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「本土空襲」のいくつかの情景・・・

Posted by 世羽 on 09.2015 歴史もの   0 comments   0 trackback
(独り言)
先日、中国人の出産ビジネスが横行し、
サイパンなどでは新生児の75%が中国人という報道がされていた。
主旨は“米国籍取得のため”とされていたが、はたしてそれだけか。

米・本土のみならず
サイパンに足を運ぶ中国人が多いという点は気になる。

中国政府がこうした行為を止めようと思えば、すぐにでも「禁止」できる。
それをしないということは見て見ないふりをしているということ。

この地は、中国が世界制覇の構想上で設けた第2列島線の上にある。
中国軍部による超・長期展望の“しかけ”が続いている感じだ。

空襲(中国列島線地図)image


そして第1列島線あたり・・・
まさに情報戦の真っ最中だが、残念なことにやられっぱなしの体。


・・・と、下の動きはさしたる表出がないまま、続行中。

(本文は以下から・・・)



空襲(修飾画像燃える夜空)image_convert_20150308234641



戦後70年・・・。


某・新聞に東京大空襲の話が載っていたことから、
ある人と戦争の話になり、
そのあとで、かつて自身が聞いた話しを想い出しました。


東京大空襲のとき


昭和20年(1945年)の3月10日は、俗に言う東京大空襲があった日です。
(このほかにも、東京周辺の空襲は何度も起きている)


自分の身内にも、東京・深川近傍でこの大空襲に遭遇し、
猛火のなか、逃げたくても逃げられず、
とある防空壕で身を潜めるしかなかった・・・にもかかわらず、
“生き延びた者”がいます。

雨アラレと降り注ぐ焼夷弾・・・。

たとえ家屋の下に掘っていた防空壕に逃げ込んでも
そこを直撃されて、落命者を出した場所は無数でした。

そんななか、“その人”がいた場所は幸いなことに被弾を免れ、
火にまかれることもなく、無傷で助かった・・・
本当に奇跡でした。

もし、“その人”が生きのびていなければ
自分はその血統に連なることもなかったですw。

以前、親戚のように懇意にしていた中国人のことを記したことがありますが、
その方のご家族は、このときの大空襲を生き延びて
のちの苦境を“助け合った”者どうし・・・です。

ちなみに、この中国人のご家族が日本にやって来たとき、
「『日本はなんていい所なんだ!』と思った」と話していたとか。


で・・・

東京大空襲について、真っ先に“個人的”に心に浮かぶ逸話と言えば、
横川国民学校付近の話でしょうか。

関東大震災後、東京の公立学校では、
順次、鉄筋コンクリート製へと建て替えが進んでおり、
横川国民学校も、一応そんな校舎だったようです。

米軍の空襲は3月10日、日付が変わったころから始まります。

飛来したB29からは空前絶後の数の焼夷弾(M69)が投下されました。
(このB29の飛来する音は「ほんとうに不気味だった」そうです)


  空襲(B29の爆撃)image
   (イメージ)

投下された「M69」
ナパームと呼ばれるゼリー状の油脂ガソリンを用いています。

木造家屋の屋根など、いとも容易く突き破って落下して来るのですが、
建造物を突き破ると時限式導火線が発火します。

そして5秒ほどのあいだにナパーム油脂に引火します。
すると、瞬時に約30メートル四方にそれが撒き散らされて
辺りが一気に“火の海”と化します。

空襲当日は風が強く、火の燃え広がり方の速さもハンパなくて、
30分もたたないうちに、火は広範囲に広がりました。

逃げ場を失った多くの人が落命したことは、周知の通りです。

空襲(東京大空襲kanoteruo作)image
(kano teruo作)


その、横川国民学校の敷地や校舎にも火が移ります。
ここには最終的に、1000人を超す人々が避難していたと
伝えられています。

当時、学校教員で宿直していた井上有一氏は猛火の様子をこう語っています。

「犠牲者の屍は炭化し、熱でおなかが炸裂するほど。
胎児が露出してしまった妊婦さんもいた」



ナパーム油脂の燃焼温度は、「1315℃」の高温です。

“ごくふつう”の木造の建物や家財なら「約700℃」ほどで着火します。
また、鉄骨材に用いられる鉄の融点は約1535℃・・・。

つまり、焼夷弾のナパーム油脂は、鉄を溶かすほどの高温になるものでした。

しかも、空襲時には多数の建物が類焼していたため、
その輻射熱もあわさって、
火災時の大気は場所によって
数千度にも達していただろう・・・とされています。


空襲(夜間の日本)image


ですから、焼夷弾に直接やられていない人間や動物、家や物が
高熱を受けて発火する現象も生じていました。
「火の海の中を逃げている人の“防空頭巾”も発火した」との証言もあります。

(で・・・自分の身内が“奇跡的に”助かったというのは、そんなわけです)


