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ほとんど忘却の彼方にある「先視」の人・・・

Posted by 世羽 on 28.2015 道草   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
しばらく記事が書けなかった・・・。

と、今後・・・事象はさらに色々表れるだろう。

さらに、千葉沖で少しばかり発震をみているが、
長いこと気にして感じているものは、
いまだ衰えることなく続いている。
なので、自分が捉えているのはソレではない。


ノストラダムス(修飾オリオン辺りの雲)image



「諸世紀なんてハズレまくりじゃないか」と揶揄されて
日本では終了している感のノストラダムス・・・。


     ノストラダムス(世間の見方)image


ただ、

ノストラダムスの残した未来の記述は、
彼自身が言っているように、
「もの凄くぼかして書いてある」わけで、
しかも深淵な隠語も多用されていると思われ、
いまに至っても、その大部分が読み取られていない・・・というのが
現状ではないでしょうか。


1999という数字が出ていたあの4行詩
そのままの意味ではなく、
複数の事象が絡めて暗喩されている・・・かもで。


そんなノストラダムスの人物像については
すでに多くの本に紹介されていますし、
秘教集団との関わりや、ヴェールに包まれた先視の方法も
すでに、かなり周知されていると思われます。

決して清々しい想いで眺められない部分もあるノストラダムスですが
表面的にはキリスト教徒であり、
一方で秘教の密義を駆使しながらも
心の“どこか”では、
洗礼を受けた「力」を捨て去っていない人だった
・・・かのように感じられるところがあったりします。


彼の残した有名な『諸世紀』
「息子セザールへの手紙」を序文として始まっています。


     ノストラダムス(息子1553~1630cesar)image
     (息子さんの肖像)


その内容は意味深で、
いかにも「息子へ」と記しているかにみせて、その実、
自分が記録した言葉を後世に読み解くかもしれない
「不特定な人々」に宛てて書いている・・・と
感じるところがあります。

そして自分・・・
当時の時代背景のせいだけではなく、
ノストラダムスが「自分の視たことや感じたこと」
わざとぼかした心情が、何となくわかるような気もするのです。


いまさらですが、改めて、その「序文」を振り返ってみると・・・。

 (注:以下は高田勇氏の訳を借り、少しだけ句読点など、読みやすく改変してみます。
    また、一部を略していますがご容赦を)


わが息子セザール・ノストラダムスよ。
おまえがおそまきながら誕生した。

ゆえに、神ご自身が星辰の運行で私に知らせて下さった事の諸々を、
人類共有の利益となるように文章で書き記し、
おまえの父の肉体的消滅後の想い出として、
その記録をおまえに遺しておくために、
私は、不眠不休で夜を徹して永い間働き続けた。


 (上記のような感じで序文は始まります・・・。
  以下、長文で、判読しづらい部分もあります。ご了承のほどを。
  改めてここに掲げる真意ですが・・・個人的な謎かけみたいなものですw)


おまえの脆弱な理解力では、
私の死後、やむなく残さざるをえない事柄を
受けとめられないだろう。

時の不正で打ち消されてしまう事柄を、書き物の形でおまえに遺すのは不可能だから。

なぜなら、受け継がれるべき隠秘された予言の言葉は
我が胸のうちにしまわれることになるから。


人為の限られた出来事は不確かであり、
森羅万象は無窮の神の力によって決定づけられ、
統べられていると考えるゆえ、
バッカスの巫女の狂熱にも、譫妄の行動にも、私たちは鼓舞されず、
天体運動が確認するものに鼓舞される。


「天体は、ただ神慮のみから、
なかんずく予言の精神から鼓吹された予言を行なった」


特定の地域で実際に起きたことを、私はずっと以前に、
万事を徳の力と神からの啓示によるものとして、
長いあいだ繰り返し予言してきた。

世界の各地で実際に起こった他の幸せな出来事も、
私は前もって、いち早く予言していた。
しかし、
現在の不正ばかりか、未来の大部分にはびこる不正のために、
私は沈黙を守って書き記すのをやめようと思った。

なぜならこの先、
政府も党派も宗教も、きわめて相反した、
しかも現在と比べて正反対な変化をするだろうから。

もし未来に起こることを“叙述”しておけば、
統治にたずさわる人も、党派人も、宗教人も、信者も、
自分たちの耳慣れた空想とそれがまったく一致しないと気づいて、
これから数世紀先に目撃して納得できるはずのことを断罪してしまうから。


私は真の救世主の警句
「聖なる物を犬に与えるな。また真珠を豚の前に投げるな。
恐らくは足にて踏みつけ、向きを反りて汝らを噛みやぶらん」
をも考慮した。

この理由から、私は民衆の前から舌を引き、紙から筆を取りあげた。



     ノストラダムス(自筆)image


そうこうするうちに、

万人に好ましい時代の到来のために、
“意味の隠された難解な文章”で、
未来の、しかもごく近い未来の淵源を
言明して広めたいと思った。

人間がどのように変化しようとも、
私が知った淵源は脆い耳を乱しはすまい。
すべてがまったく
予言的というより“曖昧な形”で書かれたのだから。

もっともそれは
“学者や賢者、権力者や国王には隠匿され、
身分卑しき人や貧しい人”には啓示されたけれども・・・。


さらに予言者たちにも
それは“不滅の神”と
“善き天使”を介して啓示された。

彼らは“予言の精神”を授かっており、それによって遠因を見、
未来の出来事を予見するのであり、神なしには何事も成就しえない。

予言の対象である人間に対する“神の力と好意”がきわめて大きいので、
予言者が己れのうちに閉じこもって瞑想するあいだに、
彼らは、良き霊と同じ起源をもつ他の結果に従属する。

この予言の活気と力は、私たちに近づいてくる。


それはちょうど、
太陽の光が私たちのもとに届き、
単体や複合体にその影響を及ぼそうとしているようなものだ。


人間である私たちについて言えば、

私たちは創造主たる神の“隠された秘密”を、
私たち性来の認識や知的傾向からは何も知ることができない。

時、瞬間、その他のことを知ることも、
私たちのために“すべきことではない”からである。


しかし今や、
幾人かの“来たるべき人物”の姿を見ることができる。

それは、創造主たる神が
占星術にもとづいて未来の秘密を過去の秘密と同様に、
印象に鮮やかな姿でもって啓示しようとした人物である。

火から炎が出るが如くに、彼らは或る力と必要な能力を授かっており、
それによって霊感を得て、
神の啓示と人間の啓示とを判断するにいたる。

神は、絶対そのものである神の御業を成就せんものと来給うからだ。
中間の御業は天使のものであり、
第三の業は悪人のものである。



ノストラダムス(修飾アラスカの空)image



けれどもわが子よ、
私はいささか、“包み隠すような調子”で話しすぎているようだ。

だが“神秘の予言”について言うと、
予言者は天の火の精緻な精神によってそれを受け容れるのであり、
火の精緻な精神は、夜を徹して天体の最高点を凝視するときに、
理解力を掻き立てるものである。


