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「マグダラのマリア」最終・・・マグダラのマリアの後日/ラザロの蘇りの情景/補足

Posted by 世羽 on 23.2014 イエス関連   2 comments   0 trackback
(つぶやき)
気象庁は、1つのひとつの揺れを個別に見るが、下はつながっているのだし。
すべてをひっくるめてデータを見てほしい・・・と思うのは自分だけか?

かたや、「なりすまし小学4年生」事件
こうして、いとも簡単に、平気で「嘘」をつく人がいる現実には
もう、嗚呼・・・という嘆息しか出てこない。


マグダラの5(いまのGalilee)image
    (いまのGalilee)


前記事からのつづき・・・。


マグダラのマリアの後日

(その一部を以下に要約)

キリストの眼前で、それまでの自分と決別したマグダラのマリアでしたが
突如、姿を消してしまいます。

心配した姉マルタは、
「また荒廃した生き方へと戻ってしまったのか?」と、かなり心配します。
しかし妹は“聖なる孤独”に包まれて、
喜びを味わいながら聖母のところへ向かったことを知ります。

「それにしても、
先生のお母さんも、その家がどこにあるかも知らないのに、
ひとりぼっちで・・・」
と危惧するマルタ。

ですが妹は「自分を導く心の“本能”によって、そこに導かれた」・・・とも
のちに知ります。

かくして、マグダラのマリアは無事に聖母のもとへ辿り着き
聖母から弟子たちに紹介されます。
そして、これまでとはまったく違う“質素で素朴な服”を着て、
聖母から直接さまざまな事柄を教えられながら、
他の弟子たちと一緒に“自らの信じる道”を開拓していきます。
(聖母の深い霊性は「マグダラのマリア」に大きな影響を与えた)

それでも、人の心は
1夜にして“完全に変わる”わけではないようで・・・。

たとえば、のちに宣教から一時的に戻ったキリストや弟子たちと一緒に
新たに「マグダラの町へ向かう」と言われたときなどは、
「自分がどう思われるか」という思いに苛まれ、酷く泣いたりします。

しかし、
「どうしてもそうする必要がある。
今すぐにでも、“人の思惑”という恐ろしい牢番を閉め出さないと、
あれほどの英雄的な回心を、麻痺させることになる」
という
キリストの促しを聞き入れて、使徒たちに同行しました。

いくら使徒たちが傍にいてくれたとはいえ、実際にその地に足を向けてみると案の定、
かつてのマグダラのマリアを知る人たちは、彼女に向かって冷たい、好奇な視線や皮肉に満ちた言葉を浴びせかけました。
そのため彼女はたびたび、多くの猟師に囲まれた獲物のようにオドオドしますが、
彼女はその試練に耐え抜いて、いつしか・・・
かつて生きた町の人々や、裕福な知人たちの前で“生まれ変わった自分の姿”を晒すことを恥ない自分を育てます。

また、ずっと年下の(以前書いた)少年マルジアムから「主の祈り」を喜んで教わるなど、
謙虚な一面も見せています。

こうして彼女の心は、いっそう勇気に満ち溢れるものに変化していきます。


マグダラの5(昔の想像情景)image



で、さらにその後
いくつかの町を宣教の一行と行動を共にしてから、ほどなくして・・・。


ラザロの蘇りの情景

マグダラのマリアは、聖母を含む女弟子や使徒の一行と別れ
病に冒されはじめていた兄ラザロの待つベタニアの家に戻りました。
(もともとラザロの家は、由緒ある名家で、非常に裕福だった。
語りによると、ラザロはキリストの受難後バラバラになった弟子たちをまとめる役目を担い、
それを完遂する)


ここでは省きますが、この家にいるときに、
聖書の有名なくだり、あの「マルタとマリアの話」が展開しています。


一方このころ、
キリストとの出合いによって魂の格段の上昇を遂げていたラザロでしたが、
原因不明の病に伏すようになっていました。

心あるニコメデスと呼ばれる医者が看てくれていましたが
余命は時間の問題・・・というところまでいきます。

姉妹は心をこめてラザロの看病をしますが、はかばかしくない。
病状は悪化の一途を辿ります。
そこで彼女たちは「あれほど多くの病人を治してきた救い主ならきっと何とかしてくれる・・・」と、キリストに使いを出して、家に来てくれるよう頼みました。

