誰かを嫌になったりしたら
元も故もありません。

けれど、皆さんのなかには
実際に
そうしたことを体験した人もいるのではないでしょうか。


必要な記憶であれば、時を超えて
ふとしたときに、漠然としてはいるものの
心に湧いてきます。

誰かに視てもらった過去生・・・には
どうしても、
細胞に宿る記憶が運ぶ、別の記憶が混入することがあります。
また、視る側の勝手に解釈した内容が混入することもあります。


それをもって
これが「あなたの過去生です」・・・と断定することには
多大な「責任」が生じる・・・。

面白おかしくネタですませる程度の段階であれば
あまり気にしません。


ただ、(真摯にそれをなしておられる方は別としても)
安易に人を視て
しかも、それが一生の分かれ道をはらむ診断となるようであれば
それを告げた人には
「大きな責任が伴う」
・・・と、
申し上げておきましょう。


過去生・・・それがもつ響きには
確かにロマンがあります。

憧憬の念を抱いたとしても
何ら不思議ではありません。

そのとき、できれば
ちょとだけ想い出してほしいのです。

もし、知りたいと想ったとしても
あなたの過去生は
「あなた自身が」視て、または感じて
朧気ながらでも想像して
それを、できれば
自分のものとしてほしいのです。


他者に視てもらった過去生が真実とは限りません。


それをよく、念頭に置いたうえで
信憑性を問う「勇気」を
どうぞ忘れませんように・・・。



守護の天使だって、かなり凄いのに!

Posted by 世羽 on 16.2013 つぶやき   0 comments   0 trackback


ネットをめぐれば天使に当たる・・・

そんな時節ですね。

そこらじゅうで大天使の名前を目にします・・・。


自分、天使という存在を尊敬し、
心から敬意を払っています。

宗教など、あらゆる人間的な枠組みを超えて
天使という「生命体」がいる・・・と感じています。

色んなことを頼んだり・・・もします。

名だたる大天使はもちろん
とりわけ大事にしている存在・・・

自分の「守護の天使」にです。

細々したことは
「守護の天使」にお願いすることしばしばでして。


人には皆、それぞれに何かしらの守護者がいると言われますが
自分は
それを「守護の天使」と位置づけているのかもしれません。


とりわけ
この「守護の天使」に助けを請うようになったのは

聖痕を受け、
様々な特殊能力(霊視・先視・予言・バイロケーション・エクソシスト
他)を用いて、多くの人に救いの手をさしのべたことで有名な
「聖ピオ神父」・・・
彼が、ことのほか
自らの「守護の天使」との関わり合いを大事にし
色々な場面で、援助を受けていたのを知ってからです。


そして、特に好きな方法があります。
(まあ、その聖ピオ神父のマネをしているわけですが・・・)


何か特別なことを伝えたいけれど、
相手に会えない、思いや考えが伝えられない状況にあるような場合
自分の「守護の天使」に

すみません!・・・これこれこうなんですが
一応あちらに伝えてください・・・。

こんな感じです。

かつて、ピオ神父は、
世界中に自らの「守護の天使」を派遣し、
助けを求めている人に力を貸した・・・と記録が残されています。

そして、ピオ神父は助けを求める人々に、

「あなた達の守護の天使を、私に送るように」

・・・生前、よく言っていました。

実際に、家庭問題や困難のためにふさぎ込んでいる人が、
自分の守護の天使に問題を託してピオ神父へ送ると、
短時間のうちに郵便受けに返事が入っている・・
なんてことが多々ありました。

ときには、ほぼ同時・・・
つまり、事前に内容が知られていることさえあった事実が
いくつも報告されています。

これについてピオ神父は

「天使が飛行機のようにゆっくり行くと、
あなた方は思っているのですか?」


と言っていました。


これと同じことを、自分の「守護の天使」だってできるに違いない・・・
そう確信してからというもの、
常々、このやり方を踏襲しています。


結果は・・・


完全に助けてもらう場合と、
完全に保留される場合があります



それには意味がある・・・
自分はいくつも経験し
段々と、心で感じるようになりました。


守護の天使は、
この自分以上に、自分のことを知っているんだ・・・
そう感じています。

天使は笑い、泣き、歌ったりもするようです。

妙な話ですが、
泣けるほどの困難に遭って心砕けんばかりのときに
微笑んだりして・・・。
このスットコドッコイ!!!・・・と、
怒鳴ったりしたこともあるのですが
守護の天使に言わせてみれば、
人間の涙は決して「無用」のものではないようです。

ときおり流すかもしれない涙を、人は無用ととらえ
「元気になるように、事態を正すために何かをするように」と
無理をしたりします。

でも、天使からすると
たくさん泣いた人の涙は、
天使が金杯に集め、神という存在に運んでいく、
それは美しいものらしいです。

そして、守護の天使は、自らが護る人間の心が
汚れなく輝くとき
それは・それは喜ぶようでして・・・。


・・・そんなこともあって・・・


気が向いたら
生まれた瞬間から「あなただけを」守護してくれている、
天使・・・
つまり「あなただけの」生涯の同伴者に、
改めて想いを馳せてみるのもいいかな・・と。

