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かつての「中東」での出来事・・・湾岸戦争の前あたり

Posted by 世羽 on 08.2015 歴史もの   0 comments   0 trackback
(つぶやき)
かつて「春が来て~きみは~綺麗になった~」・・・という歌があった。
多くの人の「心」にこそ、美しい“春色”の彩りが迎えられて
さらに“暖かいもの”が生まれると嬉しい・・・などと勝手に想うw。


湾岸戦争(挿画サウジアラビアrashaida族の少年)image


人は多くの場合、命の危うさに直面する事態に遭遇して“初めて”
世界で起きていることを知ったりします。


中東地域は、日本のエネルギー供給においても重要なわけですが、
そこにどんな国があって、どのような歴史を辿り、
日本がどんなふうに関わってきたか、
知られていないことも多々あって・・・。
忘れるには“まだ早い”事象もまた、たくさんあるように思えます。


で・ふと、
過去と現在に繋がる「中東」で起きた日本がらみの史実が浮かんだので少し・・・。


イラクの「クウェート侵攻」と人質

1990年8月2日午前2時(現地時間)。
戦車350輌を中心とするイラク共和国・防衛隊の機甲師団10万人が
クウェートに侵攻を開始しました。

 (これは、いわゆる湾岸戦争:Gulf Warの前のできごと。
  湾岸戦争そのものは、この侵攻を機に、国際連合による多国籍軍の派遣が決定され、
  1991年1月17日のイラク空爆から始まっている)


     湾岸戦争(の前のクウェ-ト侵攻報道)image



クウェートに侵攻したイラクは、国際法に違反して
クウェートとイラクに在留していた外国人の一部に対して出国を禁止します。

湾岸戦争(イラクとクウェ-ト)image

      湾岸戦争(の前のイラク侵攻)image



このとき日本は、
クウェート在留日本人の安全の確保のために
日本人261人をクウェート大使館に保護しました。

さらに、

外務省と現地大使館は、秘密作戦として、
クウェート大使館で保護した者を含む245人を、
バグダッド(イラクの首都)に向けて移動させることにします。

 (よりによって侵攻する国になぜ・・・と想えるが、
  当時はそうするしか打つ手がないと考えたらしい)


湾岸戦争(の前のひとつの情景)image


同時期には、
イラク在留の日本人のうち
8月14日までに出国できなかった214人
その後の出国を認められずに、イラク国内にとり残された形になっていました。

当時、バグダッド日本大使館には片倉邦雄・大使が着任しており、
さらなる日本人出国のための陣頭指揮にあたります。

大使館側は、クウェートから移動してくる日本人のためにと
ホテルを予約するなどして、出来る限りの受け入れ準備をしました。

クウェートからバグダッドへは、何便かに分かれて日本人がやってきます。

ところが、

このクウェートからの緊急避難組の人たちは
飛行機から降りるとすぐ、
イラク政府によってバスに押し込められるなどして、
「マンスール・メリア・ホテル」に拘束されてしまったのです。

 (上記・日本人の一部と、他国の人もあわせて
  拘束された人々の多数はその後、
  戦略上重要な施設に“分散して”収容されることになる)


     湾岸戦争(の前のmansourmeliahotel)image



こうして、クウェートから避難してきて拘束されたうちの213人
イラクから出国できない214人
そのほか合わせて、“507人にものぼる日本人”
軍靴の足音が響く中東の地に釘付け状態になり、
「戦後最大の事件」に直面することになりました。


イラク側は世界に向け、拘束した各国の人たちについて
「彼らは人質ではなくゲストだ」と言いました。

でもそれは事実上、
国際諸国の包囲網に対する「人間の盾」でした。

片倉大使を始めとする大使館職員は、
“拘束された”日本人たちと接触を試みますが
事態はきわめて難航します。

 (拘束された半数は女性で、乳幼児もいた。
  また、イラクのクウェ-ト侵攻直前に勤務交替で降り立った
  日航のCAも9人いた)


このころ、バグダッドでは
ラジオ・ジャパンの日本語放送がアフリカ経由で流れており、
バグダッドの現地時間“午後8時”になると、
日々、拘束された人たちに向けての言葉が流されました。