     空襲(動物も犠牲に)image


B29は1機につき、
最大で3840発にものぼる爆弾が搭載可能だったと言われています。

東京大空襲では、1機あたり少なくとも1000数百発以上を搭載してたとのこと。

米軍は、空襲ごとに爆撃照準点を定め、
爆撃地によっては、約15メートル間隔で焼夷弾が落下するよう
“投下間隔管制装置”を作動させていました。
そして低空飛行を行い、より正確に焼夷弾を投下できるようにしていたのです。

余談:米軍さんにとっても、これは命がけだった。
低空で飛べば、高射砲の的になりやすい。
また、飛来するための燃料調整や、爆弾の積載重量のコントロールのために、
自国機を護る弾薬などの守備能力が著しく下げられていた)



空襲(東京大空襲)image



作家・小林美代子氏の自伝小説『繭(まゆ)となった女』には
この横川国民学校の様子が描かれました。
概要をお伝えすると・・・)

ある女性が横川小学校の講堂に逃げ込んだとき、
そこには既に500人ほどの人々がいて、外は火の海でした。
みなが「もう駄目だ」と覚悟を決めていたころ・・・。


その場にいた将校が叫びました。

「まわりは火に囲まれてしまった。表は全滅だ。
扉の前も炎の海で開けることが出来ない。
自分たちでここを守る以外、生きられない!」


皆は、その声に促されるように
吹き込んでくる火の粉を消しにかかります。


しかし、労も空しく、2階部分に火がまわります。

将校がまた叫びました。
「決死隊の第二陣出ろ! 出るものはいないか、若い者出て来い」


そのときすでに、
講堂の校庭に面した防火用水池の向こうは火の海でした。

それでも、若い男が1名、校庭に面した窓から外に飛び下ります。
5~6人がそれに続きました。

用水池から1メートルほどのところでは、
赤い手押しポンプを使って2階への放水がされていましたが、
紅蓮の炎の中での放水は、あまりに弱々しいものでした。

そのうち、低空を飛ぶB29から油脂弾か焼夷弾が投下されます。

ホースを握っていた一人が直撃を受けて、人形の焔となって倒れました。



小林美代子氏はこう書いています。

「この若者にとって、
われわれ全員の命より、自分の命が尊いはずだし、
少なくとも同じ重さの命であった。

私はその若者が
生き残った私たちの身代わりの、キリストの分身のように思えた」

(小林美代子:講談社:昭和47年)


今でこそ、たとえ戦争と言えども
市民への爆撃・攻撃は厳しく糾弾されます。
しかし、当時の日本は、
そんなことおかまいなしの攻撃にさらされていました。


空襲(逃げる人)image_convert_20150308235530




静岡大空襲


終戦間近になると、本土では、あちこちが爆撃されていました。

東京大空襲(3月10日)ののち、
12日・名古屋、13日・大阪、17日・神戸と、
米軍による主要都市爆撃がつづき、
ターゲットは地方都市へも移って行きます。

これら“名だたる大都市の空襲”の話に隠れてあまり語られませんが
静岡などもかなりの爆撃を食らっています。

たまたま体験者が自分の身内にいて、この時の様子を聞いています。


それまでも、近傍に空襲を受けていた静岡周辺ですが
昭和20年6月19日の深夜、
B29(137機)による大規模な空襲が始まります。
爆撃は20日の未明まで続きました。


空襲(静岡大空襲絵画)image_convert_20150308235259


この空襲を体験した身内の1人(男性)は当時、学生でした。

下宿先の隣家を挟んだ向こう側に焼夷弾が落ち、
あっと言うまに火の手があがったのを見て呆然としたそうです。

隣家の住人は空襲警報とともに、鉄製の蓋がついた防空壕に逃げ込んでいましたが、
火の手がその隣家を飲み込もうとしていました。

隣家全体が焼けることは必然です。
そのままにしていれば、せっかく防空壕に避難した人たちも焼死してしまいます。

成り行きを察知した彼は、咄嗟に隣家に行き、
防空壕の蓋をガンガン叩いて叫びます。

「火がまわってしまいますよ!!! 逃げてください!!!」

そう伝えるだけで精一杯だった彼は、
下宿に飛んで帰って勉強道具を持ち出そうとしたのですが、
すべては、もちろん無理です。
で、無我夢中で両方のポケットに英語とドイツ語の辞書を突っ込み
逃げ出しました。