姿が視えなくても、声が聞こえなくても
きっと、その存在は、凄く喜ぶと思います。

彼らの力は、たぶん大天使に優るとも劣らない・・・・。

そんな心強い味方に、色々なことの解決の仲介を頼むのも
「おつ」で、楽しいかも・・・です。



スピリチュアルな「恋と結婚」

Posted by 世羽 on 14.2013 語り   0 comments   0 trackback


春になると、草木が芽生え、多くの動物達が恋の季節を迎えたりします。
そんなことを思っていたら、ふと・・・・こんな内容が書きたくなりました。

*********

恋人がいる人・いない人
結婚している人・いない人
お子さんがいる人・いない人

それらが順調にいっている人・いない人


きっと、皆さんもどれかに当てはまることでしょう。


一般論はさておき
いわゆるスピリチュアルを好む方々は
今流行の「特別な魂の絆」を持つ相手を探そうとしますね。

ソウルメイト、ツインソウル・・・。

確かに、そうした存在はあるでしょう。

それが、「真の絆」を持った相手として、現実世界で出逢えたなら
祝福される出来事です。


で、ちょっと眺めまわしてみたのです。

すると、色々なケースを目にすることができました。


両者が独身の場合、
このような方々は
今後の展開のなかで「感じた結びつき」が本当かどうかを
追求できます・・・。
これなら、じっくり、それが本当なのか
確かめる心の余裕もありますし、
両者の「輝く旅」が始まるかもしれません。
すでに、そうして結婚されたかもしれません。

一方・・・なかには、

相手を特別な絆と確信した・・・と思ったものの
「片方が既に結婚」していたり、
「両者が共に既に結婚」していたり、
「子供もいたり」・・・。

そのため、「道ならぬ旅路」を始めてしまった方々もいるようでした。


さらに・・・

ネット上では、
自ら「わたしはあなたのツインソウルです」と誰かに名乗ることもあったり
ときには、まったく第三者である能力者が
無責任にも、そうしたことを進言するケースもあったり。
そして、それらをすぐに信じてしまう方々がおられる・・・。


いやはや何とも・・・。


さて・・・。


特に「道ならぬ旅路」にある場合
自分は
それらは「ただの恋」・・・と感じます。
辛辣に言えば、不義と同義・・・
恐らくは、人間の傲慢さから出た
都合のいい解釈ではないかと・・・。
(真剣に考えている方もおられるでしょうが、あえてそう申します)

というのも、

人を導く「至高の存在・神なるもの」は、
そんな非効率なことはしない・・・と感じるからです。


この見解について証明することはできません。


ですが・・・


真性のツインソウルに巡りあうには
それまでに、両者の魂は相当に浄化されているでしょう。
その時、各々の魂は
自分の置かれた状況を的確に判断し
人の道にはずれた道を選ぶことはないだろう・・・そう感じます。

そして恐らくですが・・・
もし、
不透明な旅路の場合だとしても

本当に両者が「真性の絆」をもっており、
今生で出逢う約束をしたなら
今すぐどうにもならなくて、一端は別離を迎えても
どれほど時を経ても、
それぞれが「誰も傷つけることのない」環境下で
いつかふたたび「必ず巡り逢える」はず・・・と感じます。


お互いが家庭を持っているなら、
まずはそれを最優先してこそ
まことの愛の道ではないでしょうか?


「ただの恋」を勘違いした方たちが、
自分たちは真剣だから
この関係を貫き通す・・・と決意し
今ある家庭を壊してまで、というケースもあるでしょう。

今どきのスピリチュアルな風潮は
気が合わなければ、学びが終了したと考えて、
即・・・離婚、とかに移行してもOKのようです。

これは最新の考え方のようでいて
実のところ、
実行した側の心の奥に「闇」を抱える一因を創り出しますが・・・
そうしたことを公に発言する方がいないようです。

(もちろん、酷い・異常なDVなどが介在し、どうしようもない場合は別です!)


「恋」と「愛」は似ていますが、レベルが異なります。


人は「恋」から始め
「愛」がどのようなものかを学べる生命体です。

そしてその「愛」を育むなかで
喜び、笑い、ときに怒り、酷い喧嘩もするでしょう。
こうしてお互いを知りながら
この世での「結婚」というものがどういうものか
知っていくのです。
恋のレベルにいるだけでは、「結婚」の何たるかはつかめないでしょう。
そこでは生涯にわたり「愛」を育んでいくことが必要なのです


そのような意味からすると
「新たに出逢えた奇跡」と称して
波動が合わなくなったら、離れるのも仕方がない・・・という
今どきの輸入された精神世界の情報の一部に対して
かなり抵抗を覚えます。


自分の尊敬する「心の師」が、こう教えてくれました。


「何かをしようとするとき、
自分にされて嫌なことは、決してしないように」



この言葉はあらゆる場面で適用できますが

「道ならぬ旅路」に身をおく方々の影で
何も知らないか、
もしくは、後に知って「傷つく誰か」がいるとしたら
それは、同時に、
「傷つけた側」にもダメージが残る・・・
これを鑑みながら、深く考えてもらいたい言葉であります。


スピリチュアルな「恋と結婚」もいいでしょう。


ですが、
もしも今、すでに、大事な護るべき人、家族がいるなら、
それを大事にし、
その「責任」をもう一度考えてみませんか?