ラザロは癩病ではありませんでしたが、その症状たるや酷いもので、
身体中に腫れ物が出来、それが膿を出し、その臭いも凄まじく、
部屋中に立ちこめる腐臭を香料で誤魔化さなければいけないほどでした。

キリストは、見舞ったラザロとたくさん話しをします。
が、姉妹の期待とは裏腹に、なぜか彼を治しません。
そして、こんなことを言い残します。

「・・・・すべてのはかりを超えて、
すべての現実を超えて、希望し、信ずること、これは愛です。
私はあなたたちに、こう言います。
正反対と見えるすべての現実にそむいて希望し、信じよ・・・と。
私の言いたいことがわかりますか?


反するすべての現実に対して希望し、信じること・・・これを知りなさい。

いま、ここに留まるには少しの時間しかありません。
私は“人間として”彼を看護し、慰めて、あなたたちを見守って元気づけるために
どれほどあなたたちと一緒に留まりたいか、いと高きものはよくご存じです。


しかし、“神の子として”私は行かねばならないと知っているのです。
私は・・・ここから去る必要があるのだと・・・。


あなたたちが、呼吸する空気よりも“私を望む”だろうその時に、
私がここにいてはいけない・・・と知っている。


いつか、近いうちに、
いまは残酷とさえ思える、いろいろな理由を分かってくれるでしょう。
人としての私にも、あなたたちにも苦しいその理由を・・・。


それは“神的な理由”です。

あなたたちは、いまの苦しい理由、その意味の美しさと智慧とを
包含して眺めることはできません。

また私は、それをあなたたちに表すことはできない。

しかし、すべてが実現するだろうその時に、理解して喜ぶでしょう。


聞いてください!

もしラザロが・・・“死んだら”・・・すぐに誰かを送って私を呼びなさい。
そのあいだに、あなたたちの家柄にふさわしい葬式のために多くの人を招待して
準備にかかればいい。
彼ラザロは偉大なユダヤ人です。彼を正当に評価している人は少ない。
しかし、神の御前には、彼は多くの人に勝っている!


あなたたちが、いつでも私を見つけられるように、
どこにいるかを続いて知らせます」



・・・とは言われても、姉妹がガックリしたのは言うまでもありません。


一方、キリストがラザロに何もしなかったことは、
ユダヤの名士たちをはじめ、キリストを非難する人たちの元に伝わりました。
「ほら、あいつには治せなかったのだ」という見方がはびこっていくのです。

そして“そんな人々”は、自分たちと意見の対立するラザロが癩病だったら
いっそのこと律法のもとで隔離してしまおうと
見舞いを装ってたびたび確かめに来るのです。

そんな嫌みな連中の前に立ちはだかって、勇敢に兄を護り続けたのが、
マグダラのマリアでした。

さらに時間は進み、ラザロは重体になります。

医者ニコメデスが言います。(以下幻視から・・・)

「どうして、あなたたちの友人の、あのガラリヤ人を呼ばないのですか?
彼にできないことはないので、何かしてくれるでしょう?
私は、死を宣告されたのに治ってしまった幾人かを調べました。
彼からは不思議な力が出ている。(略)
まあ、私にはよく分からないですが、
たまたま群衆に紛れて彼のすることを注意して見ていて、不思議を見ました。
彼をお呼びになれば・・・。


私は異教徒ですが、あなたたちの民の“不思議な奇跡家”を尊敬しています。
私が出来ないことを彼ができれば、どれほど嬉しいことか・・・」


それに対してマグダラのマリアが言う。

「いえ、ニコメデス、彼は神です。
その力は、神としてのご自分の思し召しです」


「いや私は、けっしてあなたたちの信仰をからかっているわけではありません。
むしろ、不可能と思えるところまで至るように、その信仰を励ましたいとすら・・・。
そのほかにも、いつか、神がこの星に下ったとも書かれていました。
私は・・・そんなことを今まで信じたことはありませんが・・・。
しかしいまは、人間として、また医学者としての学問と良心をもって、
そのようなことがあり得ると言いたい。
なぜなら、あのガラリヤ人は、
“誰か”の神だけが行い得る治癒をもたらしていますから・・・」



