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とことん「聖母」を愛した人・・・その霊性

Posted by 世羽 on 09.2014 聖人からの学び   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
当地もかなり雪が降った。

と、なんか、世界的に地下が動いている感覚がしている・・・。


とある太陽の光輪image_convert_20140209163208


(注:以下、イエズスと表記します)


長崎あたりではけっこう知られ、日本にゆかりのある
・・・ポーランドの司祭、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ・・・。


コルベ神父近影2imagejpg


アウシュビッツで、とある男性の身代わりを申し出
自らの命を捧げた人として、日本でも一時、話題になりました。
ご存じの方も、けっこうおられると思います。
(書籍もたくさん出ていますので、詳細な内容は、そちらに譲り・・・)


聖コルベの身代わりimage


この聖人の見せた「霊性」
それにもとづく“生き方”にずいぶん教えられたことがあります。

彼は、こよなく・・・というか
もう、猛烈に・・・と言っていいほど
聖母を崇敬し、愛した人でした。

彼は、短い年月ですが、日本(長崎)で暮らし、
宣教生活を送っていたこともあり
「ご絵」にこんなものがあります。


聖コルベのご絵image


左上の聖女は、24歳の若さでこの世を去った
“幼きイエズスの聖テレジア”(リジューの聖テレジア)で、
生前、コルベ神父がこの聖女にたくさんの助けを願っていたことを
記念してのことでしょう。

また、アウシュビッツの鉄条網が描かれ
左下には、日本の象徴のひとつ「富士山」が描かれています。

コルベ神父は幼いころ、親が心配するほどの非常に腕白な少年
将来を危ぶまれていましたが
ある日、とある“神秘体験”をし、態度を一変させることになります。


聖マキシミリアノ・マリア・コルベ(幼少)image


のちにわかったのは
彼が、そのとき聖母の“ご出現”を受けたこと。

そのさい、聖母は白色と赤色の冠を見せ、
「どちらがほしいですか?」と尋ねたようです。
少年だったコルベ神父は、「どちらも」と答えます。

“白”は司祭になること、“赤”は殉教を意味していました。
そして、コルベ神父はその通りの人生を歩みました。


聖コルベの帰天場所image


で・・・

その神秘体験もあったゆえ・・・かもしれませんが

コルベ神父の「神の母」である聖母に対する想い、
特に、「無原罪の御宿り」としての存在に対する崇敬、

不思議のメダイimage


“聖母を通してイエズスへ至る道”を目指す生き方は
峻烈、かつ目を見はるものがありました。


コルベ神父近影3image


ときおり、聖母に対する信心は幼く、
「イエズスをないがしろにするものだ」
批判されることがあります。

でも、特別な想いをもって聖母を崇敬する人がそうであるように
コルベ神父は、けっして神をないがしろにするつもりも
はたまた、聖母を「神」として見ていたのでもありません。

当然、キリスト教の完徳が
「自らの意志を神と一致させること」だと踏まえたうえで、

神に完全に一致していた聖母、その聖母に一致することは
とりもなおさず、神との一致である
・・・そんな霊性を育んでいたようです。


聖コルベのimage


その心の内を、つたない言葉で表すならば、

聖母マリアを、被造物のなかで最高に優れた人・・・もっとも“神に近い人間”としてとらえ
その人に最大の信頼を寄せた・・・
そして聖母を人類の「母」として見ていた・・・

と、言えるでしょう。

コルベ神父は哲学の博士号を有し、非常に優秀で、理性的頭脳の持ち主でした。
しかし、彼は
それをさらに上回る、心の感受性をもち、
その“心”で、聖母の存在とはどのようなものか・・・を
霊的に把握していた
ように思えます。


聖母マリア(無原罪の御宿り)image


おこがましいですが
なんとなくわかるのです。

「神」の存在を知ろうとしても、
人の頭、理性のようなもの
つまり、人間からの一方向的な接近の仕方だけでは限界があって
それを知ろうとするとき、それぞれの魂に応じた
いわゆる超自然的な「恩寵」が必要ではないか・・・と。

ここに、ひとつの“神秘”があるのではないかと。


聖母の御出現(ファチマ)image


今は聖人となったコルベ神父が、こんな言葉を残しています。


人間の心というのはあまりにも大きいので、金銭とか肉欲とか、
人を惑わし、夢中にさせる名声といったものでは
決して満たされることがありません。


人間の心はそういったものより、
もっと高貴で限りのない、永遠に続く善を希求します。
神だけがそういった善なのです。


人間は偉大であること、有名であること、幸福であること、
愛し愛されることを願います。


しかし、この世においては、
いかなる幸福も人間の心を満足させることはできません。
人間は常にそれ以上のことを、さらにもっと多くのことを
願い続けるのです。
人間が最終的に満足するのはいつのことでしょうか。


たとえ人間が最高の幸福に巡り会ったとしても、
その幸福にも限界があることに気づけば
さらにそれをしのぐ幸福を手に入れたいと願うでしょう。
「この限界を神の無限性に入れることができればなあ!」と。


人間はどのような種類の幸福を望んでいるのでしょうか。

人間は、限界のない幸福、
つまり、濃度、広がり、深さ、継続期間、その他のあらゆる点において
限界のない幸福を望んでいるのです。


神だけがそういった幸福であります。
神だけが種々の段階において、
この世の被造物に見られるあらゆる幸福の限りない源泉であります。


ですから、人間は
神ご自身を所有することを望んでいるのです。


しかし、どうすれば
人間は完全な幸福である神を所有することができるのでしょうか。
どうすれば
人間は完全な幸福である神と一致することができるのでしょうか。


わたしたちはできるだけ完全に、無制限に、相手は神であるけれども、
神とひとつにならなければなりません。

(中略)
全能の神の御手から生じている被造物は神に帰っていきます。
そして被造物は神のうちに憩い、
神とひとつになるまでは安らぎを得ることはできません。


限りある被造物としての人間が、完全なものとなり、
神と一致するためには
一歩一歩段階を踏む以外に方法はありません。


人間が神と同化するためには限りない時間、つまり永遠が必要です。
人間は常に限りがあります。
しかし、人間が越えなければならない場所は無限です。
この無限の場所が天国です。

                 (『無原罪の聖母』M・コルベ神父の言葉集より引用)


聖コルベ近影4image


コルベ神父はよく「ベリタス・ウナ」(真理は一つ)・・・と言っていました。

現代における真理とはいったい、
どんなふうに人の心に映っているでしょう。

もし、入り口が少し違っていたとしても
本当に真剣に、至聖なる御者を探すものは
とある天使の名前のごとく
「神を眼に映す者」となり、その真理に導かれていくのではないか・・・
そんなことを感じます。
その道筋は、人のはかれるものではなく、
また、人が人を強固に糾弾できるものでもなく
「神」のみが与えたもうもの・・・だと。

で、さらにコルベ神父の言葉を借りて吐露するなら・・・

「聖母よ、それではどのようにすれば
人はあなたのうちに
あなたを通して神が備えられたことを悟り、
それを言葉で表現することができるのでしょうか・・・」

・・・・・・。


コルベ神父の笑顔image


多くの聖人が、それぞれ“特徴ある霊性”をもって
聖母を愛していました。

(それらの足下にもおよびませんが)
自分も、馬鹿にされようがなんだろうが・・・

心の眼を閉じないで
聖母を「旅路の星」として見つめていたい・・・



聖霊の導きなimage_convert_20140209163941


かな・・・と。







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世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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