そして、「なぜ」その人たちが自分の目の前にいるのか

それこそ、「スピリチュアルな観点」で見つめ直してほしい・・・
そう願ってやみません。


こうした方々が、そして皆さんが
本当の意味で
神聖な「愛」の喜びに至りますように・・・。



「チャネリングの波動」っていろいろですね・・・

Posted by 世羽 on 13.2013 語り   0 comments   0 trackback


今という時期
色々な神様、地球外生命体、天使、アセンデッド・マスター達などをソースとし、
有名・無名を問わず多くの方が「チャネリング」をするようになりました。

なかには、そこに暖かい気持ちに溢れているのを感じ、
とても参考になるものがあります。

とはいえ、ネット上を調べると、
何かこれは・・・今や流行のアイテムと化しているのか?・・と
感じたりもします。

で・・・

今手元に、
かつて、伝統的キリスト教内で「禁書」とされ
近年、やっと明るみに出た、
とある幻視者が受け取ったイエスの生涯のビジョン/啓示がつづられた書を
ひっぱり出してみました。

その内容は
今ある福音書を補完するために「送られた」・・・とされています。
内容は、まるで物語です。
当時の美しい情景とともに、イエス自身と周囲の人たちが織りなす日々の様子
さまざまな会話が繰り広げられています。


これが、世に出されるまで、多くの神学者・各種分野の学者・知識人達が
論議や調査をしたようです。

すると・・・。

たとえば、
それまで知られていなかった、当時の街並みの記述が、考古学上で正しいことが証明されたり、当時の植物の記載が、生物学的に正しいことが証明されたり、
磔刑にされたときの筋肉の収縮の様子などは、医者たちによって
「実際に視たのでなければ表現できるものではない」とも評されたそうです。

・・・いまだ、不明な部分もありますが、
何でも死海の下には失われた都市の遺跡があるかもしれないそうです。

そしてもちろん、啓示の物語を読んだ人たちの心が、
より愛に溢れたものになる・・なども。

チャネリングしたことが「公に証明される」・・・
これはやはり凄いことでしょう。


こうした証明つきの情報を眺めると、
今の一部のチャネリング情報の在り方については
「いいのかな」・・・と、正直感じたりします。

なお、この啓示の「物語」も、いまだ議論の途上にあり、
批判し、真っ向から否定する人たちもいる・・・
という事実も付け加えておきます。


(とある知人はこれを読んで、誰にも教えたくない・・・と言いました。
 なんでも、こんな素晴らしいもの誰にも教えたくない・・・とか。
 いや、でもそれはなんか・・・違いますよね。苦笑!)

そして・・その中から、
部分的につなぎながら
ちょっとだけ書き抜いてみます・・・。

(与えられた「新たな啓示」について・・・こう伝えています)

私の言葉は、聞く人の善意か悪意かによって
全く違う結果をもたらすことを示そうとした。
使徒達とユダ、これは対立する1例である。
使徒達は粗野、無学な者であるが、善意があった。
それによって次第に愛と信仰に完成される。
反対にユダは、イエスの言葉を聞き、その奇跡を見ても、
ますます悪の淵に沈んでいく。
これは多くの人にありがちなことで、
「神の愛」と「人間の自由」の「奥義」と言ってもよい。
(略)
回心の奇跡は神からだけ来るものであるという考えは、間違っている。
神はどんな人にも「回心する手段」を与えるが、「各自の意思」を強制しない。


つまり、こういうことですね。

どのような形にせよ、神・至高の存在たるものは常に愛をもたらし、導こうとする。
けれども、それをどう受け入れるかは、人間の自由に任されている・・・。

またこんなことも・・・

霊魂の指導者たちに聖職のための光を与えることである。
そういう人たちの中に
神の代わりに、勢力、暴力、黄金、淫乱、知識の傲慢などを崇拝する者がある。


(さまざまな宗教、また巷の導き手と称する人々のなかに、
偽りをもって魂にかかわっているような人がいるとしたら
やはりそれは間違っていますよね)


さらに・・・。
こんなくだりも・・・。
(書き抜くには長いので、一部概要にして、会話のところはそのままに)

マルジアムという少年・・・。
彼と、彼のおじいさんが、当時、ドラスという主人に、
それはそれは酷い扱いを受けます。
ぶちのめされたり、食事を与えてもらえなかったり、多くの他の下僕も同様でした。

少年は幸い、イエスの一行に助けられ、伝道の旅に同行します。
その途上・・・、少年はその酷い仕打ちを想いだし、こう言って大泣きします。

「あいつを、僕が愛したり許したりなんて絶対できない。
僕は皆に代わってあいつを憎む。憎む、憎むとも」

と、苦しみ抜いたゆえの反応を示します。

すると、イエスが

「無邪気な子供の心に憎しみを抱かせること、これこそドラスの最大の犯罪です」
と言い、少年を抱き、あやしながら・・・

「マルジアム聞きなさい。
いつの日か、お母さんや、お父さんや、小さな兄弟たちや、おじいさんと、一緒に行きたいでしょう」

「だったら、誰も憎まないでね。天国には憎む人は入れません。
今はドラスのために祈れないって? 
じゃあね、祈らなくてもいいから、憎むのはやめなさい。
何をすればいいのか教えてあげましょうか。
過ぎ去ったことを、振り向いて視たりしてはいけません」

「でも、苦しんでいるおじいちゃんは、昔の話じゃない」

「それはそう。でもね、マルジアム。
そう・・・こういうふうに祈ってみなさい。

・・・天におられる私たちの父よ、私の考えることをあなたにお任せします・・・

御父は、今のマルジアムが想像もできないように、
マルジアムのことを聞き届けてくださると思います。

・・・私はおじいちゃんと不幸な人、皆をどんなに愛しているか、ご存じですか? 
何でもできるあなたが考えてください・・・と。

あなたは、良い訪れを宣教したいでしょう? 
でもその良い訪れは、愛と苦しみを許すことを語っています!
 
