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日本の史上に残るも「ほぼ知られざる人たち」・・・

Posted by 世羽 on 06.2014 道草   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
下の動きが少し気になってきた。

知られざる(サンタさん)image


かつて、この敷島には、
世界と同じようにハンセン病(癩病)という“不治の病”がありました。

 (注:1943年、特効薬プロミンが開発され、いまでは、ハンセン病は“治る病”になった)

当時、結核もそんな感じでしたが、
ハンセン病の場合はご存じのとおり、肉体が崩れて行くので
罹患した人には想像を絶する“辛い病”となりました。

とりわけ当時の日本人は
「癩病になるのは家系のどこかで悪しき事をした人がいたからだ」
という認識で、
家族の誰かがこの病にかかろうものなら、“その一家全体”が忌むべきものとされ、
村八分状態になっていたのです。

発病にまったく関係ないにもかかわらず、
身内であるがゆえに嫁ぎ先を離縁されたり、
会社を首になったり、「学校に来るな」と言われたり、
当時の水源であった川や井戸の水を使用することも拒否されたりと、
凄まじい“嫌われ者”になったわけです。

ですから、家族の誰かが罹患すると、
それを隠して山中にかくまうなどが、当たり前のように起きていました。

しかし、仮にかくまわれたとしても
大半の患者さんが
そのうち食べ物も得られなくなったり、
症状から来るさまざまな痛みに苦しんだあげく、
誰にも看取られずに野垂れ死ぬ運命にあったのです。

その状況下、日本で最初のハンセン病の施設ができたのは
あの“富士のお山”の裾野でした。

それは明治19年(1886)のこと。

パリ外国宣教会のジェルマン・レジェ・テストウィド神父が
日本での宣教中、とあるハンセン病者と出会い、
「酷い扱いを受けて放置されている罹患者を助けたい」・・・と、
御殿場の鮎沢村(現在の御殿場市新橋)で家屋を借りて
活動が開始され、
その後、神山に場所を移して「ハンセン病の治療所」となり、
多くの患者さんが、そこで治療を受け、共同生活をしていくことになったのです。

     知られざる(テストウィド神父近影)image
   (ホスピス神山復生病院HPより引用)


同時期の世界では、
モロカイ島でハンセン病者への英雄的な看護をしていたダミアン神父がいました。


     知られざる(ダミアン神父近影)image



その活動は、上記の宣教師たちの心に
日本人が見捨てた病人・・・それも、いったん罹患すれば
二度と人間として扱われなくなってしまう人々・・・
「彼らに手をさしのべたい」・・・そんな気持ちを強くさせた一因になったようです。

宣教師たちにとって、施設をつくって維持するにしても
費用は“海外や国内の篤志家らの寄付と援助”のみが頼りでした。

ですから、当初手に入れた家屋も、あばら屋みたいなものです。


     知られざる(神山復生園のとき)image


希望をもって施設の前身を造りつつあっても
宣教師自身、また病者の人たちの食物にも事欠いて、
米一粒さえない状態に陥ることがたびたびありました。

そのため、宣教師たちも人の子、その口から

「フランス人の自分たちが心尽くして病者の世話をしても
日本人は病者を助けようとする医者もいない・・・。
遠い国の外国人にばかりに任せてよいのだろうか・・・」


・・・と“弱気なつぶやき”が出るぐらい、運営と維持は困難をきわめました。

それでも宣教師たちは諦めることなく、自分たちの想いを形にしていきます。

遠い異国の地である日本で
最下層になってしまった人たちに寄り添いながら
宣教師たちの尽力はつづけられました。

この異国の宣教師たちは、その後当地で帰天し、
いまも富士の麓に眠っています。

で・・・その途上、ドロワール・ド・レゼー師の代のとき、

     知られざる(レゼー神父近影)image
       (ホスピス神山復生病院HPより引用)