「日本人のみなさん。
みなさんの出国のために、私たちはあらゆる働きかけと、
連絡手段の確保をはかっています」


 (似たことを人質を抱える米国や英国もやっていた)

日本の大使館員たちは、不眠不休で人質との接触工作を続けます。

ホテル内の日本人にメッセージを送ろうとしたり、
大使自らホテルに出向いたり・・・と。

ですが、ホテル近くで公用車を停めることも叶わない状態でした。

それでも大使館職員たちは食い下がります。

ときには車の屋根に“日の丸”をつけてホテル傍を通るなどを試み、
「なんとか頑張ってください」という気持ちを伝えようとします。
ホテルの中からは
それに応じて、手やハンカチを振る人たちの姿を確認することができました。

片倉大使は、封鎖されたホテルの正面ゲートの前で
「立ち退け!」というイラク側の要求をはねのけ、
灼熱の日差しの下、交渉のために2時間も待ち続けたりもしました。

  (このとき、報道陣は宣伝のためか、
   ホテルに入ることを許可されたりしたが・・・)

地道な努力は少しずつ功を奏し、
ようやく内部から外部へと、1日1回の連絡が取れるようになります。
ですが、外部から中への連絡は依然、まったく遮断されたままでした。

8月25日あたりになると、
拘束されていたうちの男性だけが別の場所に移されてしまいます。
しかもその時点ではどこに移送されたかも不明でした。

一方、この事態を受けた当時の日本政府は・・・

“中東の平和に対する貢献策”として
「クウェ-トに侵攻したイラクに対しては“断固たる態度”で望み、
いわゆる人道支援(医療、通信、輸送面など)で
“周辺諸国への援助強化”を行う」

としていました。

そのスタンスは
「人質をとられた国々とは痛みを分かち合い、
妥協をしてイラクに対決する気持ちを損なうな」

というものです。

当然、イラクはこれに反発します。


 (相手が1国家とカルト「IS」という違いがあって状況も大きく異なるが、
  どうも現在と似ている)


ちなみに、

このとき旧ソ連などは、
イラクが侵攻するとともに出した“クウェ-ト大使館閉鎖”命令(各国に出ていた)に
「断固反対!」の立場を誇示しつつも、
“水面下”ではイラクのこの要請を受け入れて、職員は即・全員退去。
旧ソ連国民で拘束された人は誰もいませんでした。

そのほか、
豪州やスイスなども“臨機応変な打開策”をイラクにかけ合い、
国民の退去に尽力していました。

で、日本国内ではこのとき、
官にも民にも、目立った動きがほとんど見えませんでした。

そのため、バグダッド在留の日本人のあいだでは

「変化球も投げてくれないと・・・。
欧米との関係を第一にするだけに徹しなくてもいいじゃないか。
“汚れた天使”でもいいんだ。もっと実のある対応をしてくれ」


というつぶやきが流れていたようです。

そのようななか、イラク側は、
8月24日を期限として各国大使館の明け渡しを要求していたわけで。
これを受けて、58の大使館のうち、32の大使館が閉鎖を決断。
各クウェ-ト大使館から退去しました。

一方、米国は、この退去要請を断固拒否。
大使以下の少数で死守する構えを示します。
また、英国大使館も職員のほとんどが退去しますが、4名を残します。

日本は、臨時大使・城田安紀夫氏と2党書記官・内藤浩二氏2名
残留することになりました。

けれども、実際のところ
24日の期限が切れる前の22日には
日本のクウェ-ト大使館はすでにイラク軍に包囲されており、
バグダッドとクウェートの大使館間で使える無線だけ
交信手段として残されただけの状態でした。


     湾岸戦争(前のイラクの侵攻)image


こののち、残留者のいる大使館の水や電気はすべて遮断されます。

「ついに水も電気も切られた。トイレも流れない。
冷蔵庫内の物も腐り始めた。日中の室内は50℃にもなる。
あと4~5日持つだろうか・・・」


こんなつぶやきを発しながら、日本の2名は7日間籠城するのですが・・・
その後、ついに大使館を退去します。

一方、拘束された日本人(ホテル組)がどうなっていたかというと・・。

ねばり強い交渉が次第に実を結び、時宜に応じた差し入れが可能となります。
どういう風の吹き回しなのか
ときにはホテルのプールで泳ぐことまで可能になったようで・・・。

