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「祈りの小径」・・・

Posted by 世羽 on 01.2014 語り   1 comments   0 trackback
(つぶやき)
災害現場に赴いてくださるボランティアのみなさんの姿を見るにつけ
むしろ、こちらが癒される。


修飾用(漁師たちベトナム)image



(本日は、“ジレンマ”を乗り越え・・・w、
書きたい・・・と思っていることの一端を記してみたいと・・・)



人は、多くの場合、
何か突発的、かつ究極な事態に晒されたときなど、
口をついて、あるいは心のなかで
「ああ、神さま!!!」・・・と
発することがあったりします。


修飾用(オーマイゴッド)image


もし、何かしらの宗教を奉じていたり、特定の信心対象や、
そのほか、特にきわめて愛する人・・・などが心にあると、
この叫びの「神さま」・・・の部分が、
“別の具体的な名前”になるかもしれません。

(ただ、ここに、何かしらの「物理的な名称」が入ることは、滅多にないでしょう)

また、

誰か・・・とても親しい人・愛する人が重い病気で瀕死の状態になったとき
見守る周囲の人は、何となく・・・だとしても
「何か」に祈ってみたくなったりする場合もあるでしょう。


修飾用(病人のために祈る)image


こうした現れは、人の歴史のなかで、
人から切り離せない一つの衝動として
たとえ無意識のうちになされていても、
人の歩みとともに繋がれてきた
“ごく自然な心の動き”です。


祈りは、長い歴史をもったほとんどの宗教において、
形こそ違えども、当然あるべきものとして扱われてきました。


修飾用(僧侶の祈り)image


ときに

突如として、(先にあげた突発的な例のように)心に浮上したり、
人によっては必要不可欠な行為(日常の祈り)として認識されているわけです。

それは、オスタハウスが言い表しているように

祈るという行為は
けっして、特定の教義や、形式によって規定されるようなものではなく
「祈り」という表現すら必要のない
人にとって自然で当たり前のこと
・・・でしょう。

またそれは、祈る人の心の状態いかんで
ある時には喜びとなり、笑い嘆き嘆願などにもなります。

祈りとはまた、
“方法や時間の長さ”などで定義されるようなものでもなく
その深さは、ひたすら「祈る人の心」しだい・・・。


つまり、祈る人の生き方や、
何かを信じているなら、対象となるものへの信仰の程度にもよります。

それでも、一般的に

他者を深く愛して真理に心を開く人、
生命の言葉を見抜く目
を持っていれば
人生のどこかの時点で必ず、
(もしくはそのような存在)の臨在を心に感じる・・・と言われるのは
確かなことで、祈りは、その“感じ”を促してくれるでしょう。


「祈りは、ある意味、人を一つにまとめるもの。
それは人の知覚、意志、記憶、考え、希望、感情、愛、そのほか
人のうちで働いているすべてものを統合し、同じレベルに置く」


そしてそれは、
人の全存在を一つの方向に向けて、心の焦点を上位の「何か」に合わせること。

この初期においては、
人が、親しい身内、友人たちに自由な心で好きなように語るのに似ています。


修飾用(担ぐ少年)image
   (労働の一つひとつのなかにさえ、祈りを込めることができる)


でも、祈りにはまだまだ先があります。

祈りはまた、
自分の存在の奥底にある
自分自身よりも自分に親しい「何か」を見出すことにもなるのです。


たとえ、実感できないとしても・・・

人の持つ密かな憧憬や夢、興味は、
科学では探知しえない未知の「何か」に向かって
絶えず開こうとしています。

そして、その心の動きのなかで

真実を求め、美や、愛や、正義を求め、
その途上で、何度も“本当の自分の一部”を見出していきます。


この探究の“ことさら深い意味”
実のところ
それが社会的に役立つとか、便利だから・・・ということではないのです。

多くの人は、神のような「何か」を直接体験することはできません。
しかもほとんどの場合、何かは「不在」であるかのようです。

ですが、この現実のただなかにあっても、
その「何か」を感じ、体験することができます。

祈りというのは、それを体験する入り口の“一つ”・・・。

この入り口を通って「何か」を感じる人は
理論や、気持ちすらも超えて、
素朴な素直さに満ちて物事を受け入れる心、沈黙を知る心
育まれます。

そして

今まで自分が捉えていた自身への理解が
独りよがりのものに過ぎない・・・と“悟る”小径へと導かれていくでしょう。


修飾用(少女と小径)image



祈りは、それ自体が成長します。



過去の“幼い祈り”(せがんで、何かを請う「ちょうだい」の祈り)は、

修飾用(幼子の祈り)image



だんだんと“大人の祈り”に変化してきます。
(この過程で、大いなる「何か」の意図に合わせる、それを受け入れることが
できるようになっていく)


修飾用(草の上で)image



そんななかで

あわせて心も成長していくと、
人は、自らの“醜い(と感じる)部分に直面することもあります。

このとき、真理というものが
容赦のない“浄め”として感じる人もいるでしょう。

すると、すべてが沈黙したかのように感じられて
まるで、水のない砂漠に放り出されたかのようです。

その浄めは、暗い夜、心の地獄であるかのように思え
そこから逃避することだけが頭に浮かぶかもしれません。

そのときこそ、「祈り」の力が助けとなります。

こうした経過は、体験して初めて附に落ちる部分が多いので
言葉で言い表すには、難しさが残ります。

しかし、そうした(一度ならず、何度も来る)体験をしていくと

人は、自己中心的に偏ったがために成してしまった
無責任な行いなども、自ら正す方向へ進んでいくでしょう。

しかも、
物事の真偽を見極める感性も同時に成長していくでしょう。

そして・・・

    「理解したと思えば、もうそれは神ではない」
                          ―――カスティヨ―――

の言葉のごとく・・・


祈りが成長するにしたがって人は、
自分が“もう捉えた・・・と思う神(もしくは「何か」)を超えて
けっして知ることも、自分の思い通りにもならない“大きな存在”に向かって
さらに進んでいくことになるでしょう。


修飾用(大いなるふところへ)image



もし、みなさんが
そんな「祈りの小径」を歩んでおられるなら・・・


その歩みのなかに、いつも
「大いなる栄光」の希望が満ち溢れますように・・・。



修飾用(子供たちのシルエット)image



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お知らせをいただきまして、ありがとうございました。

はい、実はそのどちらも、すでに拝見したことがあって・・・。
色々と学ばせていただきました。

そして、あなた様も「その道」でご活躍中なのだ・・・と拝察しました。

どうぞご健勝にて、更なるご活躍を・・・と、心よりお祈り申し上げます。
2014.09.04 04:18 | URL | 世羽より #- [edit]


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世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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