裕福な家に生まれて何一つ不自由なく暮らしていた1人の美しい才媛が
罹患したとのことで、この施設にやってきます。

彼女は深井八重・・・ソニー創始者の深井大の遠縁にあたる女性でした。

そして数年後のこと、なんと八重の病気が誤診だったことがわかります。
レゼー師は
「世間に戻って女性としての幸せを得るように」と進言します。

ですが八重は、レゼー師たちの窮状を直に目にしていましたし、
実は、あの“弱気なつぶやき”を聞いた本人だったのです。

「日本人で1人ぐらい、親身に看病する人がいなければ・・・」
との想いを抱いた彼女は、
看護師になってレゼー師たちを助けることを決意します。

こうして、のちに
日本のナイチンゲールとも呼ばれることになった女性が生まれました。

   (彼女がどれほど患者たちを励まし、
    いかに過酷な治療をこなしたかの逸話は数多残る)

   知られざる(井深八重近影)image



時が流れ・・・この施設の後継者となったのが
多くの足跡が書籍となって今も残されている
あの岩下壮一神父です。


             知られざる(岩下壮一近影)image



岩下師は、もともと裕福な家庭に生まれたのですが
幼いときから片方の足が不自由で、歩くときには足をひきずっていました。

とはいえ、頭脳がすこぶる優秀で、東大を首席でとおして卒業、
海外に留学し、
ゆくゆくは日本の政界にも必要な人になるだろう・・・
と言われたほどの逸材です。

が・・・

彼はまったく別の道に進みました。
海外で神父になったのです。

そして、のちに神山復生病院と呼ばれることになる施設の前身
育てていくことになります。

当時の岩下神父は、「あそこに罹患者がいる」と知らされると
病人の存在が外に漏れて、その家族があとで辛い目にあわないように
非常に慎重に、気を遣いつつ、
自ら自動車を運転して罹患者のもとをこっそり訪れて、
迎えに行っていました。


       知られざる(岩下神父と自動車)image


ですがいくら画期的な施設であっても、いったんそこに入れば
患者はほぼ、一生家族に会うことはありません。

たとえ患者が「会いたい!」と切に願ったとしても、
家族が面会に来ないのです。
そうなれば、患者さん自身がどんな気持ちになっていくかは
想像に難くありません。

ですから、収容されて手厚い看護をされていても
日々崩壊していく我が身への
恐怖と絶望感心の寂しさがあいまって、
自死する者もいたのです。

あるとき、新参者の若い男性患者さんが
深夜、とある病室のドアの前で
岩下神父が闇に紛れて跪いているのを見ました。

「ぎょっ」とし、声も掛けられず、
この若い患者さんはその場を立ち去ります。
しかし、気になってしかたがありません。
「神父さんはいったい何をしていたんだろう」・・・と。

のちに他の患者さんが、こう教えてくれました。

「あの部屋には、自殺しようとした人がいるんだ。
それで神父さんは毎晩、あの部屋の前を訪れて
患者さんのために祈っているんだよ」


岩下神父の深夜の隠れた祈りは、
その患者さんが自殺するおそれがなくなるまで続けられました。


     知られざる(祈り)image


この、新参者の男性患者とは、
重兼芳子の著書『闇を照らす足音』で重兼氏の取材に応じて
いろんなエピソードを語った人物です。

    (ちなみに、この書籍タイトルにある“足音”とは、
     失意にある患者さんが眠りについた夜、岩下神父が不自由な足を引きずって
     病室をそっと巡って歩く“独特の足音”が聞こえるたびに、
     言いしれぬ安心と優しさが心に湧いた・・・という
     元患者さんの話からきている)



この若い男性患者さんは当時の様子を様々に話していて、
それによると・・・

施設運営の費用は
岩下師の代になっても、やはり寄付や援助からでは到底足りず、
岩下師は患者さんに知られないように心を配りつつ、
父が自分に残してくれた遺産をすべてつぎこんで
きりもりしていたようです。