そしてラザロはついに危篤となり・・・。
事態に際してマルタとマリアは意見を異にします。

「少なくとも先生に知らせましょう」

「この状態を私たちのほうから知らせる必要がある・・・というみたいに?
いいえ! 先生はだめだと言ったでしょう?
先生は、
『彼が“死んだら”知らせなさい』と言ったじゃないの。
だから、そうしなければ・・・。その前はだめよ」


「誰も、私の苦しみに同情もしてくれないの?
第一にあなたが・・・」


「そんなふうに泣くのはおやめなさい!
 それはもう耐え忍べない・・・」



先生の言いつけを護ることをガンとして主張するマリア。
不安に苛まれるマルタ・・・。両者の違いがはっきりしてきます。

マルタは結局、マリアに“内緒”でキリストのもとに僕を送り、
ラザロの危篤を知らせてしまいます。

けれども、先生は戻って来ない。
そしてラザロは死にました・・・。

      マグダラの5(ベタニアの位置)image


マルタは
「なぜ、先生は兄を救ってくれなかったのか・・・」と嘆きに嘆きます。

一方マリアは、先生の言った
「すべての現実を超えて、希望し、信じなさい」を自らに言い聞かせます。
それでもさすがに、目の前にある現実・・・
すべての信仰を超えて、希望し、信じたが“何も起きなかった”
という現実を見て幻滅するという、
ふつうの人なら誰でもそうなる状態に陥ります。

そして、ラザロが死んで4日もたったころ。
あの蘇りが・・・。


由緒ある家の盛大な葬儀のために、
非常に多くの人が集まっているところにキリストが現れます。


(以下、幻視の語りを“部分的”につないでの概要)

「先生だ!」

そこに集まった多くの人たちは挨拶をしない。

泣き声とともにマルタが駆け寄り、無意識の咎めを含ませて言う。

「ラザロは死にました。
あなたがここにおられたなら、死ななかったでしょうに。
どうして先に来てくださらなかったのですか、先生?
私たちの兄ラザロが、あなたをどんなに呼んでいたか・・・。
いまはご覧のとおりです!
私は悲しくて・・・
マリアは泣いて・・・あきらめることを知りません。
でもラザロはもういない。
私たちがどれだけ兄を愛していたか、あなたはよくご存じでした。
私はあなたから、すべてを期待していたのに・・・」


涙を拭いながらさらにマルタが言う。

「でも、いまでも、私は希望しています。
なぜなら、あなたが御父にどんなことを頼んでも与えられると知っていますから・・・」


「あなたの兄は蘇るだろう。立ちなさいマルタ」

「はい、先生。知っています。彼は“最後の日”に蘇るでしょう・・・」
(マルタはここで、遠い未来の公審判にそれが起きると勘違いをしている)

「私は復活であり、命だ。
私を信じる人は死んでも生きる。
そして、信じて私に生きる人は永遠に死なない。
あなたはこれをすべて、信じていますか?」


「はい・・・」とマルタは答え、急いでマリアを呼びにいく。


すっ飛んで来たマリアが「ラボニ!!!」と叫び、
キリストの足下にうずくまるように伏して大いに泣く。


「マリア、あなたに平和、立ちなさい!
私を見なさい!
なぜ希望のない人のように嘆くのか!
神の栄光を見るために、すべての信仰を超えて希望するようにと言ったでしょう?
こんなに泣き崩れるとは、あなたの先生が変わったとでも思うのですか?」


(そこでマリアは、マルタと同じように無意識の咎めを口にする)

