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ブッダの「悟り」は謎のなか・・・

Posted by 世羽 on 23.2013 つぶやき   0 comments   0 trackback
(つぶやき)「私は悟った」・・・そんな言葉をそこ・ここで眼にすると、
つい・・・「冗談かい?」・・・と、思わずつぶやいてしまう。
いつだったか、海外の「悟り」の有名人についてつぶやいたことがあるが
正直にいえば、その人も・・・結局のところ・・・いや、言うまい。

そして、中身を書く前に、こんなのをみつけて笑ってしまった。

「日本のおじさん俳優レベル高い」っていうのに対抗して海外おじさん俳優版作って見たけどレベル高すぎ

なのでもちろん、自分はまったくもって・・・「悟り」なんぞには超ほど遠い。

ブッダのimage

【はじめに注】
以下の文中・・・
仏教でいうところのブッダが、多くの場合、悟りを開いた「釈迦」と同一の表現として用いられているので、ブッダと書いたところは釈迦をさすものとして用い、
いわゆる仏陀・・・「絶対の理を悟って仏になった存在/悟りの最高の位である“仏の悟り”を開いた存在」については、そのまま仏陀として使わせてもらっています。
詳細な説明のできる方が多いなか、未熟きまわりない文脈・・・と思いますが、あしからず。平伏)



いくつもの不思議な経緯、出生をへてゴータマ・シッダールタがこの世に誕生し
「悟り」を得て仏陀となった話はあまりに有名です。
また、その「悟りにいたる道」の大筋も、よく知られていると思います。

そして、このような話もあったりします。

釈迦が生まれた古代インド
そこでは、「須弥山」(世界の中心となる山)の上空に
人間界を超越した神の世界がいくつも重なっていると考えられていました。

そのなかに、兜率天(6つある欲界の第4天。将来仏となる菩薩が住む)と呼ばれる天上界があって、人間の世界とつながりをもつ場所とされていました。
地上に生まれる前の釈迦が居た場所です。
(兜率天での釈迦の別名はあえてはずし、釈迦で通します。ご了承ください)

釈迦はこの兜率天で、その世界での修行をしており、そこには弥勒もいました。

兜率天で修行に励む二人には、
「弗沙」という、彼らを見守る役目の覚者(絶対の理を悟って、仏陀となった存在)がいて
この存在が、釈迦と弥勒の「悟り具合」を見極めていきます。

すると・・・。
そのときの悟り具合は、釈迦より弥勒のほうが進んでいました。

けれども、
先を見通す「弗沙」には、彼らが降臨した場合の、それぞれの状況が視えたのです。

彼らのもとに因縁をもって集う弟子たちの心を「弗沙」が見通したところ
弥勒のもとに集うことになる弟子たちの心は未熟で
釈迦のもとに集う弟子たちのほうが、心が熟していました。

「弗沙」は考えます。

「釈迦牟尼ひとりなら、たやすく導ける。
しかし、弥勒に集う数多の未熟な弟子たちを教化するのは、まことにむずかしい」


そう判断した「弗沙」は、次の仏を釈迦にすることを決定しました。

こうして釈迦は、人間シッダールタとして生まれ、
この世において「仏陀への道」を歩み始めます。
その逸話は、伝えられているとおりです。

たくさんの修行をへて、最後の最後・・・最終覚醒のとき、
シッダールタは3夜にわたる「智の開眼」を経たとされています。

第1夜目に・・・4段階の瞑想をへて、過去世のいっさいを見通す「宿命通/宿住知」を体験します(その過去世には、動物なども含まれています)。

第2夜に・・・天眼が開き、「天眼通」によって、人々が「業」に導かれるままに無限の生死を繰り返す様子を視て、「業」というものの実体を認識したとされています。

第3夜に・・・第1夜と第2夜で得た力で世界で起きているすべてのことを見通し、こうした世界で起きていることを生み出している「法」を悟ります。
つまり「縁起の法」によって、この世界が動かされているのだ・・・と知ったのです。
独立して存在しているものは何ひとつなく、神ですら「縁起の法」に従って消滅を繰り返す存在にすぎない・・・彼はそう受けとったようです。

すべては「法」のままに生じ、法のままに滅する。
人は、はかない欲望に囚われて「業」の輪を回転させているだけだと・・。

こうして一切の苦と穢れを滅する知、「漏尽知」を獲得して
シッダールタは「覚醒」にいたった・・・というわけです。

このとき彼は言いました。今ふうに書けば

「心の欲の汚れ、生存の汚れ、無明の汚れから解脱したぞ!」と。


後世になると、仏教は数十に及ぶ分裂を迎え、大乗仏教が出てきます。

それ以前の仏教は「原始仏教」などと呼ばれますが、
これによると
ブッダは、何と「伝統的」輪廻観を否定しているかのように映ります。

彼は「五蘊」といって、人間が“肉体”と“精神(感受、概念、意志、認識)作用”の集合体であり、この五蘊が霊魂であると説きました。
さらに、これらを結ぶものとして「業」があり、これが因や縁となって鳥獣虫魚、人間、神などの形態を繋ぎ、これがまた業を生み、始まりも終わりもない輪廻を繰り返していると説いたのです。