それは刊行についても同様で、
破廉恥な饒舌になるのを恐れず、
文書を刊行して人を驚かしめるのである。


しかしすべては、
あらゆる慈愛の源である偉大なる永遠の神の
“聖なる力”より発している。

わが子よ、たとえ予言者の名称を取り入れたにせよ、
私はこれほど崇高な称号が
私にこそふさわしいと主張するつもりは現在のところない。

なぜなら、
“今日、予言者と言われる人は、かつて先見者と呼ばれた”からである。

すなわち予言者とは、わが子よ、
いわば、あらゆる被造物が持つ生来の認識で
はるか遠くの事物を見る人の謂である。


そして、予言の完璧な光明を用いて、
予言者は神界のことも人界のことも
はっきりと現出させることがありうる。

将来を予言する“結果”が、
時間上はるか遠くまで広がっているのだから、
それ以外の方法がないのだ。


なぜなら、神の秘密は不可解であるし、
因果関係を示す徳は
生来の認識の広大な拡がりと接し、
自由意志にそのもっとも近い源をもっており、
さまざまな原因を明らかにするからである。


それらの原因そのものからは、人間の解釈によっても、
また他の認識の様態とか、
現在から時全体を包含する“全き永遠”にいたるまでを
天空の下に包括するような不可解な科学によっても、
天啓を授かるための知識は獲得されないのであるが・・・。

強力な癲癇状の興奮でこの不可分の永遠を手にすることで、
諸原因は天体の運行とともに解明される。



わが子よ、
おまえによく分かるように、
こうした内容の認識がおまえの繊弱な脳裡にまだ刻みこまれえないとか、
はるか先の未来の出来事の素因が理性を備えた被造物には理解されえない
・・・とかを
私は言うのではない。

けれども、
もしこれらの素因が“本当に理知的な魂をもつ被造物”に理解されうるなら、
目の前にある事柄も、これから先の事柄に対しても
秘匿されることにもならないし、
啓示されるということにもならない。

ところが実際は、
神からの天啓がなければ、
これらの素因に対する“完全な認識”は得られない。

なぜなら、予言をもたらすいかなる天啓も、
その主なる源を創造主たる神の起動力から、
次いで、偶然と自然から得ているからだ。

それゆえ、類似の出来事が起こるといっても、
決して無差別に起こるものではないので、
前兆は予言したとおりに“部分的に”実現する。


小さな炎――
そこで未来の出来事の一部は明らかになるのだが――を手に入れ、
黄道帯の助けを借りて発せられる声でならいざ知らず、

“知性から作られる理解力”では
神秘的にものを見通すことはできない。


そこでまた、わが子よ、
脆弱な感覚をわずらわせてまで、体をやつれさせ
魂を堕落させるような夢想とか絵空事に
おまえの理性を決して使わないでほしい。

ましてや、その昔、
聖書や聖なる教会法が排斥した呪うべきこのうえない魔術の絵空事に・・・。

ただし、占星術の判断は例外で、排斥されることはない。
占星術と神からの霊感と啓示のおかげで、
夜なべ続きの予測によって、私は予言を文書にしてまとめあげたのである。



ノストラダムス(部屋の感じ)image


この神秘哲学は排斥されるべきものではないが、
凄まじい迫害をひき起こすことを断じて私は望まなかった。

数世紀の永きにわたって隠されてきた数巻の書が知られるのを危惧し、
またこれから何が起こるのかを危惧して、
読み終えてから、私はそれらの書物を
ウゥルカーヌス(ローマ神話の火の神)に捧げてしまった。

火が書物をなめ尽くすあいだ、
空を焦がす炎は普通の火より明るい異常な光を発した。


それはあたかも、稲妻を放ち、家が突如大火にみまわれたかの如くに、
家をいきなり照らし出す大異変から生じる火炎のようであった。


それゆえ将来、
月や太陽の全き変形や、地下や不可思議の波間に
恒久不変の金属を探求したり、おまえが間違いを犯さないように、
私はそれらの書物を燃やして灰と化したのだ。


だが、“天の判断の助けで”はじめて完全なものとなる判断については、
私はおまえにそれを明らかにしてやりたい。

すなわち、湧き起こる“気紛れな想像力”を彼方に排除し、
超自然的な神的霊感によって場所の名という特殊性に限定し、
神の徳、力、能力によって、
天象にさまざまな場所と隠秘な特性をもつ時間の一部を合致させることにより、
判断力でもって、未来に生ずる事柄を知ることができるのだ。


神の徳、力、能力が存在することで、
三つの時間が“過去・現在・未来”の原因に繁がりのある展開をもつ永遠性から理解されるのだ。
「すべては単純で明白だから」等等である。


それゆえにわが子よ、
おまえの頭脳は幼くとも、おまえには起こるべきはずの事物が
本然的な闇夜の天の光によって、また予言の息吹によって、
予言されうる・・・ということが、容易に理解できよう。


     ノストラダムス(Machholz彗星)image


私は予言者の呼称を自らに当てるつもりはないし、
予言者の行為を自らしているとも思いたくはない。

が、しかし、

神から啓示される霊感によって、
人間としては、私は両足が大地から離れているほど
感覚が天空から遠く隔たっているとは思わない。


“私は欺いたり、誤りを犯したり、騙したりできない”。

私はこの世で他の誰よりも大罪人であり、
人類のあらゆる苦悩を免れない者であるけれども・・・。



しかし、週にときどきは狂気につかれたようになり、
夜中の研究に快い香気をもたらす長い予測で、
私はそれぞれ百篇の天体に関する四行詩を収める『予言書』数巻を
書きあげた。


私は予言集をやや解し難く推敲しようとしたが、
それは“今日から3797年までの絶えざる予言”から成っている。


時のかくも大きな広がりを知って、
ある人々は顔をそむけてしまうこともありうるだろう。

私の予言は
“月”がくぼむときに実現して理解されるだろう。

そしてわが子よ、諸々の原因が
地上にあまねく納得されるだろう。


もしおまえが人の齢半ばにあれば、
おまえの風土で、おまえの生まれた際の天空で、
予知どおり未来の出来事が実現するのを目の当りにするだろう。

永劫不滅なる神のみが、
己が御身体より発する光の永遠性を御存知であるが、
神の広大無辺で、測り知れぬ、理解し能わざる偉大さが、
気の滅入るような永い神来の果てに“啓示を与えようとした人びと”に、
私は率直に言おう。

神によって明かされるはずの隠秘なるこの原因の力を借りて、
予言者の理性の裡に蔵されている“二つの主要な原因”が存在することを・・・。


その一つは、
超自然の光を受けて、
天体の学問によって予言する人の精神に注ぎこまれるもの。

もう一つは、
神の永遠性のほんの一部でしかない霊感による啓示によって、
予言することを可能ならしめるものである。


このような手段を用いて予言者は、
神が自分に与えてくれたことを、
創造主たる神を介して、また生来の才能でもって判断する。

すなわち、予言される事柄は真であり、天空に源を発する。


このような光と小さな炎は
何にもまして
霊験あらたかであり、崇高だ。



ノストラダムス(自然の美)image


それは自然の明るさと自然の光が、
哲学者たちが第一原因の原理によってもっとも高邁な学問の、
もっとも深い深淵に辿りつけたほど、
彼らに確信を植えつけるのと同様である。