「マリア、泣くのではない!
あなたの師も、
忠実な友人の死のために・・・
彼を死なせておくがゆえに苦しんだ・・・」


その様子を見て、周囲の心ない人たち、キリストを敵視する人たちが
冷笑を浮かべている。

そしてキリストは、ラザロの葬られている墓へ案内するように言って
そこに向かう。

墓の封印の石を見たとき、キリストは友人を想って涙を流す。

その涙を拭うと、キリストが叫んだ。


「その石を取り除け!!!」

周りで見ている人々は、「あいつはキチガイだ」というように、首をふっている。

誰も命令を実行しない。
皆に躊躇がある。


マルタが泣きながら言う。

「先生、できません。彼は4日も前からここにいて、・・・・
いろいろな香料のために、前よりも臭っている・・・。
何をご覧になりたいのですか?
その腐臭を?
できません、それはできせん。不浄のためにも」


「“信じるなら、神の栄光を見るだろう”と私は言ったではありませんか。
その石を取り除きなさい。
私はこれを命ずる!!!


その、何とも言えない神的な響きに、
人々の口から「おおっ」という嘆声が出て、彼らの顔が青ざめている。


僕たちが石を取り除く・・・。
マルタが何やら話しかけるが、キリストは答えない。


目を天に挙げ、胸を十字に開き、
非常に強い声で言葉を一つずつ句切るように発しながら祈っている。


「父よ、私の願いを聞き入れてくださったことを感謝します。
あなたは私の願いをいつも聞き入れてくださることを知っています。
しかし、これを言うのは、
ここにいる人々、私を取り囲んでいる群衆のためです。
皆が、あなたを信じ、そして私を信じ、“あなたが”私を送られた・・・
と信じるように」


このまま何秒かたつうちに、キリストの姿が変わる。
脱魂状態のような声に出さない祈り、もしくは礼拝の密かな言葉を言う。

彼の身体が光に変わって霊のようになり、背たけがもっと高くなって、
地面から上がっているように見える。


髪、皮膚、服の色はそのままで、
タボル山での変容のときに、すべてが光と眩しい白に変わったのとは違う。
それでも、光が放たれている。

彼のすべてが光で成っているように見える。


(ちなみにタボル山のほう・・・)
マグダラの5(タボル山での変容)image


その“光”(キリスト)が、父への観想に心奪われている。

この変わったさまに、皆が心を高鳴らせているようだ。

こののち、(光が)人の姿に戻る。
しかし、それは威厳に満ちている。


墓の入り口に進むと、十字に開いていた腕を、手の平を下にして前方へと差し出し
その手が墓穴に入れられ、それは中の暗さに対して白く目立つ。


そのとき、目から“水色の火のようなもの”が放たれた。
奇跡のその輝きは、私の眼には耐えられない。


沈黙の闇のなかでの、力強い声、
かつて湖の上で、風に命じたそれよりも強い叫び・・・
私がこれまで見た、どんな奇跡の場面でも聞いたことのない声で叫ぶ。




《《《《《《《 ラザロ!!! 外に出よ!!! 》》》》》》》



声が墓の中はもちろん、ベタニアの家と畑にまで響いている。
それが
「外へ! 外へ! 外へ!」とこだましている。


皆は、戦慄を覚えているのか、好奇心に動けなくなっているのか、
色を失ったかのように彼らの目が広がり、
喉まで来ている驚嘆と恐怖で唸りたくなっているかのように、
無意識に口が開いている。


マリアが、キリストのマントの裾を捕まえて、ふるえている。

墓穴の奧に白いものが浮かんでいる・・・。

最初は凸状の薄い線のように見えたが、それが卵形に変化して益々広くなり
長い線が加わる。
見る人に恐怖を与えるかのように、幽霊のような包帯に包まれたものが
ゆっくりと進んで来る。


キリストは、それが前に出てくるのとほとんど同じにゆっくりと後ろに下がっている。
それゆえ両者のあいだの距離が同じになっている。


恐怖に閉ざされていた群衆の喉から、こんどは
はっきりした「おお!!!」・・・と、叫びに変わっている。


ラザロは石灰の像のように入り口に立った。
墓穴の暗さに包帯の白さが浮き出して、幽霊のようだ。
しかも、太陽に照らされた包帯には“気味の悪い膿”が垂れているのも見える。