一方で、当時の皇后陛下が、岩下師の苦境を聞き及び、
国民が見向きもしなかったこの病める人々のいる場所へ、
密かに援助をしていたことが語られています。

で・・この岩下神父さんは、のちに
患者さんたちから「オヤジ」と呼ばれて大変慕われる一方、
時に“あまりの優しさ”がウザイと反発をくらったりもしていました。

上記の男性患者さん自身がそうだったのです。

そんなこんなの中、戦局が進み、
本土での空爆の恐れが出てきたころ、
患者さんたちも退避訓練を行うようになりました。

すると、一部の患者さんたちから
嘆きに満ちた声が聞こえるようになります。

「国のために戦うこともできず、死ぬこともできない。
こんな自分たちがのうのうと生き恥をさらしていてもいいのか?」


それを知った神父は、みなにこう話します。

「みなさんに申し上げます。
これから先、日本がどのような非常事態になりましょうとも、
みなさんの命は誰もとって代わることはできません。


明日をも知れぬ“重症者の命”と、
戦地で勇敢に戦っている“兵隊さんの命”と、
命の重さに少しの変わりもありません。


1人ひとりの命を他と比較して、
その“軽い・重い”を問うような愚かなことだけは
やめてください!!!・・・」


また別のあるとき
岩下神父は恋愛問題に悩んだ“先の男性患者”
叱責混じりで、こんなことも言われます。

「神父さんは本心を押し隠して
“信仰に生きている”というポーズをとっているだけじゃないですか。
神父さんも男だ。
男の肉体があるなら、裸のままの気持ちをさらしてください。
生きたいように生きて、愛したいように愛せばいいじゃないですか。
結婚したいと思ったことは一度もないんですか!?・・・・」


神父の答えはこうでした。

「人間の心の奥には、
他の人間が立ち入ることのできない領域があるんです。

イエズス様の光はそこまで届きます。

他の人には見えなくても、
私はイエズス様にすべてをさらしています。
露わに、むき出しにされているんです。
それだけでいいのです・・・・」



こうした心のやりとりを重ねる日々を過ごした“この患者さん”
作家の重兼氏に、面白いことを吐露しています。

「確かに、お願いしているのはキリスト教の天主さまでしたが、
天主さまの背後に実にさまざまな方たちが控えていて・・・
わたしの願いを共に聞いていてくれる・・・そんな気がします」




   (いまはもう、ハンセン病は恐ろしい病気ではなくなりました。
    それでも、この世界にはまだ、
    克服できない病気がいくつもあります。

    でも、それに強い意志をもって対峙しようとする人たちがいて
    だからこそ、少しずつ深刻な病気が消えていっている・・・
    それも事実ではないでしょうか)


     知られざる(旧・神山復生病院)image



岩下壮一神父は、この後、
自らの職務を続行しているさなか
政府の命を受けて短期間ですが中国に出向きます。
そして、そのときに体調を崩して帰国。

別の場所での入院を勧められるものの
患者さんたちの待つ神山復生園へ戻ることを強く望み、
フラフラ状態になって、脇を抱えられるようにして帰還します。

ですが、そのまま病床についたままとなってしまい、さらに病状が悪化、
自分が愛した“その地”で帰天しました。

そんな岩下神父が、
当時は“いまよりもずっと身分が低かった女性”に関する一言を
残しています。

それを文末に・・・。


   「女の人は、おむつの洗濯をしていても
   台所で芋の皮を剥いていても、
   心の眼は浮き世の彼方、はるかに高く、神に向かっている。
   揺りかごを動かす者は、世界を動かす」



知られざる(SweetDreams1892EdwinHarris)image





*****

口から食物が食べられて、「美味しい」と思えるのは健康なしるしで・・・
当たり前のようでいて、実はすごく幸せなことだ。

病気になると、
それがどんなものであっても、
なったその人にしかわからない苦しさや寂しさがある。


知られざる(不調の子ヤギ)image



見守る側にも、言葉にできない痛みが生まれたりする。



それでも、打ちひしがれることなく
治りたい・・・と全力を尽くし、
また“暖かい心”でそれを支える人たちがいる・・・。


知られざる(山羊の親子)image


そのような人たちは、
たとえ世間的には無名でも
至高の存在の前では“素晴らしい勇者”なんだろう・・・と思う。


知られざる(白い山羊さん)image


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世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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