けれどもわが子よ、
おまえの認識力からあまりに隔たることのないためにも、
多くの大洪水と、
水びたしにならないような国はほとんどないくらいの
大浸水をもたらすはずの世界的な大災害が起こる前に、

私が世界を究めてしまったその仕方を、
文学者たちが前代未聞なほど大いに喧伝するだろうことを
知っておいてほしいと思う。

そしてこの大浸水は、歴史と場所を除いて、
すべてが死滅するまで続くだろう。

ゆえに、このような大洪水の前後、
幾らかの国では雨が乏しくなり、
天から膨大な火と焼けただれた石が降ってきて、
残らず焼き尽くされてしまうだろう。
そして、これは“最後の大災害”の直前に起こるだろう。


なぜなら火星がその世紀を終了させるのだが、
その最後の期間の終りに、火星がその世紀を支配するからである。

これら異変のいくつかは
数年間は宝瓶宮に、
また他のいくつかは、さらに長い年月にわたり、巨蟹宮に集中するだろう。

今、永劫不滅なる神の全能に助けられて私たちは月に統轄されていて、
月がその周期を完うするや、太陽に続いて土星に統轄されることになろう。

というのは、天の徴にしたがうと、
土星の統治が再びめぐって来るからだ。

いかように予測しようとも、
世界は天地がひっくり返るような変革に近づいているのだから。


  (上記の月とか太陽とか土星というのは、星そのものではなく
   ノストラダムスが用いていた7000年期のめぐり・・・
   つまり、その時期ごとを統括する天使をも暗喩する。
   さらに占星学と天文学と、霊的世界について裏知識がないと読めない)


     ノストラダムス(500年前の初版本)image


それは、私が今これを認めている現在から
177年3ヵ月11日
(ここもそのままの年数とは思えない)先までにわたっており、
世界は疫病と長い飢饉と戦争と洪水で、
現在からあらかじめ定められた期限までの間に、覆い尽くされるだろう。


前後、人類は何度にもわたって減少し、
ほとんど絶滅してしまうものだから、
土地を占有しようとする人もいなくなり、
土地はかつて耕やされていたのと同じくらい長期間、耕されなくなってしまうだろう。

天空の、目に見える判断について言うと、
私たちは今、すべてを終息させる7000年代にいるけれども、
8000年代に近づいてもいるのだ。

そのとき、広大な次元にある第8番目の天球をもつ天空となり、
そこで、偉大な永遠の神が変革を仕上げ、
星座群は自らの運動と、地球を揺るぎない安定したものにする超越的な運動とを
再開するだろう。


「その運行はいつの世までも続くものではない」

神の意志が果たされないというのはありえないのだから。


ノストラダムス(zodiac)image



マホメットの夢想のような、
あらゆる自然の理性を超える曖昧な説がどう言おうと、
神の意志は果たされる。

だから、創造主たる神は幾度も、
炎を携えた火の使者を仲介として予知する人に
はっきりと示されるはずの未来の出来事を明かす未来に関する予言の諸々の原因を、
私たちの知覚と目に提示して見せるのだ。



なぜなら、外部の光からなる予言は外部の光を用いて、
部分的に必ず
ものごとを判断できるようになるからである。
事実、眼で見て理解されるような部分は
想像力を煩わす必要はない。


その理由は全く明白である。


“聖別された予言”を予言者にもたらし、天啓を授け、
幾夜にもわたって現われる種々の幻で
予言者から想像を取り除く神の息吹きと、
予言者に鼓吹される天使の霊感とで、
すべては予言されるのであり、

予言者は、未来に関する“聖なる予言”と結びつく天文学の知識を駆使し、
自由な意志だけを保持しながら、昼中の確実さで予言するのである。


わが子よ、
今こそ、啓示された霊感と一致する予測で私が見出したことを
理解しに来たれ。

疫病と、三人の男が原因で起こるこのうえなくおぞましい戦争と
飢饉のもとに、
死の剣が私たちに迫っているからだ。

そして、この剣は地上に振りおろされ、
たびたび、これが繰り返されよう。
というのは、天体が変革に一致しているからだ。


これは主の言われたところでもある。
「私は彼らをその邪悪さゆえに鉄の棒で悩ませ、
彼らに苔打ちを加えるであろう」


神の慈悲は、わが子よ、
私の予言の“大部分”が実現され、
この実現が全きものとなるまでは、
暫時広まることはないからである。


それで、不吉な嵐の最中に何度も、
「私は彼らを打ち倒し、打ち砕き、憐れみをかけない」――と神は言う。


他に無数の出来事が、水と降り続ける雨によって起こるだろう。
そのことは、私が他の予言のなかで
いっそう十全に書き記したとおりである。


私の予言はすべからく、「散漫な文体で」書かれており、
場所、時間、あらかじめ定められた期限を限定している。

後世の人びとがそれらを見て、
私が他の予言については“より明瞭な言葉”で書き留めておいたとおりに、
出来事が起こっていくのを悟るだろう。


というのも、この不明瞭に思える外観にもかかわらず、
これらの事柄が理解できるようになるからだ。

“しかし、無智が一掃されたときに”
事情はさらに明白になるだろう。



     ノストラダムス(御像)image


この手紙を終えるにあたって、わが子よ、
おまえの父親ミシェル・ノストラダムスのこの贈物を受け、
願わくは、
ここに収められた四行詩から成るそれぞれの予言を世に知らしめんことを。
おまえが繁栄ある至福のうちに末永く生を享けんことを
不滅の神に祈念し奉る。

             サロンにて、1555年3月1日


ノストラダムス(墓碑銘)image


一見すると、暗澹たる未来を映しているだけのように取られがちですが
真意は別のところにあるんじゃないか・・・と思ったりします。

そして、
すでに成就されているかのように取られている4行詩
実は他の読み方をすると別の意味も含まれているのではないかな・・・とも。


ちなみに、

1999年7の月(もしくは7ヵ月)という数字が入っていて、
「何も起きなかった」と酷評された4行詩。

この1999
ノストラダムスが使っていたかもしれない
地上を管轄する“7大天使”の支配サイクル(トリテミウス方式
一つの天使が管轄する1期間〔天使の支配する1年〕を354年4ヵ月とする。
天使の1ヵ月は約29年半となる)・・・に似たやり方を用いて
眺めていくと・・・。

ノストラダムスが存命だった時代は大天使聖ガブリエルの治世で・・・。

西暦で言う1881年に、支配の交替があって
つぎの大天使聖ミカエルの治世となり、
その7番目の月(29年半×7≒=206年ほどのち)になった時が
1999年の7の月

つまり「2087年」辺りを指す?・・・と言われたりもしています。

まあ・・・これは
ノストラダムスが問いかけた、ひとつの謎かけのようなもので
数年前にネットを騒がせた
あの謎の暗号「Cicada 3301」の中世版かもしれませんが・・・。


いずれにしても、

世界中で幾多の解説書が出ているとはいえ
ノストラダムスの予言詩を完璧に読み取れる人は
それほど多くないでしょう。
また、もし居ても、その人たちはたぶん
興味本位や自己の利益のような理由では
読み取ったことを外に漏らさない気がします・・・。