(ラザロは群衆の前に姿を見せた直後に包帯を解かれて、身体を洗われ、
飲み物などを与えられて正気に戻っていく)

マグダラの5(ラザロの蘇り)image


一方キリストは反対者のグループに近づく。


「サドクちょっと待て、あなたとあなたの仲間たちに一言いいたい。

サドク、いま見たことで足りるか。
あなたと仲間たちは、信ずるためにも“腐敗しきった身体”が健康になるのを『見たい』と言った。
いま見た腐敗で満足したか。
ラザロは一度死んだが、いまは、何年も前から無くしていた健康をもって生きている・・・いまそう口にする勇気があるか?
私は知っている。あなたたちがここに来た理由を・・・。
あなたたちが、この人たちを試みようとして、
より大きな苦しみと疑いを注ぐために来たのを。


私が(何もできずに)“死者の部屋”に隠れてしまうのを望んで、私を捜しに来た。
あなたたちがここに来たのは、愛をもって死者に敬意を表するためではない。
ラザロが本当に死んでいるかどうかを確かめるつもりだった。
そして時間とともに、それに喜びすら覚えていた・・・
(略)

「信じるために・・・“否定しようもない現実”を認めるために、
これでもまだ足りないのか」



(結局のところ・・・キリストの行ったことを見て人々が心を動かされたものの、これほどのことを目にしてもなお、多くの人の心はそのままだった。「やつは、良からぬ魔術を操っているらしい・・・」という噂にまでなる)


     マグダラの5(bethanyLazarusTomb)image


群衆が帰り、静けさを取り戻した家の前の小径にキリストが立っている。
“人として”の彼がつぶやく・・・。


「不浄物は火によって無に帰る・・・死の廃物が。
だが・・・人々の心の腐敗は、
何の火によっても無にされることはない・・・地獄の火でも。
永遠につづくもの・・・死よりも・・・腐敗よりも・・・いつまでも・・・
なんと恐ろしいことだろう・・・。
そして人類よ、腐敗することをそれほど望むなら、誰があなたたちを救う?
私は・・・一言をもって1人の人間を墓から奪ったが、
言葉の“海”・・・苦しむ“海”が、
人間を、何億の人間を、罪から奪えないのだろうか」



(この呻きのようなつぶやきは
人性を備えた不可思議な存在の「悲しみ」のようでもあった)


この、悲しんでいるキリストを目にしたマグダラのマリアが
傍にいたマルタとキリストに向かってこんなことを言います。

「私の姉よ!
私はもう、いつでも希望し、信じます!
私はもう疑うことはありません。
主よ、決して。
私は信仰で生きる者となりました。
あなたは私に、信じられないことを“信じる”という能力をくださいました」



このはるかのち、日を変えて、こんなやりとりがされています。


「マリア・・・あなたも主の善い婢(はしため)となるでしょうか?」

「ラボニ、それはあなたがご存じです。
私は・・・私は大きな罪人だった・・・それしか知りません」


「マリア・・・私が行うことはいつも完全です。
ですから、あなたの赦しも私が行ったのですから完全です」


「おお、私の愛する救い主よ。そのとおりです。
あなたがお望みであれば、私は善き婢になるでしょう。
主よ、私のほうからそれを望みます。
あなたが同じようにお望みになるかは分かりませんが」


「マリア、私はそれを望む。私の善い婢であることを。
今日は昨日より、明日は今日よりも・・・。
私が、『マリア、これでよい、もうあなたの休みの時が来た』と言う
その時まで・・・」


(略)

「私は自愛心が強くて、自分自身に対して評価が甘すぎたのです。
いま・・・私の卑しさの底まで探り、そして遡るために
長い、長い道のりを辿る必要があると知りました。
先生が助けてくださるなら、そうするつもりです」


「あなたを助けるとも。マリア、ここから去っても助けよう」

「あなたは愛することしか知らない。
マリア、これはあなたの気質です。

・・・・・・それぞれのものには、それぞれの気質がある。
心の指導者たちの智慧は、相手の人間の傾きを利用して
善の道をますます発展できるような道に人を導くがために
“知”としてある。