後日わかったのは、
先のホテルにいた日本人は実際にはもっと少数で、
多くは密かに別の場所に連れ去られ、分散して隔離されていたことでした。
意外にも、待遇は良好で、
わざわざクーラーも備えてくれていたようです。

 (どこかのカルトの人質とは雲泥の差w)

イラクが、こうした人道的な配慮への申し入れに対して
聞く耳を失っていなかったのは喜ぶべきことで
のちには、拘束されていた「各国の女性や子供たちを
まずは出国させる」
という、喜ばしい動きをとります。

先に婦女子が解放されるに際して、とある日本人女性の夫は、
送り出す妻にこう言っています。

「冷静に行動しなさい。子供たちのことを“よろしく”頼む

この時点では、男性たちにどのような運命が待っているかが
見えていなかった証でしょう。

でも結局、何がどうなったのか、
この女性たちの解放から3ヵ月ほどたった12月6日。
「イラクの“善意”を表明するため」と称して、
幸いにも、人質すべてが解放されたのです。

そして・・・

後に湾岸戦争が勃発、この戦火がほぼ終息したころ
クウェートが自国を助けてくれた「感謝国リスト」を発表します。
ですが、巨額の援助金を出していた日本国の名前は
そこにありませんでした。

 (これは当時、日本が抱えた課題として議論になったはずですが
  のど元過ぎれば・・・で、いまはすっかり忘れ去られたらしいw)


     湾岸戦争(当時の反応)image



ここで、ちょっと余談を・・・。

かつて十字軍の時代のこと。
イスラムの英雄として知られる
サラディン(サラ・エッディーン/サラー・フッディーン)という人物がいました。

彼は公的な「聖戦」(ジハード)を戦います。
ですが、この人物は宗教的な対立を政争の愚に用いることのない、
人間を信じることができて、穏健かつ教養ある御仁だったようです。


1187年の聖地エルサレム解放のとき、
彼は「キリスト教徒には指1本触れてはならない」と厳命し、
実際に、イスラム側による殺人も略奪もありませんでした。

貧しい捕虜は身代金なしで釈放しましたし、
十字軍騎士の未亡人や孤児にも身代金を全額免除。
しかも、贈り物まで渡して立ち退かせたことが伝わっています。

周囲は「これではあまりに寛大過ぎる・・・」と愚痴をこぼしますが、
それに対してサラディンは

「われわれは書名した合意文書を厳格に適用しなければならない。
そうすれば、協定違反ということで後ろ指をさされることもない。
それどころかキリスト教徒は
われらが与えた親切をいつまでも思い起こすだろう」


と言った・・・。

そして、このサラディンと、
人質をとったサダム・フセインは、なんと同郷だったわけで・・・。


片倉大使は、この歴史話を持ち出して
「サラディンの規範をぜひ継承してほしい」とイラクに訴えたそうです。


湾岸戦争(の前の余談挿画saladin)



こうしてみると、

時々刻々と変転する事象のなかで
何らかの交渉を有利に進めるのは
周囲があれこれ考えるより遙かにシンドイものだとわかります。
(考え抜いて行ったことが、213人の拘束者を出したように、裏目に出ることもある)

現在もそうですが・・・
過ぎたことへの力不足をただ叩くだけなら
けっこう誰にでもできて、
でもそれは、あまり建設的でなかったりする。

なので要は、過去を検証しながら
同じ過ちを繰り返さないように
類似のことが起きたら「どう対処するか」の方策を備えておくことでしょう。

でも、どうでしょう・・・
過去の教訓が生かされているとは言えない・・・のが実情かもで。



「トルコがしてくれたこと」から見える教訓


時が前後しますが・・・。

先の「イラクの人質事件」より少し前、
イラン・イラク戦争
(イランとイラクが国境をめぐって行った戦争で“第一次湾岸戦争”とも呼ばれる)
のとき、
イラク軍はイランの首都テヘランにも空爆を始め、
テヘランの在留外国人は空爆を避けるために国外避難を準備し始めました。