ノストラダムス(とある肖像)image_convert_20150127220410



文末に、4行詩の一つから。

  崇高で無限の体たちが眼に映るも
          それなりの理由で曇っていき
  額を含む体、五感、頭部、それに視えざる者たちは、
          聖なる祈りを貶めるだろう。  (Ⅳ-25)



*****

殺伐とした出来事が多々起きていく時にこそ
人の核心部分に善良なるものを保つことが肝要。



みなさんの日々に、聖なる護りがありますように。




ノストラダムス(黄金の光と舟)image



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日本への「想い」がふたたび湧いて・・・

Posted by 世羽 on 19.2015 歴史もの   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
「集団的自衛権の行使を認めません」・・・とかで
国会周辺で女性によるデモがあったようだ。
調べてみたら、発表参加人数7000人の割には小規模で、
主立った方々も・・・まあ、その・・・あれだ。

こうした主催者たちに賛同していく人(日本の方)たちは
本当に集団的自衛権の行使の何たるかを熟知したうえで
論旨を展開しているんだろうか。

こういう人たちの多くはたぶん
Edward・S・Millerの『War Plan Orange』(オレンジ計画:対日侵攻50年戦略)とか
読んだこと無いだろうなあ・・・。


歴史(サクラと時計)image


先日の北海道の成人式で起きた「日の丸」没収・・・。
寂しい気持ちで眺めました。

  (式典で国旗(日の丸)が配られてすぐさま、
   「邪魔でしょうから」と言って回収する人たちが現れ、
   「私が貰った日の丸ですから・・・」と拒む人がいても
   強制的に奪うかのように取り去って、“即座に”ゴミとして捨てた出来事)



国内の一部の人からすると、日の丸は戦争の象徴で、
厭うべき対象、また国歌は聞くに堪えないものとされているようで
そのような主張を掲げる先生のいる学校などでは
国旗は揚げない、国歌も教えない、歌わせない・・・方向に流されていくようです。

そして・・・

先の大戦における日本は悪鬼のごとくに説明されて
隣国へ修学旅行へ行った生徒さんたちに土下座をさせて
謝罪させたりする出来事もありましたね。

しかし、

いまの日本は
これまでの先人の方々の歩みの上に成り立っているわけで・・・

その道程の真実を知らず、
“感謝の心”も抱けなくなれば、

また、

自国の国旗や国家に敬意も抱けなくなれば、
いくら“特殊な性質を帯びる日本”でも
護りが失せる時が来る・・・。


歴史(危ない橋)image



興味深いことに・・・

よく引き合いに出す「あの幻視」のとある場面で
キリストがこんなことを言っています。

これもよく心するように。
国を滅ぼすのは、敵の軍隊よりも、
外国の人々との安易な同盟と、その懐柔策に乗ることです。

神と祖国の法律に忠実であれば、
強い軍隊に囲まれても勝つことができるでしょうが、
外国のとろけさせるような蜂蜜の毒に当たってしまうと、
その罪科のために
神はあなたたちを捨て、偽りの同盟国が戦いを挑まなくても
負けてしまいます。

ずる賢い同盟国に絶えず警戒する必要があります。

外の国の人に取り入り、色々な特権を得るために
その習慣と風俗を受け入れたことこそ、祖国に与えた最大の損害です。
これを決して忘れてはなりません。

私たちの信仰を持たず、習慣を持たず、
何世紀にも渡って私たちに損害のみを与えた国の人々に対して
愛を保つのは善いことです。

しかし、私たちの隣人でもある人々への愛においてでも
“何かの利益を得られる”という計算からのために
神の律法と祖国の法律とを決して忘れてはいけない。(略)

尊敬と自由とは
父と母(神と祖国)とを忘れて得られるものではありません。


  (当時のアンティオコ・エピファネの時代の小さな国分けのことなので
   今でいう同盟国とは意味が大きく異なるが、日本の国内状況に似ている気がする)


で・・・


日本にはもともと、
気づかぬうちに他者のために尽くしている・・・といった、
無形の、素敵な心の動きがあります。

会社などで、なんだかんだ文句を言いつつも
一生懸命やってしまう・・・そんな感じです。

それは先の大戦での兵士の戦い方にも
明らかにうかがえていました。

ですが、いまは・・・それが酷く誤解されて
受け取られています。

英霊とされている人たちを含む戦没者すべてに対して
鎮魂の意を向けるという当たり前の行為も否定されて、
軍国主義の発露などと叩かれる。

しかもそこには、宗教の信仰の観点がどうのこうのとか、国粋主義だとか、
色々な理由が付加されて・・・。

亡くなった人々への慰霊の気持ちというのは
そんなものに縛られるようなものでしょうか。

自分からすると、おかしな世の中です。


歴史(南京1942頃の日本のこども)image


あの、南京に絡むいくつもの事件にしても
“異なるお国”の意図をかつぐ方々の言うとおりに
史実として子供たちに教えられたりもしています。

南京「大虐殺」についての教え方もしかり。
事実を示すと「なかったことにするのか・・・」と怒られます。

たとえ別の見方を示しても、そうそう受け付けてくれません。

そのほかにも、

たとえば、2012年の富山県
日教組の教研集会で、
この「日本軍の“百人斬り」を事実と断定して中学生に教えるという
教育実践の報告がされたこともありました。


この“百人斬り”は・・・
昭和12年、
東京日日新聞(現毎日新聞)に「南京戦百人斬り競争」として掲載され、
旧日本軍の元将校2人が、
自分たちのどちらが先に日本刀で(敵を)百人斬るかで競争をした・・・
という内容のものです。
両名はのちに、中国南京市の雨花台で銃殺刑になった史実として
ご存じかと思います。

第3大隊第11中隊の兵として従軍したという望月五三郎氏の著書
『私の支那事変』が重要視されていたときには、
そんなことがあったんだ・・・という雰囲気にもなりました。


歴史(百人斬りの記事)image


一方、事の真偽をめぐって、いろいろな識者のあいだで論争も生じました。

山本七郎氏と本多勝一氏との論争はあまりに有名ですし
ノンフィクション作家の鈴木明氏が元将校の遺族らを取材し、
その結果をまとめた著書『南京大虐殺のまぼろし』(大宅賞受賞作)で、
「百人斬り」報道に疑問を提起しています。

そして1989年(平成元年)。
毎日新聞(元の東京日日新聞)は、発行した『昭和史全記録』で、
「百人斬りは事実無根だった」
自社の報道を否定しました。

で、のちに
向井少尉と野田少尉の遺族朝日新聞・毎日新聞などに
訴訟を起こします。

このとき、原告側証人として
新聞記事の写真を撮影した元東京日日新聞カメラマンの佐藤振壽氏が出廷し(一審:2004年7月)、
「記事はでたらめだった」と述べました。
さらに佐藤氏は、
週刊新潮(2008年)の取材につぎのように述べました。

「敵と300メートルの距離があっても鉄砲一発で殺せる戦場で、
チャンバラなんてありえない。
あれは 与太話を面白おかしく書いただけ。
あの写真が中国で飾られているのは忸怩たる思い。
たった1回、シャッターを押したんだ。
記者に『将校が2人、煙草を切らして困っているからあげてくれ』と言われて会い、
その時に撮ったものが、ああいう記事に使われたんだ」