植物にも、動物にもその法則がある。
実を結ぶ木に、花だけを、また本来のものと異なる実を要求したり、
またある動物に“他の動物の生き方”を望むのは愚かなことだ。

蜜をつくるあのミツバチに小鳥になれと、あえて望めるだろうか。
・・・みな、それぞれの役割によって役立つ。
人間も同じです。そして、あなたには愛する役割が与えられた・・・」



受難のときのマグダラのマリアの様子は、いまは書きませんが
復活後、栄光体となったキリストはまず、
誰よりも真っ先に「聖母」のところにやってきて
その後に、聖書の記述のように
使徒よりも先に、マグダラのマリアに自分を示した、と語られています・・・。


マグダラの5(復活の光)image



で、この「ラザロの蘇りの情景」の説明でキリストがこんなことを。

(母のあとに)かつて乱行に明け暮れた女のもとを訪れた・・・。
それは、“そういう生き方”をして来た女たちも、身を改めて、私を信じるとき、
私の憐れみが“すべてを赦す”ことを知らせるためだ。


だが、彼女は
栄光の身体をもって御父なる神のもとへ行く私に触れることができるほど
清いものではない。
それは許さない。
彼女は苦しんでなお、自分を清める必要がある。
とはいえ、神を愛することを知っている彼女には、
この“報い”
(使徒よりも早く姿を見せること)を与える値打ちがある。

神が彼女に『マリア・・・』と呼びかけたとき
『ラボニ(師よ)!!!』と答える彼女の叫びを聞くがよい。
そこに、彼女の心の想いがすべてある」


「何よりも私を愛するとき、私は傷ついたこの手のなかに、
あなたたちの病んだ心を受け取り、そこに私の力を注ぎ込む。
こうして私の愛によって、あなたたちは、
健康で幸福な、美しい自由な者に変わる」

 

マグダラの5(ちょっと昔のLazarusTomb)image



ということで・・・ものすごく端折って書くしかないので
何がなんだか分からないかも知れませんが・・・
マグダラのマリアの姿には、こんなバージョンもある・・・ということです。

別論と比較してみたり、どう感じるかは
すべて読み手のみなさんしだい・・・でしょう。


そしてついでに・・・以下をメモしておきます。


補足:幻視者に伝えられたことから抜粋要約

イエスが私にこう言われる・・・。

「私は、ラザロが死なずにいるときに間に合わせて干渉することもできた。
だが、そうしなかった。
私は、この蘇りが“諸刃の剣”になるだろうとも知っていた。

なぜなら、“考えの正しいユダヤ人”がこれで回心し、歪んだ考えの人々に
“もっと猛烈な反感を起こす”とわかっていたからだ。

この、私の力の最後の打撃・・・
それで彼らが私の“死刑判決”を決定したのだ。
だが、私はこのために来たし、“それ”が実現される時が熟したということだ。

私は、ラザロが死んで直ぐにベタニアに行くこともできた。
しかし、すでに進行している腐敗物の蘇りを行って、
もっとも頑固な人でも納得させたかった。

また、“私への信仰”を世界に運ぶことになる使徒たちも、
最高の奇跡によって“鍛錬された信仰”を持つ必要があった。

たびたび言ったように、
使徒たちにも“人間的な考え方”が頑固にあった。

これは、乗り越えることのできない妨げではなく、
むしろ、“成人になってから私の弟子になった人々”には当たり前のことだ。

人の考え方は、今日から明日のあいだに変えられるものではない。


(略)

実際、本当に望むならば、何でも変えることができる。
そして私は実際に、
勇気のない人々、争い好きな人、高利貸し、快楽主義者、
信仰のない人々、そんな人々から殉教者や聖人をつくり、
世界に福音を伝える人たちに変えた。