つまり、輪廻するのは「業」のエネルギーで、個々の魂ではなく、
この「業」を滅すれば、輪廻からの脱却ができる・・・と言いたいかのようです。

その一方、ブッダは「魂は存在しない」とも言っていない・・・。

ややこしい・・・。

なので確かに・・・凡人にはよくわかりません。
で・・・あるときブッダは、こんな質問を受けます。

「魂(アートマン)や世界は、時間や空間に限定されるのでしょうか、それともされないのでしょうか」
「肉体と魂はひとつのものですか。それとも個別のものなのでしょうか」
「死後の存続とは、あるのでしょうか」

釈尊の教えをよく反映しているといわれる「原始仏典」には、
こうした形而上学的な質問に、ブッダは意外にも
“沈黙を通した”と記されています。

さらにややこしいですが、この魂論については
原始仏教の世界的権威である中村元博士が解説しています。
「原始仏教では、アートマンを否認しているわけではなく、積極的に認めている。
アートマンでないものを、アートマンであるかのように解釈することを退けているのだ。ゆえにアートマンを、アートマンとして見なすことは正しいだろう」


こんがらがりそうです・・・。

いずれにしても
ブッダには、「答え」など、どうでもよかったのかもしれません。
なぜなら
答えにしがみつくこと自体がすでに、「業」をつくるものだと考えていたからです。

さらにブッダは
病人に肉体や精神の仕組みを説いて、どうしてそうなったかを理解させたりすることが医者の役目ではない。
目の前に病人がいたら、それを癒すことが先決だ。
薬が効くというなら、その薬を飲ませる・・・という姿勢がありました。

それは、「悟り」というものを理解していない人たちに必要なこと・・・としていたようです。
(これは、ある意味、キリストの教え方と似ています)

悟りを開いたブッダとは、どんな存在だったか・・・。

のちに、弟子たちが、また分裂した派が・・・いろいろな「仏陀」観を打ち立てていきます。
そのうち、通常知られている見方を記すと、こんな感じです。

あらゆる煩悩から完全に解き放たれている。
思考をするのに意識を向ける必要がない。
人が何かを尋ねた瞬間、すでに答えがわかっている(一刹那に、一切法を了知する)。
よって、思惟という作業がいらない。
肉体は人間のようでなく、本体は兜率天にあって、地上での肉体は化身である。
その化身は、果てしないオーラに包まれ、完全無比な神通力を備え持つ。
肉体は一切の穢れ、不浄と無縁。
こうした仏陀は、一つの宇宙に一人が存在している。
宇宙は無限にたくさんあるので、それこそ無数の仏陀もまた存在している。


そんな「仏陀」になったシッダールタ・・・。

彼の入滅後、彼がどこに行ったのか、寂滅してしまったのか、それとも存続しているのか、はっきりとは示されていません。

はっきり言えば、それらを示す文献がない・・・と学者たちも言っているわけで。

実のところ、ブッダの「悟り」が実質的にどんなものだったかも、
学者の皆さんが言うとおり
教典や文献からは明らかにされておらず、不明・・・謎なのです。

おもしろいことに、
ブッダは、輪廻を超越する唯一神(絶対神)の存在を認めていません。

そういうことからすると、「悟り」自体の意味もさることながら
悟って、「ひとつなるもの」という「絶対的な存在」と合一を果たすという
巷に溢れている、多くのニューエイジ的論調に促された書き物は、
釈迦的な「悟り」からすれば、微妙に矛盾を醸し出すことになります。

つまり、「悟り」という意味では使われていない、とさえ言えるかもしれません。

今ではさかんに「悟り」という言葉が連呼されるようになりました。
すぐにでも「悟り」が実現できるかのような記述も見られます。

なぜなら、今で言う「悟り」は
仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、果てはマニ教、はてはキリスト教諸派が融合したかのような「ニューエイジの宗教的哲学」が広まり、
何かしらの光明を得た存在をもすぐに「ブッダ」と呼んだり、
ちょっとしたことで「悟った」と言うような状態が広まってしまったからです。

本来、仏陀にいたる「悟り」の位には数十を超える(52)ものがあります・・・
もし、それらに準ずる意味の「悟り」だとしたら
「悟っている」と言う人は、そのどのあたりでしょう。

実際の多くは、
単に「軽い光明を得た」・・・程度のもので
ブッダと呼ばれる存在が得た「悟り」とは
かなり違うというのが、本当のところではないでしょうか・・・。

だとすると、商売にまでなっている「悟り」とは、
いったい、そう呼べるほどのものかどうか・・・。

それでなくとも、
煩悩を抱えたまま、時に怒り、時に悲しみ、時に自尊心や優越感に翻弄されているうちは
たとえ、一時「悟った」かのように感じても、それは「感じ」が大部分で
事が起きれば、心は千々に乱れる・・・そのぐらいのもの。
ブッダが体験した「悟り」には、ほど遠い・・・これが現実のような・・。

ブッダimage

そして末筆に。

「『悟り』の段階が上がれば上がるほど、
人は謙虚になり、そう簡単には自分が『悟った』と 口にしないだろう・・・。
なぜなら、先が永いことを、実感しているから・・・」


・・・と、心が言っています。



悟ったかどうかわからない程度の悟りは紛らわしいので・・・。
自分はいっそ、かつて話題になった台湾のコマーシャルでも見て
親のことでも想い出したい・・・。





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Author:世羽
心のなかに響く声なき「声」を、ひっそりと語ろう・・
ふと、そう思いたった無名の求道者(?)・・です。
すべての人が幸せに
喜びに満ちて生きることができますように祈っています

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