向井少尉の次女、千恵子さんによると、
『あんな写真を撮らなければよかった』と、何度もおっしゃっていました」・・・と。

けれども、土肥章大裁判長のもとで行われた裁判では、

「記事は、2将校が東京日日の記者に
“百人斬り競争の話をしたこと”をきっかけに連載され、
報道後に将校が百人斬りを認める発言を行っていたこともうかがわれる」
と指摘があり、
注:ただし、この話というのも、確実な証明がされていない)
   
その上で
「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、
何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」
との判決理由で、
“いずれの証言も確実とは言えない”という主旨のもと
原告側の主張は退けられ、遺族が敗訴しています。

(公平に見ると、裁判そのものは、そんなふうに結論するしかない感じでもあります)

ですが、かといって、
この“百人斬り”歴史的真実として
完全に認められたわけでもないわけで・・・

「それを“なぜ”、日本軍を誇大に悪く描いてまで
自虐的な歴史授業をするのか」
と識者たちが問うのは
一般的な感覚のように思います。

では・・・「なぜ・・・?」

そこには
わかる人にはわかっていても
知らない人にはずっとわからない・・・いろいろな背景があるわけで。
そのあたりを、みなさん自らが探って、
冷静な心で知っておいてほしい・・・と思ったりします。

記事を書いた浅海一男氏については
その気になれば
どんな思想の人物で、過去にどんな記事を書き、
中国側についていた事実を調べることができます。

この記事をとりあげて膨らませた本多勝一氏の人物像や背景も
調べてみれば知ることができるでしょう。

そのうえで、肯定しようと、否定しようと
どんなふうに解釈しようと、
それはそれで、指向(思考)の自由というものです。


それらの過程無くして、いまもこの日本で
「加害の事実」を教えると称し、
公立学校での平和学習として、 “百人斬り”などの新聞記事や写真を生徒たちに見せ、

「日本は中国に“攻め入って”、たくさんの中国人を殺しました」

「戦争になったら、相手国の人をたくさん殺せば殺すほど
 勲章がもらえて讃えられるんです」

「だから殺されたのは兵士だけでなく、一般のお年寄りや女性、子供たちもです」


などと、“一方的に”教えこむとしたら、かなり不公平です。



かの将校らは、記事を書いた浅海一男氏に再三、
「本当のことを言ってほしい・・・」と訴えていたようです。


彼らは、こんな言葉も残しています。

「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。
南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。
死は天命と思い
日本男児として立派に中国の土になります。
然れ共、魂は大八洲に帰ります。
わが死を以て
中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、
日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。
中国の奮闘を祈る。
中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」

                                       (向井少尉遺書の抜粋)

「私の事は世界も正しく見てくれる日も来ます。
世間様にも正しく知らせて下さい」
 (向井敏明少尉の二女、田所千恵子あて)


「この度、中国法廷各位、弁護士、
国防部の角井、蒋主席の方々を煩わしました事につき
厚く御礼申し上げます。

只、俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺の罪名は絶対にお受け出来ません。
お断りいたします。

死を賜りましたことに就いては、天なりと観じ、命なりと諦め、
日本男児の最後の如何なるかをお見せ致します。

今後は、我々を最後として
我々の生命を以て
残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。

宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、
面目を以て感情的に判決したり、
或いは、抗戦八年の恨みを晴らさんが為、
一方的裁判をしたりされない様、祈願致します。

我々は雨花台に散りましても、
貴国を恨むものではありません。

我々の死が中国と日本の楔(くさび)となり、
両国の提携となり、
東洋平和の人柱となり、
ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
何卒
我々の死を犬死たらしめない様、これだけを祈願いたします。
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳」 
 (野田毅陸軍少佐の遺稿)


この言葉が、彼らの心の真実か否か、
また本当に嫌疑の事実とがあったかどうかは
いまとなっては証明のしようもありません。
(時間旅行あたりが現実になったら、確かめてもみたい)

確かに、当時の日本軍が
出来た人ばかりで構成されていたわけではありませんから、
ときには、かかる類の愚行もあったでしょう。
現在も、東南アジアなどで「賠償を!」と訴える人たちがいるのも事実ですし
恨みを抱いている人たちもいます。

しかし、だからといって、
軍に携わった人すべてを悪辣な不届き者と見なしたり
戦争の原因を日本のみに帰すのは間違っている・・・
自分はそう感じます。


歴史(遺言)image



戦争が悪いこと・・・と教えても
どうしてそれが起きたか
学校でも社会でも
正確に伝えられることがほとんどありません。
また、知ろうとする人も少ないわけで。

なので今では「特攻って、無駄死にのアホ集団」と言う人さえ
出てくる始末です。


   歴史(日本の兵士のどなたか)image


   歴史(特攻2)image



歴史(特攻)image



そんな状況を眼にするにつけ、
どのような道筋で、やむなく日本が先の大戦にいたったか、
また戦況に応じて、悪いことだけではなく
パラオで見せた日本軍の姿など、
もっと多くの人たちに“自ら”知ってほしいなあ・・・と改めて。



古からつづく「日本の心」を失っていなければ、
こんな歌に込められた想いなどもわかるでしょうか・・・。


  己が身の
     おぼえないこときかれるれど
          いかに答へん言の葉もなし


  靖国の
     み魂と共に吾も亦、
  幾世をかけて
     み国護らむ
        (とある陸軍大尉の言葉)


歴史(先人の心)image



歴史(パール判事の名言)image

     歴史(碑文拡大)image




*****

自分の“居る場所”をまことに愛せる人は
この世界全体も愛せるだろう。


そのとき、その人は
先につづく、永遠なる道も愛するに至るだろう。



歴史(日本の某所のサクラ)image


歴史(とある階段)image


釈尊の「無常」・・・移り変わるもの

Posted by 世羽 on 14.2015 道草   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
先日、エクアドルの大統領が自国の国旗の変更について発議した・・・と、
現地在住の人がつぶやいていた。
なんでも最大の恩恵国である中国の国旗に似せるらしい。
影響は周辺国にも及んでいるようだ。
日本人のあまり知らない世界が「赤色」に染まっていくけれど、

あとで気づいて「しまった・・・」とならなければいいが・・・。

と・・・。
思惑をはずれて、地下の動きが表出しない。
強弱を繰り返しつつ、いまだ続いている・・・それも長い
地球の勝手とは思うが、ほどほどのところで
いったん出してほしい。


釈尊(の未来の弟子)image



  (以下、門外漢による、たまの仏教探索・・・なので、
           理解が乏しい場合は、どうぞご容赦ください)



数千年も続いている教え・・・。

人を聖化する“何かしら”が含まれて、かつ継続しているものは、
存続してきただけの価値があって、
尊敬するところがある・・・と感じている自分。

なので、自身は「別の心の指針」を持ちながらも
まことに聖なる人たちを輩出してきた別の「教え」を紐解くときには、
尊崇の念をもってあたるようにしています。


基本的なことを知っている程度ですが
「釈尊」の教えなども、やはり凄い・・・と思っています。


ちなみに、釈尊の生まれる以前の情景が、
シャーキヤ(釈迦)の神話として
想像力をそそるような表現で描かれています(『律蔵』)。

(かいつまんでみると)