おまえ自身が愛し、許す事を知らなくて、
どうやって他の人に憎んでいけないと言えますか。
善い神様にすべてを任せれば、
神様がどれほどの善い事を準備しているか分かるはずです。
そうしてくれますか」


上記したのは、何も特別な奇跡のない部分のくだりです。
(もっと、奇跡が起きたときの具体的な様子も書かれているのですが
 それはいつか、また)

この物語を読むと、個人的には
今世に生きていたならなあ、直接会って話をしてみたい・・・
そう思ったりします。


ちょっと、長くなってしまいましたが
ネットでよく見かける、(うまく言えませんが)一般のチャネリングとはひと味違っているように思い、紹介してみました。


チャネリングされた言葉には・・・文章には・・・
それ自体が発する波動があります。

どうでしょう。

何らかの参考になれば・・・と思います。


おかしな「癒し」のループ

Posted by 世羽 on 12.2013 語り   0 comments   0 trackback

心が、魂が、宇宙の「真理」に向けて旅を始めたことを自覚すると
見えない領域からの導きを、切に求めるようになります。
その際に生じる、ちょっとしたことをお話してみます。

*******

ときに・・・ですが

人はしばしば、身体のそこ・ここに、物理的な痛みを感じたりしますね。

痛みのある場所に、何か具体的な疾患があり
療法が即、疾患そのものに有効なら
医学的には治療しやすいでしょう。

一方、

例えば、本当は心臓に異常があるのに、
痛みが見当違いのところに生じることがあります。

この場合、
「本当に異常がある場所」ではない
「別の箇所」に痛みが出ているわけです。


似たことが、人の霊的な問題でもしばしば起きます。


心が痛む、苦しい・・・とか
自分には何かの使命があるはず・・・それを知りたい・・
その切望をどうにかしたい、そう思って
何とかしてくれそうな人、ワーク、
などを探しまくったりするわけですが・・。

さあ、このとき・・・。

良き癒し手、導き、解決手法をみつけ、
「まことの癒し」を得られたなら、幸いです。
(確かに、ネット上でも優秀な人格・霊格を有した方々がおられます。
でも、数は意外に僅少かと・・・)

また、
良書を読むなどし、知識を得て、
自力で解決の道を開けたなら
その多大な努力は賞賛にあたいします。

でも、
そのようなケースばかりではありません。

むしろ、泥沼にはまってしまうような状態に陥る人が・・・。

なかでも、
「他者からの癒し」を受けようとする場合です。

というのも、

本当の異常な部分・修正を必要とする部分をそのままにして、
色々な対処をされ、
いっとき癒されたかのように感じても、
そのまま放置されてしまうケースが多々ある・・・。

人が心に問題を抱くとき、
皆が同じ事柄を原因としているわけではありません。
1人ひとり、「微妙に」原因は異なります。

その、それぞれが抱える問題の本質を見極めることなく、
ただ、
光を送ったから、ほら癒されますよ・・・
過去世を知ったから、癒されるでしょう・・・
この言葉を宣言したから、癒されるでしょう・・・

と、癒しを謳うだけでは、
局所治療のごとく
気持ちよく感じることがあっても
問題は「ぶりかえし」ます。


そこで、癒されたい人は、同じことを繰り返し、
再び「一時しのぎの癒し」を希求します。

自分が「本当は何を癒したいのか」さえ、わからなくなったりして・・・。

癒し手は・・・
言葉なり、エネルギーなりで、癒したつもりになりますが
完全な癒しを与えることなく終わってしまう・・・。

そして、このループが続きます。

おぼえがありませんか?・・・・そんな状態。


では、
どうしたらいいのでしょう。


まず・・・
誰か(ヒーラー)に助けを求めるにしても
よく確かめる必要があるでしょう。

いくら能力がありそうでも、
人格や精神性に難が?・・・と直感が教えるならば
すぐに近づくのは待って、しばらく観察してみてください。

場合によっては、書かれた言葉などをじっくり読むと
能力者本人の性格や、
その人自身の抱える心の問題点が読みとれる場合もありますから・・・。
(一見正しいと思われる思想などについては、また別の部分で・・・)


「えっ、それがわかれば苦労しないよ」ですか?

そうですか?


その人物が「自ら」を教えの頂点に位置づけ、教祖のようになってしまっていたり
すべてとは言わないまでも、とりわけて風貌を「自慢げ」にさらしたり
バナーを押すと「○○のエネルギーが流れます」としてみたり
極端に神示を「誇張して」吹聴したり、
過去世をおもしろおかしく伝えたり

そのようなことをしているとしたら・・・

どんなに言葉が美しくても
どんなに、そのときの自分に見合った言葉が並んでいたとしても
その人物の「霊的なレベル」を、
さらにじっくり観察してみるほうが安全です。

もちろん・・・程度にもよります。

ご本人が自覚できないだけで
一生懸命なさっている癒し手の方もおられるでしょうから。

それでも

ある程度、真偽を見抜くまでは
「即座に近づく」「全面信用する」のは
待ってみたほうが、無難でしょう。

もし、
問題にぶち当たっていて
どうにかしたいと考えているなら、
緊急性がないかぎり
身近で
「信頼のおけるまっとうな人」
「愛情豊かな人」
「秘密を他にもらさない人」
といった人物を見出し
彼らと話しをし、
すべてを吐露することはありませんから、
(知り合いがね・・・こうなんだよ・・・と話したってよいのです)
それとなく
助言を受けてみる・・・のも「1つの方法」でしょう。

何の霊的能力もないように見えても、
謙遜に自らの能力を外に顕わさず、生きている人がけっこういるものです。

(能力があるのに気づかないで、自然に他者を救ったりしている人もいます)