1985年3月3月17日。
イラクのサダム・フセインは
「3月19日20時半以降、
イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」

との声明を発表。


       湾岸戦争(の前のイランイラク戦争のとき)image


この宣言後、イラン在留の外国人はそれぞれ、
自分たちが国籍を置く国の「軍隊や民間航空会社」を使って脱出を始めました。

しかし日本は、自衛隊の海外での活動は禁止されていました。

自衛隊が出せないなら、民間機に頼るしかありません。

このとき、「日本航空」はテヘランへの寄港を停止していたため、
日本政府は現地との調整に手間取ります。

そして・・・日本航空チャーター機の派遣について
“会社と労働組合”は、搭乗員の安全が保障されないことを理由に
この要請を“拒絶”しました。

  (ただし、
  日本航空123便墜落事故で亡くなった“海上自衛隊”出身の高濱雅巳機長は、
  真っ先に、救援便の運行乗務員に志願していたと伝わっている)



      湾岸戦争(の前のイランイラク戦争のとき2)image


こうして、期日までの脱出は困難・・となって
国独自としての救出がなされなかった・・・。

そのため、200名を超す在留イラン日本人
脱出方法を見つけられないまま、空爆の危険と生命の危機に瀕したのです。


あのとき、テヘラン在留の日本人は
「どうして自衛隊が助けに来てくれないんだ!!!」と言い、
国は「法律でそれは出来ません」と言ったのです。

 (日本は救援機を派遣した各国との交渉も試みていたが、
  諸国はいずれも、自国民救出で手一杯だった)


結局のところ、戦火のなか、
トルコの航空会社が生命の危険を顧みずに航空機を飛ばしてくれて
邦人が救われたわけで・・・。

トルコにしても、
旅客機を飛ばすには複数の乗務員が必要だったでしょう。
“他国の人々”のために
トルコの航空会社の社員が、危険を冒してくれたことになります。

 (頭が下がる、ありがたいことです)

この話は現在、トルコと日本の「友好秘話」として有名になり
“美談だけ”が伝えられています。


   湾岸戦争(の前のイランイラク戦争のとき3)image


でも、「どうして日本人を救出に行けなかったか・・・」のほうは
詳しく伝えられることはありません。

今後、同様のケースが“起きない”とも限らず、
さて、そのとき日本はどうするのでしょう・・・w。


時々刻々と急転する緊急的事象のなかで
何かの交渉や危機回避をするのは
難しいものだと言うことがわかります。
(また、考え抜いてしたことが、
クウェートからの移動組213人の人質を出したように裏目に出ることもある)


湾岸戦争(前の2Aug1990IraqKuwaitWar)image_convert_20150207030917



現在もそうですが・・・
過ぎたことへの力不足を叩くだけなら、誰にでもできます。

でも本当は、こうした過去の出来事を無駄にしないように、
同じ轍は踏まないように、
万一にでも類似のことが起きたら、「今度こそ、どうするか」
備えてこそ・・・・ではないかなと、今も想っている次第です。



*****


清い意図は、物事を善き方向に変える。
それは、国家ぐるみの場合でも同じ。

ただ、どんな場合でも、やはり・・・

「どのように“善い方向”に変えたいか」という
人の明確な意図と賢慮が・・・必要だ。




殺伐とした情景が何処かにあっても

(湾岸戦争のときの情景)
湾岸戦争(砂漠の上の戦闘機)image


湾岸戦争image



希望は持っていたい。


湾岸戦争(らくださんと)image


     湾岸戦争(こんなこともあった)image



人類みなが“互いの幸せを本気で想う”なら

シャローム(平和)のうちにある美しい情景は必ず蘇る。
それを生むためにこそ
与えられた理知を使う人類でありたい・・・。



湾岸戦争(挿画ドバイの駱駝さん)image_convert_20150207031638


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世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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