そのはじめ、世界は海水だけだった。
あるとき、ひとつの生命体が
光音天という世界から降ってきた。


この生命体は光り輝くもの。
空中を自由気ままに泳ぎまわり
「喜」と「楽」を食物とし、長寿だった。


このとき、この世界には
太陽も、月も、星もなく、昼と夜、貴賤の区別もなかった。


のちに、この生命体は“固形の食物”を摂るようになり、
やがてその食物は食べ尽くされてしまった。


そこでその生命体は「青色の苗」を食して命をつないでいたが、
そのうち「妙香稲」というものから収穫した実を摂るようになった。


のちに男の性と女の性が生じ、その結合から多くの生命も生じ、
やがて人間を生じ、
そこから人々を治めるクシャトリヤ(階級)の「王」が出た。


注:以下の名称は教典によって異なるが・・・たとえば)
「獅子頬」という名の王がいて、
「浄飯」「白飯」「斛(こく)飯」「甘露飯」という4人の男子、
「清浄」「純白」「純斛」「甘露」と呼ばれる4人の女子をもった。


その浄飯(シュッドーダナ)王の子として、
のちにブッダとなるガウタマ・シッダールタと
ナンダと呼ばれる2人の男子が産まれた。



釈尊(出家前の)image




とある仏教の先生がこの「飯」について
釈尊の生まれた北インドには稲作もあったが
主として麦を使う食材を主食としていたのだから、
「飯(オーダナ)」という稲米に関連する言葉が使われているのは、
釈尊の出た一族が稲作に関わっていたのかも・・・と言っていました。

米を主食としている身からすると、どことなく、親近感が湧いたりします。


釈尊(神話のなかのイメージ)image


釈尊の生涯は、色々な書籍になっていますし、
よくご存じと思います。

その教えも、
日本では「西欧の宗教」よりずっと深く根付いていますから、
それなりにご存じと思います。

そんななか、

自分はときおり、
釈尊の説いた「無常」というものを想い浮かべることがあります。

学生のころ、一度は試験で書く・・・かもしれない
「諸行無常」の無常・・・w。

無常と聞けば、
「はかなさ」「切なさ」を覚えたりするわけですが・・・。

それにしても、
このたった2文字の言葉の示す意味は深いなあ・・・と
そんなことを想うのです。


       釈尊(StandingBuddha)image


釈尊が説く無常は、
「常なるものは無い、すべてが変化していくもの・・・」
という意味を含んでいて・・・

人が自分の思いどおりの人生を歩んでいるようでも
つぎのどこかの瞬間、
瞬く間に変化して「苦」とも言える現実に遭遇したりする。

このとき人は「無常」(変化の局面)に出合っている・・・
というのです。

釈尊はそれを「真正面から受け止めよ」・・・と説くわけで。

このことは頭のなかの理解では受け止めがたいものだが、
それは、人生を生きる過程で起きる現実。
だから生きるとは「無常を観る」と言うことだ・・・。
出合った無常がどんなに辛くても
逃げずに生き抜け・・・。




とは言え、


そんな「無常」(とりわけ自身の好まない現実への変化)から逃避せずに
受け止めよ、と言われても、凡人にはけっこう難しい・・・。


できるかぎりのことをして踏ん張ったとしても
そこには「ああ、逃げたい。なんとかしたい」という思い、
葛藤が生まれます。

場合によっては、自分ではもう、何がなんだか、
どうしたらいいかわからなくなってしまうときも。

で、自己を超えた「何か」に帰依し、祈って、道を開く。

そんな「道」の歩き方を釈尊(今の仏教)は教えてくれているようで・・・。


釈尊(とある絵画)image


こうした道をゆく人は、その過程で
自己とは何か、という問いを抱えたりします。

すごく微妙ですが、釈尊の原初の教えでは
今風の「自己」の解釈、
たとえば“不滅の魂”を本当の自己として観ていないようで・・・

無常として変化しつづける存在こそが“本当の自己の姿”、
「無常を生きる」ところに真の自己実現がある
・・・と説いているかと。

そして釈尊は

自我の欲望を“思い通りに実現させようとする自分”という存在は
いずれ破綻するもの、それは本当の自己ではない
・・・とも言っている。

いずれにしても、現代風スピリチュアル的な「自己を知る」というものは、
釈尊が“当初に”説いたものとは微妙に違う・・・感なわけで。

    (余談:仏教の“根本思想”をよ~く眺めてみると、
    現代の「トレンド化した悟り」というものには、
    西洋圏から逆輸入されたがゆえの思想が混入していると捉えるとしっくりいく)


現代ではしばしば、
悟りを開くと、その先はただ喜ばしいことだけ・・・
完全に人生苦が滅せられる・・・と、解釈されている向きがあるかもしれません。

一方、悟りを開いた釈尊は、そののちにもいろいろと心を揺るがされた・・・と
記されているかと。


釈尊(インドの古い仏教寺院)image


また、過酷な修行を捨て去った釈尊でしたが、
弟子たちに、心の研鑽のための戒めを求めていました。

それゆえ、釈尊の入滅後に弟子らが悲しみに暮れるなか、
釈尊の死を“喜んだ”スバッダという僧もいたわけです。

そのスバッダはこう言っています。

「友よ、嘆くことはない。悲しむこともない。
私たちは偉大な修行者から解放されたのだから。

私たちはこれまで
“これはしてよい、これはするな”と、口うるさく束縛されていたじゃないか。

今日からはやりたいことをして、やりたくないことはしないようにしよう」


(色々な意味で考えさせられる・・・・w)


釈尊(座る)image



釈尊はけっこう頻繁に「この世は“無常”だ」と口にし、
「無常を“生きてこそ”自己実現がある」・・・と捉えたわけですが、

そんな釈尊は当初、
自身の深淵な経験から得たものを他者が理解するのは
非常に難しい
と感じ、布教を拒みました。

この心情は、それとなくわかる感です。


「現世で心の平安を求める涅槃の生き方」・・・これが
仏教の教えの本質にあるとされています。

そして釈尊は、
現世における「苦」や「不安」などの解決を模索し、
自身でそれを会得した方。

その会得したものから
「自我の欲望をほどよく抑制するところに“心の平和”があり、
それが前向きに生きる生活にも連なっていく・・・」
と、
繰り返し伝えている・・・。

さらに釈尊は言います。

「貪りと怒りに動かされている人に
この真実は容易に悟れるものではない。
それは“世間の流れに逆らうこと”・・・それは微妙で、観がたい・・・
欲望にふけって闇に覆われた人々は観ることができない」
(『相応部経典』)


なので、

釈尊が“無常”というものを持ち出して語っているひとつは、こんなこと・・・。

「人が無常の現実に出合ったとして、
無常はそのまま素直に受け入れるよりほかに方法はないが、
人間の自我の欲望はそれを否定する。
容易には受け入れない。
なぜなら、自我の欲望は
真実を真実として素直に観る叡智を奪っている。

欲望を制するというのは“この世間に逆らうこと”でもある」



釈尊の悟りから出たこの言葉は
別の宗教にも感じることができます。


釈尊(ご像)image



ということで・・・当たり前かもしれませんが


どんな宗教においても
名を残すほど偉大な「聖なる御仁」を“真”に理解するには
凡考しか浮かばない自分のような乏しい理智では、遠く及ばない・・・
そんなことを感じる次第ですw。