また、
傍目には特殊な能力など皆無・・・と思える人でも
この世を賢明に生き抜いてきた人は
思わぬ智慧を持っているものです。

人生経験が物をいう・・・。

この事実を、もう少し重要視してみてはいかがでしょう。
(特に、見えないメッセージにのめり込みがちな場合・・・)

人は、
単なるネット上のやりとりでは味わえない「リアルな人生体験」を、
身近な人々と「共に」、
見えざる計画のもと
日々、重ねているとも言えます。

身近にいる人の、愛のこもった助言は、
その時には「受け取れない進言」であっても、
時間の経過とともに心の真相に触れ、
物事の解決に導いてくれることが多々ある・・・。

こうした重要性を、
「再認識してみる」ことには価値があります。

「人生体験から来る導き」・・・は、
他者からもたらされるようでいて
問題を抱える本人が一番乗り越えなくてはならない部分に触れてくる
「自身の魂が他者を通して送る、本当の導き」であることが多い・・・からです。
(自分が認めたくない「痛い進言」は、けっこう怒りたくなったりしますが)


もちろん、
助言があまりに苦しく、
受け入れ難いものなら、
決して受け入れることはありません。
一時棚上げにしましょう。

でも、この体験を上手に繰り返していくと
本当に自分が何を求め、心を痛め、何を問題にし、
本当はどうしたいのか・・・が
「自らの力で腑に落とす」ことができるようになるでしょう。

繰り返しますが・・・

本当の意味で
「自らの力で腑に落とす」・・・

これは、とても大事です。


人は、誰もが秘めている「自分の内なる力・神性」のもつ
解決力・導きを
もっと・もっと信じていいのです。


昨今は、まことの導きを得るという「うたい文句」とは裏腹に
「主権を他者に委ねてしまう」人が多いようです。

すると、霊的な目覚め・魂の進化をさらに起こしたいのに
足踏み状態になって
前に進めなくなってしまう可能性が生じます。


皆さんが、こうした「妙なループ」に巻き込まれていなければ幸いですが
もし、思い当たることがあるようなら
「他者からの癒し」に依存し切ってしまうのではなく
ほんの少しでよいですから
ここで記したことを一考してみていただけたらと・・・・。



あれから、ずっと祈っています・・・

Posted by 世羽 on 11.2013 語り   0 comments   0 trackback

ここ数日、テレビなどで、2年前の震災について特集が色々と流れていました。

甚大な被害を受けながらも、日々前に進もうとし、
少しずつ元気を取り戻している被災地の皆さんの姿に、
逆に勇気をもらいました。

でも、その中には
大事な人を失った悲しみが
いまだ癒えていない方々についての報道もあったのです。


トラウマになってしまう重大な体験をすると
人によっては、本当に何をしても心が元に戻りません。

時間が解決してくれるのであれば、それが一番よいのですが
なかなかそうならない場合もあるでしょう。

長いあいだ暗闇を感じている人に
もしも
「それは天の計画のうちだから」とか
「あなたには乗り越える力があるのです」
「それはあなたが引き寄せた結果です」
と不用意に言ったりしたら、いったいどうなってしまうでしょう。

寄り添ってくれる、心の強い人がいれば幸いです。
でも、
きっと、孤独に苛まれている人もおられるでしょう。


恥ずかしながら
自分がそのような人たちに何ができるか・・・・と問われたら
頭を下げるしかありません。

そんな自分・・・
震災直後、何かしなければ・・・そう思ってからというもの。
本当に微力ではありますが
あの日から、今に至るまで
災害に遭遇し、今現在も苦しむ方々のため、
またその復旧・復興・支援に携わる方々のために
毎日祈ってきました。


こんな祈りが何になる・・・そう思うことはしょっちゅうです。
それでも祈りを続けています。


日々、自らの生活に追われたり、
特に普通に幸せを満喫できていると
それはそれで幸せなのですが
自らが同様の状況におかれない限り
なかなか他者の辛さを理解しづらかったりします。

そして、どこかで辛い想いをしている人のことに
気づかなくなってしまったり・・・・。

なので、そのような自戒をこめて

過去の今日という日付に起きたことが
やがて、この日本の、そして世界の
「希望」に変化していくことを願い
これからも
ほんの小さな祈りではありますが
続けていこう・・・。

そう思っています。


たぶん、この日本
いや世界のどこかしらでも
そんな祈りを捧げている人たちがいるのではないでしょうか。


祈り・・って、
「想う・・」ことでもあるんですよね。

つまり、誰かの幸せを「想う」、何らかの幸せを「想う」
この見えざる力の結集を信じたいと思います。


情報の中に潜むほんのわずかの誤りと偽り

Posted by 世羽 on 10.2013 語り   0 comments   0 trackback
(その前に・・余談です)

自分・・日本ブログ村に登録してあるんです。
こうして記事を更新しているわけですが
登録先では新着記事が立ち上がってくれず。
原因を探ろうとFC2さんに問い合わせてみたところ
「正常」とのこと・・。
あはは・・・です。
少しずつ、確かめようとは思いますが、
天の意思は謙遜に
「今のところひっそり行け」なのかもしれません。
よって・・・当分は隠れブログになりそうです。
そんな自分のところ・・・それでもご訪問してくださる皆さんに
ふたたび、ほんとうに心より感謝申し上げます!