外を見やると、そこら中に爆煙が立ち上って視界も悪く、
それでも、その爆煙を突き通すように、
いたるところに真っ赤な焔が上がっているのが見えました。

逃げまどう人々・・・。

そのなかには、親からはぐれたのか何人もの子供の集団がいて、
このうち年長の少女が彼を見て
「お兄ちゃん、助けてください!!!」と泣いて訴えてきました。

辺りは火が回ってきてどうしようもなく熱い。

一瞬の判断でしたが、傍に流れていた川で子供たちの身体を川の水につけて
「わかった・・・。大丈夫。僕のベルトにつかまって!!!」
と少女に言います。

すると、他の子供たちもつぎつぎと、数珠つなぎに彼に連なりました。

どこをどう逃げたのかわかりませんが
なんとか火の手をやり過ごし、安全と思われる草地までたどり着いたとき、
そこには乳飲み子を抱えた母子なども逃げてきていました。

一安心と思ったそのとき、
近くに焼夷弾が落ちてくるのが見えました。


   空襲(投下されるもの)image
  (とある投下の様子)


「うわ~~っ!!!」・・・と思っていると
焼夷弾の一部が爆発せずに家の壁にぶつかり、
それが通りかかった見知らぬ男の人を直撃しました。
即死でした。
この男の人はこともあろうに、無事に逃げてきた母子のご主人でした。

この日、彼と子供たちは、
夜が明けるまで、身を潜めるようにして時を過ごしました。

空爆も止んで朝になり、子供たちに「これからどうするの?」と聞くと、
みなが一様に「家に戻る」と言いました。

「戻れるの?」と聞くと
「道はわかるから・・・」
そう言って、それぞれが自宅を目指して帰っていったそうです。

しかしこのとき、市街地辺りはほとんど焼け野原状態だった・・・。


空襲(静岡大空襲)image


1人になった彼は、その後、山側に住む叔母さんの家に向かいます。
道のあちこちには、無惨な姿で倒れ伏す人々(亡くなっている人)がいました。

そのなかで・・・
犬を胸に抱いて綺麗な顔のまま屈むように亡くなっていた少女がいました。
その姿が今も記憶に残っている・・・と、彼は語りました。
(酸素不足による窒息で亡くなったらしい)


静岡大空襲のさいの米国の攻撃方法は、
まず、市街を取り囲むように爆撃を行って火の手を起こし
それから中央部に集中爆撃をして、人々の逃げ場を無くすという、
東京大空襲と同じ攻撃方法をとっていたようです。

そして、この大空襲は、
戦況の被害を敵方に知らせないようにするためもあってか、
かなりのちまで、被災状況始め、空襲の事実自体も“秘密にされていた”のです。

この空襲の地には、「楠木は見ていた」と銘打った心温まる話が
あります(下の画像の文がそれ)

空襲(静岡の楠木)image_convert_20150308234954
(静岡平和資料センターさんのHPより)


戦火を生きのびたこの楠木は、現在では傷みが進行してきたようです。
楠木さんには、どうぞ、天寿をまっとうしてください・・・
と言いたい・・・。

  空襲(楠木2静岡平和資料センターさんより)image
  (静岡平和資料センターさんのHPより)


こうした話の他にも、
米国の爆撃機に体当たりをした日本機の話など、色々と聞き及んでいますが、
その様子はどれも、胸を打つものです。

公に歴史の資料として残っているものには
震天制空隊(空対空特別攻撃隊)による体当たりがあって・・・

      空襲(体当たり)image


静岡近傍で言えば・・・

現在の豊田市南西部上空、人々が見守る中で起きた
群馬県出身代田実・中尉の搭乗する“飛燕”
空中戦を展開し、
7機編隊からなるB29の“先導機”を撃破した話があります。


    空襲(墜落するB29)image


また、場所は異なりますが、
47戦隊所属の栗村尊・准尉などは
自分の搭乗している機の“プロペラで”B29の昇降舵を破壊し、
撃墜を試みています。


    空襲(B29への体当たり成増上空)image
    (鎮魂の旧大日本帝国陸海軍さんのHPから引用)




これまで、遠地や南方方面の激戦地の情景は、
映像化されたりして、それなりに知られたりします。

その影で、こうした各・地方都市の一般市民の被災状況があって・・・
侵攻してくる相手をどうにかして止めようと、
本土の上空で命を投げ打っていた人たちもいた・・・・・・。


空襲(修飾用春花)image



それにしても・・・日本は・・・


これほどの大空襲を各地に受け、果ては原爆まで投下されましたが、

空襲(原爆投下後の浦上)image
(原爆投下後の浦上)


よくぞここまで・・・というほど逞しく持ち直しましたし、

     空襲(逞しい日本人大塚駅付近)image
     (大塚駅前あたりのの露天風呂)


敵として戦った相手を、恨む気持ちも残しませんでした。


これから幾世代が過ぎようとも、
そんな姿勢は清々しく貫いていきたいものです。


*****


人の生命は、過去を生き抜いてくれた人たちの生命に連なっている。

それを想えば、“自他の生命”・・・
肉体の天命が終わるまで、どんなことがあっても大切にしたい。



      そして何より、穏やかな世界の未来を願う。

   空襲(修飾画像チベットあたり)image



        ありったけの想いを込めて・・・。

      空襲(平和な笑顔)image

   空襲(修飾用平和)image

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世羽

Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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