*****


それでも・・・世界には
釈尊の教えを真摯に追ってみたいと望む人々がいて・・・。
うまくは言えないが、それも素敵なことではないか・・・と想ったり。




釈尊(小さな僧侶)image



釈尊(タイのお弟子さんと犬)image



釈尊(像さんと小さな僧侶)image


「2020~2025年」辺り・・・

Posted by 世羽 on 08.2015 つぶやき   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
たとえ、自分の信じている神さまを愚弄されたとしても
神の名のもとに、報復の殺戮を行うのが愚行であることは
中世で学んだはずなのに・・・
かえってそれは、神の本質を汚し、民衆を神から離反させることになるのに・・・
そんなことをして「本物の神さま」が喜ぶはずがない。

と・・・関東住みの自分。
地下から、これまで聞いたことのない大きな堅い音を捉えている。
近場のそこそこの大きさの発震か、あるいは海外での大きめの動きか・・・。


その辺り(陽光とシルエット)image



人間の歴史上、時代の節目になると
いろんな予言(レベルは色々)が流れ、
人の心を揺り動かしてきました。

「時代の終わり」「世の終わり」に関する幾多の予言、
ときには
「キリストの再臨」などが関連づけられて語られもします。


キリストの再臨・・・これについては
実に様々な解釈が海外から発信されており
キリスト教圏でない日本にも流れて来ています。

しかし、「その時」は、
キリスト自身が「その時は御父のみが知る」と言っているわけで、
人が、勝手な時期を明言できないかと。

(そんな時が来るにしても、その戻り方は一応はっきりと示されている)

聖書に記された「時の終わりに起きるだろう」と言われる
いくつもの大異変・・・
それを取り上げて、人の心を不安に陥れるとしたら・・・
それは、恐怖の伝染を促すだけで、空しいものがあります。

とはいえ、この世界を見据えると、

この世界をどうしていきたいかについて
人類一人ひとりが真剣に考える時期にさしかかった・・・のは
事実と思われます。

どれくらい先に、何が起きるかわからないにしても
つぎのことが起きています。


第1に

この世界に継続されてきた「既存の大宗教」(キリスト教以外も含む)の存在と、
その概念が、おおまかだとしても知れ渡った。

そうした宗教に連なる聖なる人たちは一様に、
人心をできるかぎり聖とするよう導いてきた。



第2に

「偽キリストあるいはメシア」がこれほど頻発している時期は
かつてなかった。


それは(以前から書いてきたように)1960年代~1970年にかけて
西洋諸国から始まった「カルトな思想」の巨大なうねりに
この世界が巻き込まれ始めたことに始まる。


この「カルトな思想」の多くは、
リラクゼーションと自己実現のために、
人々を“唯一の”「自然」、“唯一の”「科学的」技術としての思考へと
導く方法をとっている。


この場合のカルトとは、

既存の宗教の特徴の全てを有すると銘打って、
意識の高いレベルを達成するという方法論と技術を染み込ませながら、
その裏で「神の不在」を印象づけるものを指す。


 (ゆえに、純粋に人を癒すものなどは含まない)

加筆すると・・・

これまでの歴史のなかでも「偽メシア」は登場してきたが、
現在ほど、
大・小の自称「メシア」(救世となる存在)が登場したことはなく、
ときに、そのメシアと称する存在は
追随する人々には察することができないとしても
名誉欲、金欲、性欲などへの自制に乏しく、
霊的に眺めれば、
追従する者をエネルギー的に搾取するという異常性を併発している。



第3に

先の大戦で終結したかのように錯覚されているが、
いまだ各地には「戦争」が燻り続けており、
これまた1960年代を皮切りに、形を変えて、
世界各地で歴史的な暴動やデモ、場合によっては“局地的な戦乱”を巻き起こし、
しかもそれらの多くが
曲解されたいくつものプロパガンダに煽動されて暴徒と化すだけで、
デモや暴動ののちに、真の平和が生じない。


さらに、自分の住む環境にこうしたことが起きなければ
なかったことに同じ・・・とされて、
多くの場合、人々は無関心となる。
それは、貧困にあえぐ国への乏しい対応にも見られる。



第4に

地球がこれまでとは異なる活動をはじめ、
異常な災害がいつどこで起きても不思議ではない・・・
と、人々が身をもって感じるようになった。



第5に

第1に関連して、人類が「概念での天動説」・・・つまり
人がすべてを創っているという発想を“誤解”して捉え始めたこと。
そこには、ひとつの計画が潜んでいることに気づかない。


ニュー・エイジとニュー・エイジ・ムーブメントが
ごっちゃになっていても、疑問を呈する人がほとんどいない。


加えて、そんな誤解のもと、
「新しいものを知る」ことへの優越感を揺さぶられ、
無意識の領域で「傲慢」の芽が育ち始めている現状がある。



これらに輪をかけて、
新たな「大戦争の噂」でも出てきたらけっこうシビアな状況ですが
幸い、何とか食い止められている感です。


 (これも・・・w)
その辺り(争いの)image



また・・・こんな話もあって・・・。

この1960年の中頃(1965年)~1970年“予兆の始まり”と捉え、
これに、世界的な人の平均寿命50年を加算するとします。

すると、2015年~2020年がつぎのサイクルの起点として浮上し、
さらに新たな動きが始まる可能性が推測できる・・・というのです。


で、今年はその2015年

詳細は書きませんが
この2015年から、さらに10年を経た時点・・・2025年までに
人類が本当の意味で、人を思い遣る心を育み
心と魂で、本当は「神聖な何かに」生かされていると実感できるようになれば
地球が殺伐とした世界ではなく
別のやさしい姿を示せる時間軸に進む可能性が高まる・・・。

(奇遇ですかね)
その辺り(2025)image


 (上記した見方・・・すべてではありませんが、自分の感じていることに似ています)


その辺り(星のある絵)image



ただ、そうなるには
人類の多くの協力が必要で、
日々を気ままに楽しむだけの心持ちでは、
うまく乗り越えるのは難しいかもしれません。

よく注意していると
歴史的な重大な物事が起きるときには
ほとんどの場合、
事前にいくつもの予兆が表れていることがわかります。

(繰り返される小さな現象に眼を向けることも無駄にはならない)
その辺り(2025年の現象とか)image


それらに注意を払える人であれば
たとえ、特殊な力など発現していなくても
何かしらを“前もって”感じることができ、
人生においても、またこの世界を形づくるにしても、
対応のための指針を持つことができます。