******

(役にたつかわかりませんが・・・)
語り手がどのように情報の内容を見ているか・・・。

少しお話してみます。

実をいうと、多くが不思議な導きであることが否めません。
そして、それに感謝しています。

とはいえ、
決してそればかりではなく
長いあいだに培った、情報に接するにあたっての経験のようなものもあります。

それら総合的な判断力をもって
たとえば、ある情報を一読したとき、
それこそ瞬間的に、
あるいは、しばらくのあいだ情報に接してみて
多くの誤り・ときに偽り・・を見出しています。


もちろん、参考になる「優れた情報」にも接しました。

ですから、何でもかんでも「否」としているわけではありません。


ただ・・・。
恐らくですが、漠然と眺めているだけでは
見極めるのが非常に難しい情報があるのです。

つまり、内容のほとんどが正当だと思われても
残る、ほんの僅かの部分に
思わぬ「落とし穴」を有している情報がある・・ようです。


情報の発信者自身が、それを自覚し、
わざとそうしているならトンデモないことで、
論外です!!!

が・・最大の「良心的」な心で眺めるならば、
多くの場合、次のようなケースがあるようでした。



発信者の動機は当初正しいものであったろうが、
同調するものが増えるにつれ
知らず知らずのうちに自己満身や名誉欲に侵されるようになり
読者を集めることに翻弄されてしまい
偽りの情報の混入したことを自分ではわからなくなっている。


自分に「確固たる神性の基盤」をもたないまま、
不思議な情報や、多くの概念・手法にとらわれ、
それらをごちゃまぜにした結果、真実の神性を見失い、
「得た情報」の真偽が見抜けないまま、我が情報のごとくにして発信している。
この場合、発信者は、自らの発信した事柄が「他者に与える影響」について気づかず、
そうした「重要性」に責任すら感じていない。


職業として、人の導きを志し、
正しいことをしていると思っていても
「自身の霊的進化」を忘れたり・おろそかにし、
日々の研鑽をないがしろにしているがために
実際は「他者を惑いの道」に導いてしまっている。
発信者は自覚している場合と、まったく自覚していない場合がある。



細かいことを言えばきりがありません。


なかには、「個人的に見れば」ほんとうに何と言っていいのか
「哀れ」さえ感じるものすらあるほどです。


そして、そんなものにさえ、
何らかの形で引き寄せられてしまう方々がいるようです。

ですが単に「引き寄せ」られているのではありません。
そのような人々は、ほんとうは「求めている」のです。

何かわからないけれど、心の奥底で叫ぶ声を聞いているのです。

しかし、それにどう答えていいのかわからず、
まったく別のところに導かれてしまっている・・・。

だからこそ、こうして今
少しずつでも、お伝えして行きたい・・・。

語り手はそう思っています。
(いつも謙遜であることを忘れずに!・・と肝に銘じつつ)


追記:あれ?・・・。
   この記事をアップしてからブログ村を除いたら・・更新が記録され始めてました。
   何でも・・明るく「なるようになるさ」の気持ちを持っているのは
   ある意味「楽な」生き方だなあ・・と再確認しました。



聖なる道をめざす

Posted by 世羽 on 07.2013 語り   0 comments   0 trackback

(と・・本題に入る前の余談を)

今日は薄曇りとはいえ(当地)、格別暖かかったです。
春だなあ・・・そう感じていたところ
いつも通る路地、その民家の庭先に
ま・まさか!!!・・・と思ったのですが
なんと「桜の花」が咲いていたのです。
他所はまったく、その気配さえないというのに。
いやあ・・・驚きました。
この民家に住む方が愛情込めて手入れをしていたのでしょうか。
ちょっと、そんなことを想像してしまいました。

そして・・・実に心が暖かくなりました。

*******

さて・・・。

ここ数日、いくつかの語りをさせていただいてきました。

そんな折り、改めて己の心に響いたことがあります。

それは、自分がこれから最も主題にしていきたいと思う指針についてでした。


自分は、この先、ここを訪れる方々に「どうしても伝えたいこと」があるのです。


それは、
単に人生を謳歌し、人として喜びを感じて終わってしまうのではなく、
その歩みのなかで同時に
自らの魂を、本当の意味で磨きあげながら
「真の神性を宿す聖なる者」として生き始めてほしい・・・。
本当の意味で輝いてほしい。

どのような場所に生きていようとも
皆さんがいるだけで
その場所が聖化されるほどの
まことの力を発現してほしい・・・。

そう想っています。

それこそ、
この星の行く末をより良いものにする大きな原動力となる・・・
そう感じているからです。


それには、小手先の理論や秘技ではなく
1人ひとりが
心の奥底で抱く神性な領域と、深く繋がっていく必要があります。
それは現在流行の、チャネリングをして何かの声を聞くとか
自分がすべてを創造する・・・というのとは
少し視点を異にしています。


日々の生き様のなか
ときに思い切り笑い、喜び、ときに苦しみ、涙し、悩むことがあるでしょう。

そして、こうした貴重な体験が
すべては実に大きな「導き」のもとなされている・・・・。

これを「実感として知る力」をもつ道。

すなわち「聖なる道をめざす」ことをお伝えしたいと想っています。


これは、先にのべた一部の思想
つまり、すべては自分のみの責任・・・という論理に挑むことになるかもしれません。


「聖なる道をめざす」とき
歩む者に与えられるのは
多く愛すること・多く許すこと・人の痛みを知り、苦難を感じている他者のために
心を寄せること
それくらいしかありません。