そう“望まなかった人”だけが変わらなかった。
私は小さな人々、弱い人々を愛する。
あなたもそのうちであるが・・・。

この人々に、私を愛し、私に従う意志さえあれば、
無に等しいものをもって、私の愛弟子、友人、使いにする。
いまでも、このような人たちによって、
人々を私に導くために奇跡の可能性を無くさない・・・それは絶えざる奇跡だ。
しかしいま、この可能性は弱まっている。
油が足りなくなる灯りは臨終で死ぬ。
同じように奇跡を行う神に対しての信仰の不足は奇跡の可能性を殺す。


(人間が)奇跡を願うとき、要請に対して二つの反応の仕方がある。
ひとつは、神が愛をもって応じる。
もうひとつは、怒りをもって背を向ける。


前者は私が教えたとおり、疲れを知らず、信頼を捨てず頼むもので、
これは必ず答えられる。
なぜなら、神は善き御者であり、何でもできる力を持っているからだ。
この要請は愛であって、神を愛する人には何でも与えられる。

もう一方は、
神が自分たちの僕であるかのように、自分たちの悪まで下って、
自分たちが神に与えようとしない愛と従順を求める反逆者の要請である。
これは神への侮辱のひとつで、神は恵みを拒む。

私はもはや集団的な奇跡を行わないと、どうして嘆くのだろうか。
それをどうして・・・私が行うだろう。

私を信じる集団がどこにいる?
まことの信仰者はどこにいる?
大きな団体の中の、まことの信仰者はどこにいる?

確かに、火事に焼かれた森のなかに生き残った花のような、
こうした信仰厚い人々を私はたまに見る。

だがほかの場合は、サタンが自らの教え(誘惑)をもって焼き尽くす。
そしてますます焼き続けていくだろう。


あなたたちの超自然的な方針として、
トマに対しての私の回答
(ヨハネ:20の24~29)を、
いつまでも忘れないように・・・。


“人生”自体を、目的としてではなく、
まことの命を手にするための手段として重んじないならば、
私のまことの弟子ではあり得ない。
この世で自分の命を救いたい人は、永遠の命を失う。


何度も繰り返したことでもあるが
試練とは何か・・・?


それは通り過ぎる雲にすぎない。
そして
(雲が過ぎれば)“天”が残り、試練を超えたあなたたちを待っている。

私は英雄的な生き死にをもって、あなたたちのために“天”を勝ち取った。
あなたたちが私に倣うことだ。
英雄であることは、殉教して死ぬような人たちのことだけではない。

キリスト的な生活は、“永久の英雄性”である。
なぜならそれは
世間、悪魔、肉体に対しての絶えざる戦いだから・・・。

私は、あなたたちが私に従うようにと強制などはしない。
私はあなたたちを自由なものとして残す。

だが私は、偽善者を厭う。
私とともに、私のように生きるか、それとも私に反して生きるか、
あなたたちが私を騙すことはできない。
敵との妥協までに下がることはできない。

もし、あなたたちが彼を選ぶならば同時に
私を友人として考えるな。
彼か、それとも私か、選ぶしかない。


(略)

わたしがあのとき泣いたのは、
3つの想いがいつもより活発に表面に出ていたからだ。

ひとつは、人を悪に誘惑した存在が
この世にどれほどの破壊をもたらしたかを理解させたいという想い。


二つめは、私の伝道の必然的帰結でもある“この奇跡”さえも、
私が携えてきた真理について
ユダヤ人の世界を納得させないだろう・・・という証
(の涙)でもある。
それは未来の世界でも、
奇跡だけでは人間をキリストに向かわせないということ。その想いだ。


こんなわずかの人々のために、
近いうちに死ぬという
(人間としての)苦しみは大きかった。

三つめは、私が瀕している死の光景(への想い)だった。
私は神的でありながら、まことの人間でもあったのだ。


“神の慈悲”はあなたたちに未来の認識を隠す。
しかし私にはすべてが現されていた。


自らの運命に嘆くあなたよ・・・。
人間のどのような運命も私より辛いものはないだろう。

なぜなら、私は誕生から死にいたるまで、
私に伴う貧しさ、さまざまな試練、さまざまな敵対、
そして何が起きるかをずっと知っていたのだから・・・。

みな嘆かないで!
そこに希望を置きなさい。
あなたたち皆に、私の平和を残す・・・」



     マグダラの5(イエズスと聖書)image



*****

ここで語られていることを丹念に調べ、接していると
キリストという存在を“ただの宣教者なる人”と捉えているだけでは
彼の言いたいことを“心が”理解できない・・・と、気づかされる。