ただ人は、
自分以外の誰かの見立てに頼りすぎるところがあって・・・。

すると、
自らの内に宿る「何か」の促しや予告を把握する力が遠のきます。

始めは他者の力を借りていても
いずれは自身で歩き出すことが望まれます。

いまの世界は、

肉体レベルや物理世界で生きるための望みを叶えることが優先され、
内側に直結する「神霊」を発動する生き方にはなっていません。

上記したことを
本当の意味で附に落とすには
「聖なる何か」の助けが必要です。

その「助け」は願わなければ来ませんし、
願うにしても、信頼するに足る「聖なる何か」に求める必要があります。

「何か」と書くのは、聖なる存在の段階にもいろいろあって
誰がどんな助けを選ぶかは自由で、強制されていないからです。

それにしても、この求めは「遊び」ではありません。

お金持ちになるためでも、美しくなるためでもなく、
それほど生活に直結しない場合も多い・・・。
人の眼からすると、すごくどうでもいいものに映るでしょう。

しかし、真摯に願うとき
特定の宗教(それなりのもの)に属する人には、その霊威の助けが、
また、そうでない人には、宗教、信条、物理的な世界を超えて
必要に応じた恩恵が必ずもたらされることでしょう。
(世間での嘘や偽りにも、敏感に反応できるようになる)


可能なかぎり、そんな「聖なる力」を携えて、
この世界に表出する出来事をよく見抜いていくことが
これからの時期にとても大事になるでしょう。

いまは、何かを上辺で批判するより、
自己の心眼を磨くとき・・・そんなことを強く感じています。


*****


微かでも、“神聖な灯火”が自分の奥底で揺れているのを感じようとするなら、
人はそれほど労せずして、
追々、その暖かさをはっきりと自覚できるようになる。

その暖かさは共に暮らす家族、
友人、知人、そして見知らぬ人へと必ず伝わる。

この力がどれだけ凄いもので、
いかに世界に良い影響を及ぼすかを知る人は幸いだ。

そこに居るだけで、周囲を和ませる人・・・平和をもたらす人・・・
そんな人は、霊的な視点から見れば、どんな境遇にあっても
本当は、とても幸せな人。



     その辺り(アルジェリア付近の)image



その辺り(Zambiaの子供)image


    その辺り(大陸内地のどこか)image


激動の・・・でもおだやかに・・・

Posted by 世羽 on 04.2015 つぶやき   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
年が改まって早々、とある話題が流れていた。

それは、超大物歌手グループのライブで、バック・スクリーンに映し出された映像。

日の丸に×印」をつけ
「中国領土釣魚島」(魚釣島のこと)と流していた。

もし意図的であれば、開いた口がふさがらん。

さらに、ここのところ神社の放火も相次いだ。

信徒ではなくとも、多くの人が大事にして、尊崇の対象としている場所に
平気で火をつけるような根性は、人のものにあらず・・・だ。

たとえ、法が及ばないところに逃げても、
いずれ霊威の反動が及ぶだろう。

こういうことがわからずに悪行をする者こそ、
本当の「恐いもの知らず」と言える。


新年(羊の群れ)image




さて・・・。

謹賀新年・・・。


遅ればせながら、

新しい年の始まりの季節を
       共にお慶び申し上げます。


新年の(2015)image


で、日本の今年というと、干支が未年・・・。

覚えやすくするために動物の「羊」が割り当てられたとはいえ
一応、ヒツジさんを象徴として用いているわけで。


     新年(笑う羊)image


干支はその年の本質に関わりないと思いつつも
いつもの性分で、リアルなヒツジさんの姿を探してしまいましたw。


ヒツジさん・・・と言えば
思い浮かぶイメージは案外、固定されているかもしれません。


新年(羊さん正面から)image



そして、ときには
どれがヒツジでどれが山羊か、わからなかったりすることも?

(本記事のなかにヤギがまじっていたら、そんなわけ・・・からです。・・・あしからず)


    (ちなみに下は山羊さんの子供)
    新年(遊ぶヤギさん)image



(ヒツジさんには大きな角を持つものもいるようで・・・)

新年(ロッキー辺りのbighornsheep)image



ヒツジさんをどう研究して得た結果なのかはわかりませんが
学術的に言うと、ヒツジさんの知能は「豚より低くて、牛と同じくらい」・・・だそうで。

   (牛さんが豚さんより知能が低いというのも、イメージ的にピンと来ない。
    あ・豚さんにすごく失礼ですかね。申し訳ない)


遊牧の世界では、ヒツジさんから調達される乳は「貴重な食糧」です。
でも、独特の臭いがあったりするので
いまではよほどネイティブな世界で飲まれるにとどまって、
もっぱら、モコモコな羊毛に最大の需要が集まります。

これは、ヒツジさんの命をそのままにできることなので、なんかホッとします。


でも、シビアに見ればもちろん、
人の食用として役にたってくれているヒツジさんがいます。

 (ちなみに、ラムとマトンの違い
  ラム・・・・生後1年未満の仔羊の肉。マトンより臭みがなく、味にくせがない。
  マトン・・・生後2年以上から7年ほどまでの羊肉。特有のにおいがあり、
                    多くは香辛料でそれを消す)
  ホゲット・・・生後1年以上2年未満の羊肉。マトンの臭みがなく、 ラムより味が濃い)


何も食べずに、光のみで生命を維持する体を目指し、
動物さんたちにしても、植物さんたちにしても
眺めているだけにしておきたい気持ちはあったりするのですが・・・

「おせち」など、ばっちり食している自分、
いまのところ本気になっていませんで、
ひたすら「ありがとね」で感謝するに徹しています。


新年(ラサ辺りの羊さん)image
(ラサ辺りのヒツジさん)


そんな動物さんのなかのヒツジさん・・・その姿を眺めてみると・・・。



羊毛が暖かいからなのか、背中にいろんなものが乗ります。


新年(ヒツジの背上のねこ)image


新年(ヒツジの背上のわんこ)image_convert_20150104181941



背中だけでもない・・・w。


新年(羊さんの鼻と鳥さん)image



同じ「乗る」でも、米国などでは子供のロデオにも登場し、
温厚そうな姿とは別の一面を見せています。


新年(羊さんに乗る)image


新年(羊さんに乗る3)image


新年(羊さんに乗る2)image



世界にはいろんなヒツジさんがいて
とりわけモフモフなタイプは、まさにぬいぐるみ状態です。

(下はシュバルツナーゼ)

新年(シュバルツナーゼ2)image


新年(シュバルツナーゼさん)image


新年(シュバルツナーゼ3)image



そして、

どんな種類でも子供のヒツジさんは
とにかく可愛い・・・。


     新年(子羊さんとわんこさん)image



ヒツジに象徴されるような干支の観点で占われる見方は色々あります。

それらは別にして、
個人的に2015年は、
ある意味、世界的に「激動」の年になる予感がします。


新年(招かれざる羊さん)image



ですが・・・そのようななかにあっても、自分としては・・・


多くの人の「心」
可愛く優しげなときのヒツジさんのように

誰かを乗せる暖かい「乗り物」になれて
誰かの悲しみや苦しみを癒すものにもなれて・・・

たとえ一時的に、
この年のどこかで荒ぶる波の様相を呈したとしても

ヒツジさんが象徴となっている年を
みなが上手に乗りこなしていけたら・・・と
そんな想いを抱いています。


    新年(羊さんを乗りこなす)image




引き続き、みなさんの上に
       絶えざる、たくさんの幸せが舞い降りていきますように。




新年(アフガニスタンのヒツジさん)image


新年(パキスタン辺り)image


新年(ペルー辺り)image



     新年(場所不明のヒツジさんと少女)image


    新年(羊さんのいる真っ直ぐな道)image


  

プロフィール

世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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