ですが
真の意味で、これらの力を知ったとき
人は大きく変化していきます。
その力は時も次元も超えて
集約される光の源への帰還の道筋を開くでしょう。


だからこそ
今、この大事な時間の1地点から
それを伝えていこうと想ったのです。


そのために、
この我が身もまた、
皆さんと同じように、当たり前にこの世の日々を楽しみ・喜び
多くの難題をくぐり抜けながら
常に神性を輝かせることを忘れず
精進していくつもりです。



この星の上で生きる意味

Posted by 世羽 on 06.2013 語り   0 comments   0 trackback


不可思議な話を追う多くの人が
自分の「魂」はどこから来たのか
その使命は何か・・・

そんなことを「知りたい」と思っているのを知っています。


それに応えようと、様々な試みがされているのも知っています。


でも、そんなとき
人は肝心なことを忘れてしまっていることが多々あります。


それは

自分が「この地球という星に、人間という形態を有して生まれた事実」です。


人は、この星に生を受けたこと・・・これに
もっと誇りを持ったほうがよいのです。


たとえ、どこからどうやって来たのかわからないとしても
ここに物理的に生きている、という厳然たる事実を
見つめてみてほしいのです。


人を始めとする、この星に存在するすべてのものは
地球という星が生まれて今に至るまで
長い道のりのなかで
その起源をもちました。

人でいえば
その体内にある数多の細胞、その中にはその起源から延々と
しかも、大事に・大事に受け継がれた記憶が宿っています。

それがもし、途絶えていたなら
今、皆さんの誰かが、ここでこの文字を見ていることもありません。

これは、実のところ
本当に「奇跡!」です。
もの凄いことです。

想像してみてください。

あなたの奥には、この星に肉体という形態をもって生まれた瞬間から
それこそ無数の血脈の系譜が息づいていることを。

顔も知らない無数の人々が受け継いで・受け継いで
そうして、「今」ここに、あなたがいることを。


それは他の生命も何ら変わることがありません。


まずは、もっと
それに「敬意」と「感謝」の心を向けてほしい・・・のです。


ときに、この系譜は肉体的な事情があって、途切れることもあるでしょう。

それでも
「今」この星の上で生きるということは
こうした遙かな昔から受け継いできた「生命」を
大事にし、感謝し、それを「共に生きる生命すべて」と
まっとうすることです。


ここに「生命」の尊ぶべき本質が隠れています。


この星に生まれた生命は
本当に、宝物です。

もちろん「あなた」が・・・そうです。


「今を感謝する」・・というのはよく言われます。
ただ、それが
自分を良くしたい
人生をもっとうまく生きたい

そんな目的だけに終始していては、その「感謝」も少々寂しい・・・。


人生の中で、この先どんなことがあっても・・・
たとえ、生きている価値がない・・・
そう思える瞬間があったとしても

そんなとき、
あなたが膨大な時を過ごしてきた
貴重な宝物の「乗り手」であることを
どうぞ想いだしてください。

この宝物は二度と手に入りません。

それをどうぞ大切に。

そして、できうるならば
ぜひ・・・
同様に、同じ星の上で生を育んでいる多くの他の生命が
一生懸命
生き抜いていることに
改めて「気づいて」もらえますように。


今日という日、皆さんが、
自らを貴重な宝物としてとらえ
自分以外のすべても、実は同じ宝物である・・・という心で見て
暖かい心に包まれますように。


これが段々うまくできるようになると、
そのとき・・・自分が「どこからやってきた魂」か・・・などは
たぶん、どうでもよくなるかもしれません。


小さき聖なる巨人の皆さんへ・・・

Posted by 世羽 on 05.2013 道草   0 comments   0 trackback
旅路の途中の・・道草です。


とあることを、ふと感じているのです。



とても心優しく
いつも、自分以外の誰かのことを想い
自分のことは後まわしにしてしまい

ときに過酷な現実に囲まれ
ときに、これでもかという心の痛みを感じ

それでも、じっと耐え
懸命に生を送っている。

決して人を騙したり、欺いたり、裏切ったりせず
内に秘めた、何らかの聖なる輝きを持つ・・。

本当に、心が美しい人たち。

けれども
現実に押し流され
自らを無力に感じるあまり
生きる希望さえかすんでしまい
己の価値が見いだせなくなってしまっている人たち。


そんな人たちには、ぜひ気づいてほしい・・・。

皆さんの内に秘めた清らかな「愛」は
この世の光なのです。

出逢ったことがなくても
どこにいるか互いにわからなくても
この世界で同じようなことを想っていたりする・・。

みなさんの宿す「愛」の力は
自身が想像するよりはるかに大きい。


そう・・・みなさんは
たとえ、有名でなくとも
平凡に生きていようとも

小さき聖なる巨人です。


とはいえ
みなさんはしばしば
いわば「人魚姫」症候群に陥ってしまう・・・。
我が身を捨てても
愛を貫こうとする「奉仕の心」を持った人たち。

でも、もういいのです。

人魚姫と同じ道を歩まずとも。

さあ
自らの手で、
今こそ「人生の童話」の結末を書き換える勇気を出してください。
別のやり方で、「奉仕」ができることに気づいてください。

みなさんは小さな巨人。
平凡のなかの非凡。

みなさんの数は、意外に多い
でも、知られておらず
自分でさえ、それに気づいていない。

それでも・・・
みなさんの秘めた力は、この世界を助ける一助となるはず。

だからこそ
勇気を出してください。

これからは、今の心の美しさ・清さを決して失うことなく
誇りをもって、前に進んでください。

みなさんが、
内に宿る、本当の「愛」の力の威力を知り
そのうえで
心からの笑顔を周囲に向けるとき
その輝きは、まるで噴水のしぶきのように
辺りに舞い散るのです。

その輝きが、他者の心に巣くう闇の一欠片、一欠片を
溶かしますように。

自己に眠る、本当の「愛」の底力を想い出してください。
気づいてください。


それを祈っています。

何を信じているのでしょう

Posted by 世羽 on 04.2013 語り   0 comments   0 trackback
当節この世界には、実に様々な「信じる」ための思想・手法が出ています。


今はやりの「大いなるすべて」から始まり、その末端にいたる色々な心の診断方法
本当に
実に色とりどりです。

もちろん伝統的な宗教もあります。


そうしたなか
これらは、いったい何を目標として「信じる」思想・行動・手法を促しているかに
想いを向けてみたことがありますか?