そして、この存在を知れば知るほど、
恐れずに言うなら、
もしかすると、キリスト教徒を自称していても、大半の人たちが
その“聖性と清らかさ”を過小に見ていて、
文字の上での「人の思惑」からでしか理解していない?・・・と感じる。

ただこれは、あくまで個人の見解に過ぎないが・・・。

いずれにしても、ここに映し出されているキリスト
確かに何かを伝えている・・・という感覚が、自分にはある。

よく(男女の区別なく)
心に傷を負う者はマグダラのマリアが辿った勇気ある道を探せ・・とも
言われたりする。
それはもちろん、望んでこそ・・・だろうが。

自分は、一連の記事の最初に述べた、特にわけありの女性たちに、
たとえ伝わらないまでも、
そこはかとない気持ちを込めながら、書きつづっていた。
何かの困難から立ち直った人は、本当に「強い」・・・そんな方々に
敬意を抱きながら・・・。


マグダラの5(羊さん)image


*****

この世界は、誰かの日常が“別の誰かの非日常”だったりする。
そしてときに、刺激を求めて非日常感を味わい、また元に戻ったりする。


マグダラの5(修飾画像とある観光)image


マグダラの5(修飾画白いトナカイ)image



ともあれ・・・その戻った日常が
今日も明日も元気でメシが美味い・・・ていどに感じるような
すごくちっぽけで、素朴な日々であっても、
そんなことが思いのほか“心の糧”になっている・・・。
ありがたい・・・ただ、そう想う。


マグダラの5(彩雲)image


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何かベタニヤのマリヤとマグダラのマリヤを同一人物のように勘違いなさっているようですね。
またマグダラのマリヤを「乱行に明け暮れた女」とひどい書き方をしていますが、そのような自堕落な女性ではありません。ルカ伝に「7つの悪霊を追い出してもらった」と書かれているだけで性的な放蕩の限りを尽くしたような見方をするのは間違いです。たぶんルカ伝7章に出てくる「罪の女」と混同しているのだと思いますが、イエスの足に香油を塗ったその女性はベタニヤのマリヤでもなければマグダラのマリヤでもありません。ベタニヤのマリヤもマグダラのマリヤも共に高潔な女性です。
2015.05.31 11:30 | URL | 授理庵 #FOTi0RoY [edit]
お言葉がけをありがとうございました。

自分などが記述するのはおこがましいのですが・・・
正直に、突っ込んだことを記載するならば・・・。

実は・・・授理庵さまのご指摘の部分などは、
それなりに知ったうえで、あえて記事をしたためています。

というのも・・・

聖書に出てくる“関連性があるかもしれない”と思しき
複数の女性のみなさんが
“どのような人物だったのか・・・”
“誰と誰が同一なのか・・・”については、
現在、神学上でも完全に解明されていない部分があり、
専門の論議も、いまだ続いている・・・と拝察しています。
(神学者によって、捉え方が異なる部分が実際にある)

なので、
これまでのメモのところどころに書いてきたように
引用した物語は「イタリアの幻視者」の記述に基づくもの・・・
それが真実かどうかはわからないけれども
「こんな話があるよ・・・」という形で
ご紹介させています。

聖書についての見解は
いまだ多くの解明されていない部分を残しているのも
事実です。
なので、今後、そうした部分について
より一層の研究がなされていくことを望んでいる・・・
というのが自分の正直な気持ちです。

たとえどんな人であっても
キリストという存在に出逢い、その存在を受け入れたことで
最終的に「キリストによって聖化された・・・」
そんなことが一番お伝えしたいことだったかもしれません。

つたない文章で誤解を与えてしまったのであれば
どうぞ、ご寛恕ください。
2015.06.01 15:43 | URL | 世羽より #HfMzn2gY [edit]


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ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
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喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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