伝統的な宗教については、今はちょっと置いておいておきます・・・。

それ以外で
日々の生きる指針のために
ニューエイジと呼ばれる分野の教えを糧にしたり
そこで教えられる癒しの方法を学んだり
ときに、占いのカードに導きをゆだねてみたり。
神示と称されることを求めてみたり。

きっと誰もが
「一度ぐらい」はやってみたことがあることかと。

・・・このとき

人はそれらの「何」を信じようとして、そうしたのでしょう。

自分にぴったりくる効果や導きがあったことで、信じるに足る・・・
と思ったからですか?

ではそうしたとき、
自己に宿る神性はどうしているでしょう。

多くの人々は言います。
「自らの内に宿る神性を信じよ。それは完璧である・・・」

だとすると、その神性の力、その力に頼る・・・というセオリーは、
どのように顕現しているのでしょう。


「自らの神性」を信じることは、
すなわち
人が目にすることのできない
どんなものかもよくわからないけれど、でもそれは存在している
いわば「神と思しき存在」、あるいは「超高次の存在」を信じることに等しい。
しかも
その無限の力の一端が、すべての人の内に平等にあり、
それを自覚し、それを信じることに等しい・・・ですね?

そして

心からそんな「自己を信じて」この世の旅路を進むなら
たとえ一時、「仮」の外側からの方法に触れているとしても
最終的には、それらから卒業し
自らの内なる神性の導きを信じていくことが必要になるでしょう。

ですが、
現状を見ると・・・・。

つまり、小手先の方法にとどまり続けるがために
その先に進めなくなってしまっている人が多いように見える・・。


さて
皆さんの心はどうお感じですか?

現状がどう映っていますか?


そんなことについて
まずは、少しだけでも思いを向けていただければ・・・と

そう祈りつつ、また語りに進んでいくことにします。

ご挨拶をかねて・・・「今を想う」

Posted by 世羽 on 03.2013 未分類   0 comments   0 trackback

昨年2012年の末のこと・・・。

見えない世界をめぐって、実に様々な思惑が飛び交っていました。

実のところ、余波は今も続き、
特に、見えない世界と呼ばれるものに興味がある人々に諸種の「影響を与えている」ようです。

人々の「心」を翻弄する情報の流布・・・。

が、こうしたことは
姿形を変えながら、遙か昔から続いていたことです。

ですから、
個々の人々が、各々少しずつ気づくことだ・・・
傍観するのみ・・・そう思っていました。



けれども、ふとしたことから
それまで意識的に「関与することを避け」ていた
心や見えない世界を扱うブログ、それらランキングなどを目にすることとなり
そこで、個人的には「唸りをあげたくなる」ような情報が、多くの人心を捕らえているのを目の当たりにしたのです。

いくら精神性の花開く時代の、特殊な過渡期とはいえ
垂れ流される情報の多くが、人の一番「神聖な部分」に、
何やら「一定以上」のダメージを与え始めている・・・

そう視えてきました。


一見、暖かい言葉に溢れ、信頼にあたいする・・と思われる情報にさえ、
「ダメージを与えるもの」が存在している・・・としたら、どうでしょう。


そこに気づき、真偽を的確に判断できる人が、
今どれほどいるのでしょう。


情報を見極めないまま、
好奇心のみで、見えない世界の事柄に惹かれたり、

何らかの苦境に陥った我が身を救おうと
自分にはないと思われる不思議な力に頼りたくなったり、
占い漬けになったり

それらを「あまりに安易に信じ込んでしまう」とき

さらには、
伝えることの「責任」を持たず、
与える影響や結果を顧みず、情報を伝聞のように垂れ流していくとき

人々は、
「自他」を巻き込んで、
己の求めたところとは「別の領域」に落ちていく危険性に直面します。


場合によっては、「自他」の人生さえも狂わすほどのダメージを与えて・・・。


そして人々は当たり前のように、こう言ったりもします。
「わたしたちは、目覚めた!!」


しかしながら・・・どうでしょう。
その「目覚め」とやらは、どこまで本物なのでしょうか?


で・・・そんなことを想いの背景に置きながら
つれづれと語ってみたくなりました。


とはいえ、
かくいうこの語り手・・・市井に隠れた人間です。
そんな人間の「語り」が、はたまた何の意味があるのか・・・
?マークがないでもありません。


ですがそれでも

ご縁のある方は、
きっと某かのお導きでここを訪れ、
語りに触れてくださることでしょう。

それを想い浮かべながら

まずは、「語り」始めに
ご縁あるご訪問に、あらかじめ心より御礼申し上げます。


では、そのようなことで
ときに世情の話題なども織り交ぜながら・・・始めさせてください。


  

プロフィール

世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。